ある男が上を向いて、何事かを見定めると奇妙な顔で言った。 「待ちなさい、おや?あなたに功徳の相がでておるぞ? 「ああ、しまった。御坊の言うとおりだったな。しかし、俺は何もない普通の男だ、とりたたてよい事をした憶えも無い…。ただ素直に笠をお借りするんだった。」 やっとの思いでたどりついた雨宿りの大樹の下、着物を脱いで下帯だけになり焚火をした。 そこに白い犬がどこかからか来て急に口をきいた。 男はすっかり狐につままれた思いでしばらく天を仰いだ。 男は、さては先ほどの犬と女かと思うと、胸がつまった。
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その後裔八代目、笠屋犬治郎は、高利で金貸しを行ない巨万の富みを築いていた。 しかし、21世紀、巨大に成長したこの犬のマークの会社には、人間的なものがすっかり失われていた。
石油、農産物の先物取り引きに於いて莫大な利益を上げ続けた。
反動で、アフリカでは食料の異常高騰から、餓死する者がうなぎ上りに増え続け深刻さを増していた。
その張本人は自覚を失っていたのだ。 ある午後、丸の内に在る本社の犬のマークが突如落下した。
腕を摩りながら、犬治郎は朦朧と中空を見つめた。 |
その托鉢僧は、本社正面に、まるで浮遊するような足取りで鐘を揺らし登場した。 犬萬ホールディングスのCEOである笠屋犬治郎には、まったく理解が出来ない事であった。 すべてに於いて企業の利潤が優先するのは、世界でも暗黙の了解があったからだ。 ガソリンが高騰したり、農産物が乱高下するのは、あたりまえで、その事で人が餓死するのは現象でしかなかった。 数日前、突然本社に現れた坊主に説教をくらうまでは、犬治郎は疑いもせずにそう思っていた…。 その夜から…夢をみるようになった。あの悪夢だ。 |
寝床を前にして、犬治郎は頭をかかえた。 そう思い至った瞬間に、全身から勇気が湧いてきた。 |
援助物資とはいうものの、飢餓の状態にある者の口に、容易に届かないのも事実である。 犬治郎の思い立つと止まらない性格は、アフリカ現地の飢餓の現場に、自身を立たせた。 …そこに流浪の男が現れた。 長身で長い杖をたずさえて頭巾を被り、古典的ないでたちだがひどく襤褸けていた。 犬治郎に寄ると、いきなり男は梳歯の口で耳打ちした。 |
「何だあんた?それより水は何処に在る?」 |
犬治郎と土ブタは、夜明け前から月明かりの砂漠を歩いた。 満天の星はめぐり、明るくなって月が西の空に残っていた。 やがて猛烈な輝きを見せて太陽が昇ってきた。 犬治郎は革袋に一杯の水だけを持ち帰った。 |
犬治郎はアフリカに来て判った。 …人間一人水を手に入れるのもなまなかでは無い。 犬治郎は満で六十歳の誕生日を迎えていた…。 自分がこのようにして還暦を迎えるとは夢にも思わなかった。 |
利を無視して動く事が出来るのは、情の在る人間だけである。 人の救済は、人がする以外に無いのだ! 緊急物資が取り引きに利用され、必要な人には届かない…。 …死に瀕しているのは、むしろ人間全体なのではなかろうか? ここで起っている崩壊はすべての人間、人類そのものに起っている大問題だと正直犬治郎は思った。 犬治郎は、勝手に付いてくる土ブタを引き連れて行動を起した。 『世直し事業』を破竹の勢いで始めたのである。 「まず取りかかるのは農園だ、己で食うのものを己で作る。」 犬治郎は、犬萬ホールディングスに現地事務所開設を要請した。 「ぶひ、旦那といると俺は何か善い事をしてる気になるぜ…、この俺様が?まったく前代未聞だよ。 ぶひぶひ、人の役に立った事がねえのが自慢の俺だがね、ぶひ。おいココット兄、旦那の昼飯を調達してこい!」 ココットとは取り巻きの手下のココット三兄弟のことだ。 土ブタに始終くっ付いて、あれやこれやと細かい使いに明け暮れる子供達は、日に日に数を増していた。 「エネルギーも食料も、みんな直接に解決することにする! カギは自給自足農園と屎尿エネルギーだな…。 必要なのは水!土ブタ、貴様の出番だぞ 。 …しかし、えらいやつに見込まれたもんだ。 土ブタ、その旦那はやめろ、犬治郎でいい。」 |
犬治郎、いや、今や子供だけでも100人は超える大集団だ、犬治郎一味といった方がいいかも知れない...は、地元の古来からの主食であるヤムイモの栽培に乗り出した。 |
