2001/10/29 Mon |
夜の明け切らない濃紺の空は、くろぐろとした折り重なるように連なるマッスの山並と、それでも2つのものになろうとしていた。
...“M”の最初の記憶にある風景だ。
まるで馬の背のような稜線は“ホースバック”と呼ばれていた。
突如、荒涼とした山岳地帯の冷気のように凛とした意識が、Mの全体に行き渡った。“M”は覚醒していた。
Mはゆっくりと“ホースバック”を下りはじめた。
|
2001/10/29 Mon |
Mは、惑星MZー1が出来る以前から存在していたと言われている。
かなりややっこしいことになるが、簡単に言えばこのときまで植物系として存在した、眠りの無意識から覚醒の意識が突然と芽生えたのだ。光を受けたCCDのように、無意識と思われてたものに明確な意識の輪郭がうごめき始めた。
もともとMとは輪郭の判然としない、原初の様相をした無意識体として存在していた。
この開かれる前の闇は因果律からも無縁と思われていた。
ホースバックで神域の森が目覚めたのだ。
|
2001/10/29 Mon |
荒涼としたホースバックの峠の入り口近く、路傍に若い男がうずくまって動かない。
ぼろぼろの僧衣から修行僧か、行き倒れの乞食のように見えた。
男の眼は失明していた。荒れ果てた手に、正三角形のバラライカに近い形の弦楽器を握りしめて、かすかな息をしていた。今や臨終のまぎわだった。
Mはこの男の魂に同化した。
|
2001/10/30 Tue |
あらゆるものから見放され、ボロ切れのように路傍で臨終を向かえようとしていた男。
その死にかけていた男の身体の中に、真に不思議な凛とした気が吹き上がってきた。
内側しか見えない眼光に、“M”の覚醒した意識が表れてた。
どこまでもくもることのない視野が外界に開けたような気がした。
男は再び立ち上がるや、峠をゆっくり降り始めた。
「なんとも不思議な夢を見たもんだ...。いや、夢じゃない。これは夢じゃない!」
男はひとりつぶやいていた。
「私はあの道の傍らで倒れ、動けなくなっていた。死を待っていたのだ...。私は死んだのか?...そうじゃない!」
つんのめりながら
この5日間を思い返していた。
|
2001/10/30 Tue |
男はこの記憶をたどってみた。
男の記憶...。
臨終の間際に、私に、生まれてからいままでのことが一度におしよせてきた。
いままで忘れていたことすらも現実よりも鮮明によみがえってきた。
...そうだ、私は貧しい家に生まれた。子だくさんの上、病人をかかえ、食べるものも満足にあたえられない両親がいた。生まれてまもなく途方にくれ、私を、とある辻に置き去りにしたのだった。
その後私は旅の一座に拾われた...。6歳のとき人買いに売られた。
それから後は、私の記憶にもあることがフラッシュバックしたのだ。
|
2001/10/31 Wed |
そこに行き倒れて5日目の深夜だった。
人は死に際に自分の一生を見る、という話しを聞いてたので、『はあ、これで私の命も終わりだな、考えてみると恵まれない人生だったなあ。』などと思って涙が出た。
いよいよ意識がとうのいてきたので、『ああ、これで楽になる』と片隅に考えたとこで、そのなんとも言えない夢は始まった。いやこれは夢でない!