「静にしろ!大人が全部悪い訳でもないだろう…。 長老のヒエンは物知りだ、ヒエンなら知ってるぞ、どうしたらいいかな!」土ブタが言った。 ココット小兄と弟が、ヒエン長老にさっそく聞きに出かけた。 家が見える場所まで来ると、マンゴーの木陰から木琴の音が溢れて来た。 マンゴーの木陰でイスに腰掛けている長老のヒエンは自称百三十六歳だった。 輪郭が壁に揺れる木陰にすっかり同化して、小柄で皺だらけの顔に光る眼が二つ在った。 「…お前は、ココット小兄と弟か?よく来たな。うーむむ、答えは、こうだ…。」 突然、今まで音楽のように聞こえていた、ころころ転がる水のような木琴が、こう喋った!? 「精霊を呼べばよい…。ヤムイモの精霊だ。」 「え?どうやって呼ぶのだ?」同行した犬治郎が思わず口を挟んだ。 すると、再び木琴がころころと、こう言った。 「満月から新月までの毎晩木琴を聞かせると現れるだろう…。 そこでこう頼め、『子供らが皆飢えている。』とな!」 「ココット小兄と弟よ!その男を連れて行け。」 長老は、側で木琴を弾いていた男を貸してくれた。 |
長老ヒエンの家を後にしての帰路で、犬治郎は木琴弾きの男に訊ねた。 「…ヤムイモの精霊が本当に居るのか?」 「勿論だ。犬のパパ、悩むな!木琴がきっと教えてくれる。」 その時、木琴弾きの男は深々と被った帽子を取り、犬治郎を見て笑った。 犬治郎はその顔にショックを受けた! …聞き覚えのある声、この顔! そうだ、あの僧だ!あの日、突然犬萬ホールディングスの社長室に現れた、あの托鉢僧だ!? 「誰の心にもここでは、まだ自然霊が宿っているのだ…。」 そう言うと、木琴弾きの男は再び真深に帽子を被り直した。 |
その日が満月だった。 …ヤムイモに満月から新月までの毎晩木琴を聞かせる…。 ♪さあさあ、にょっきり顔をだせ♪ ♪ 日を追うごとに盛り上がりは、ピークに達していった。 |
鼻をつままれてもまったく分からない程の濃い闇夜だ。 皆が口々に卑猥なセリフを怒鳴った後に、木琴が饒舌に喋り始めた。 ダンスと歌は頂点に達していた。 ヤムイモの精霊が黙っておれず、ついに現れた。 「やあやあみんな、俺の好きな言葉を唱えてくれたね。俺も嬉しくなって来たよう。 さあ!腹が減っているのは誰だ?あんたか?あんたか?ほいさっさー、ほいさ。 俺を食え食え!いっぺんに腹を膨らませるぞ!腹ぺこでねえかあ?」 木琴の音は、突如このように聞こえた!? その姿は真っ暗で何も見えないが、空気がねっとりした。 「子供らが飢えてる!大人もだ、みんなよろしく頼んます!」 闇の中、犬治郎の怒鳴る声がした。 するとまたまた木琴が喋った! 「ほうほほー!腹ぺこばかりなのかあ?それなら俺をまるかじれ! 腹ぺこはいねえか?腹ぺこはこっちゃ来い。」 そのねっとりした空気を食うと口の中でねっとりしたイモになった。 そのねっとりした空気を捏ねると、ねとねとして手の中でフフという食べ物になった。 「うめえ!」子供らは狂喜した。 「かあちゃんに食わしてえ!」別の声も叫んだ。 「おらもだ!瘠せた病気の妹にも!」 ココット弟の声だ。 |
「…精霊が出た?」 犬治郎は、あらためて信じられないという思いを新たにした。 食料は商社などにとっては、只の物資であり、取り引きの対象であったが、忘れ果てていたことに精霊の世界のものなのだ!? 「そんなバカな?これは事実か…?」 この歳になってまったく保然としてそのイモを見た。 「犬パパ!ヤムイモも知らんの?」鼻を垂らした子供がフフを犬治郎の口に入れた。 「でも食べ過ぎちゃいかんよ、お腹一杯は毒だってじいちゃんが言うよ。」 別の子が犬治郎を見上げて言った。 犬治郎の目に涙が光った。 日本人もこんなはずじゃなかった!貧しいのはまったく俺達の方だ…。 犬治郎は、あらためて西洋化された社会が、破壊的な様相を持つ事に強く危機感を持ったのだ。 思えば大航海時代から、西洋文明の搾取の地として今だアフリカがされたままなのだ。 日本もまったく然りだ…。 すべての間違いはココから始まったかも知れなかった…。 「誰も止められないのか?」 腹の中から絞るように犬治郎はつぶやいた。 …日本では食事の前に誰も 「いただきます。」を必ず言う。 これは、精霊そのものへの感謝であったのか…。 「われわれは何に対しての感謝をしていたのだ?」 犬治郎は突然吐き出すように言った。 闇に向かうと、犬治郎は口にフフをほうばったまま涙ながらに怒鳴った。 「くそ!いただきまーす!」 |
「…食う前にそんなこと言うのは人間だけだな。俺はがつがつ食うぞ。」 あの闇からの火矢はとても人間わざではないと、興奮ぎみに土ブタは言い切った。 |