そこでは、わたしは1本の巨大な樹だった。想像を超える長い年月を生きて宇宙の星振を浴び、あるとき内包された無意識が芽を吹いたのだ。
深い泉のような知が堰を切って流れ出た。あらゆることが理解された。同時に明解な覚醒が起こった。
これを祝うように周囲の何本もの大樹から、神々しいフェトンチッドが大量に放出された。森は最も長寿の目覚めたものとなった。
|
2001/10/31 Wed |
余談だが、原生林の中に信じられない巨木を発見することがある。そんなとき、この動かない存在におよそわれわれ人間よりも数段ハイレベルの生命を直感させられる...。ここにこの男の見た夢というのは逆に巨木“M”の記憶なのかもしれない。
男の夢はまだ続いた。
アミノ酸の羅列と思える前生命現象から原始的な単細胞や、淡水に遊ぶ粘菌類やアミーバ、それらから数えきれない出来事が起り、現実にホースバックの覚醒に至った、眼の覚めるように鮮明な夢だった。
因果律は、もはや“M”をとらえることが出来なかった。
覚醒した無意識体は、この行き倒れた男の、不幸なたましいの波動にえらく興味を持った。
|
2001/11/01 Thu |
峠の道はいつの間にか明るく白んできた。男の脚どりは、よろよろつまづきながらも、転びはしない不思議な歩行であった。
「私は、寒さと飢えで死にかけていたはずではなかったのか?いったいどんな運命の悪戯だろう?!」
男は独りつぶやいた。
男は、しばらく腕を前に突き出し探りながら歩き、パタリと脚を止めた。
「ん?!...なんてことだ!私の人生そのものが、運命の悪戯じゃないか?!わははは!!こんなことは思いもよらなかった!」
男の、物心着いた時から被っていた、取りようのない厚い雲に切れ目が生じた。
再び歩き始めた、よろついた脚どりは軽さを増した。
|
2001/11/01 Thu |
そう思うと、山岳地帯の空気の冷たさが、南方の熱帯まで、ひとつづきになっていることを実感覚することが出来た。
幼児期、人買いからせっかんを受け失明し、いまのいままで、眼がみえないことを最悪のことと捉えていた自分であったが、男は、心の眼が開いたような気がした。
「見える...。見えるぞ!これは...、眼じゃない!直接わかる!なんてことだ!」
そこに立ちすくんで叫んだ。
男は、しばらく呆然とその場で天を見上げていたが、眼下のまだ見えない街をのぞき込むような姿勢をした。そのよろついた不思議な脚どりで峠を下って行った。
|
2001/11/02 Fri |
峠を降りた山裾野に古くから開かれた寺院があった。
折しも境内は、ご本尊12年ぶりのご開帳で近隣諸国から参詣の人々が集まり、大変な賑わい、雑踏であった。
幟がはためき、市が立ち、大道の芸や乞食にあふれてた。
ここにあの男の姿も在った。即興詩を語り、使い込んで黒光りする正三角形の弦楽器を弾き鳴らしていた。
|
2001/11/06 Tue |
その音色をききつけてひとりの老人がはたと脚を止めた。近寄るとしばらくの間、男を穴の開くほど見つめていた。
歌が終わり、一段落ついて人が散った時に、男の目の前に老人はササッと進み出て、男に某か渡し、しわがれた声で喋り始めた。
「妙なる音色じゃ...、お前さんのそのギターはどこで手に入れなさった?できれば、ここにある持ち金全部でお譲りくださらぬか?」
老人が聞いた。
「これはどなた様かは存じませぬが、ありがとうございます。これは、わたしが生まれた時より私と共にある楽器であります。不思議に手放そうとしても、あちらから舞い戻って来たこともあるぐらい因縁の深いもののようでございます。そのようでございますのでごかんべんのほど...。」
男が言った。
「む、...。」
老人は黙ってしまった。
|
2001/11/06 Tue |
「...それはまことですか!?」
喋ると、老人は口をあんぐり開けたままになった。
「はい、私は生まれてまもないころ、この楽器と共に 3つ辻に捨てられていたそうです。これは、どのように売り払っても戻ってきます。どうも不思議な因縁で結ばれたもののようです。」
男は遠くを眺めるように言った。
「な、なんじゃと!?これは話さにゃならん!実は、この“月のギター”はこの寺の代々伝わる秘伝の宝物じゃったが、51年前に寺に火災が在った折に、どこかに失われ、行方知れずになっておったものじゃ、12年に一度の、この法要にお戻りになったので...。なんと言うことじゃ、と驚いて居る次第じゃ。わしはこの寺の長老じゃ。」
老人は腰が立たずにいた。
|
2001/11/06 Tue |
「なんということでしょう!?私はきのうまで峠で行き倒れ、死の淵を彷徨っていました。この楽器が故郷にもどるために、私の命を延命させてくれたのかもしれません。長老様、どうぞこの楽器を、納めてください!」
男は見えない目に涙を溢れさせて楽器を差し出した。
「いやいや、これは大変な因縁があるようじゃ。寺に代々伝わる話に、末世にこの“月のギター”とともに救世観音の生まれ変わりが出現する、というくだりがある!しかも今日はその
救世観音様の12年に1度の法要日じゃ!...なんということじゃ!」
長老は、目をまんまるにして男を凝視した。
いつのまにか男と、長老の周囲は、大変な人垣が出来ていた。
「生き仏様の出現じゃ〜!!」
「大変じゃ、大変じゃ〜!!」
やじ馬が大声でふれまわった。群衆のどよめきとともに、寺は大変な騒ぎとなった。
|
2001/11/07 Wed |
“16世聖徳”男はこう呼ばれるようになった。
このとき数々の奇跡が起った。
彼の行くところ、高貴な樹の香に満ちたすがすがしさが立ち込めた。
おわり
|