しばらくすると、火矢が再びバラバラっと射込まれてきた。 「いったいどうしたんだ?誰の仕業だ?!」 犬治郎が叫んだ。 森からは、二メートル半もあるブリキロボットのような武装兵士が、十体ほど音も無く出てきて、 緑の火を森の向こうに投げ返し始めた。 顔や身体に塗った塗料からまるでたくさんの踊る外骨の様に見える。 子供らみんなは、やんやの喝采を上げた。 どことなくその動きは頼もしくも有るが、むしろユーモラスだった。 転ぶとバラバラになるが、すぐにまた不思議な力で組み上がるのがなんとも笑いをさそった。 いきなり雷の雷鳴の様な音が響いたと思うと、なんと!側に居た山羊の口を内側からこじ開けるようにして木琴弾きの男が帰ってきた? 「ふう、残念だが取り逃がした。」 そう言うと、そのままそこに落ちて伸びてしまった。 「…肝が帰らんな、ミモザの花とハイエナの尻尾を持って来い。」 長老の一人が若者に言った。 「この男の本当の名を述べながらミモザの花のついた枝で囲み、尻尾で鼻廻りを擦れば、帰らぬ胆魂も戻るだろう…。」 「メロンマンだよ。メデスンマンのメロンマンだろう?」ココット小兄が言った。 「いや、メロンマンではない…。本当の名だ。メロンマンではびくりとも動かぬ…。」 長老は皺に皺を入れ困った様な顔をした。 「この男の本当の名なら俺が知っているよ。コンガラ童子だ!」 犬治郎が横合いから口を挟んだ。 「犬の旦那、ホントか?ブヒ。知り合いか?」 「ああ、知り合いだとも、間違い無い。俺の目を覚まさせてくれたコンガラだ!」 「おお、コンガラか?コンガラ、コンガラ、戻って来い。君の身体はこちらに戻っているぞ。怒りを鎮めてすぐにも戻って来い。 戻らぬと手後れになる。」 長老が押えた山羊の開いた口の中に呼びかけた。 |
犬治郎は、一部始終を目玉を丸くして見守っていた。 その時、誰も弾いていないのに、木琴の上のバチがひとりでに踊り始めた。 |
一方、コンガラの胆魂は怒りを鎮められぬまま、異界を彷徨っていた。 そこは、異様なほど薄気味悪い感じがして、上から何物かの霊気が流れ下る滝の様なところだった。 コンガラの胆魂は、この世のものでない加速を続け、異界の天井をぶち抜けた。
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コンガラの胆魂はますます速度を速め、無となって次元を突き抜け、逃げおうせたと油断している魔の気魂の軍勢に追付いた。 そこには、空間一杯に漂う暗い暗褐色の何かが充満していた。 コンガラの胆魂は、いきなりそこに怒りの昇華した霧を吹付けたからたまらない。 |
半信半疑、木琴の喋りを聞いていた犬治郎は、天からばらばらと降ってくる蛆を見上げて仰天した。 「本当だ!おい、みんな。 この蛆どもを踏み殺せ!一匹残らずだ! こいつらが敵だ!」 犬萬を通じて、犬治郎の耳に素早く世界各国で蛆の降るニュースが、緊急に届いた。 東京では大騒ぎとなりパニックが襲ったという。 人々は踏みつぶす事も出来ず、大人も子供も逃げまどい、清掃局と保健所に頼る以外何もできなかったそうだ…。 犬治郎は情なさに涙が出た。犬治郎は膝を折ってその場に号泣した。 |
日本では、蛆などが自分の目の前に曝される事など、現在ではほとんど無い事も事実だった。 見たくないものは、自分の目の前からいつの間にか消えていた…。 これというのも、公共のインフラが隅々まで整い、上下水道、電気、ガス、などの普段意識しない線でつながれて生活しているからだ。 普段食べている肉なども、目の前で屠殺を見る事はなどはまったく無い。 人の誕生や、死さえ、家庭から目に見えない場所に隔離されて、人間が生き物である事までが忘れ去られようとしていた…。 犬治郎は、犬萬ホールディングスでも同じ事にぶちあたたことがあった。 |
土ブタが同情の顔つきで言った。 犬治郎は、すぐさま直行チャーター機を犬萬現地支社に早急に用意させた。 年令も名前も定かでない長老の出国に、難色を示す大使館員らに、金を握らせてただちに解決し、 犬治郎は、なんとその日のうちに土ブタと数人のお伴を引き連れ、日本へと飛び立ったのだ。 |
離陸したジェット機の窓から広大なアフリカの暗い大地が見えた。 土ブタや長老は、その景観に興奮して大騒ぎをしていた。 同時にジェットの機体は知らぬ間に入った暗黒を抜け、ふたたび明るい星々の中を飛行した。 ふと目を移した窓の外にコンガラの顔が覗いた様な気がして、犬治郎は目玉をますます見開いた。 |
東京タワーの夜の展望室では論争が起っていた。 魔界の、三人の頭のある王が人間界の非業な最後について謎を掛け合っていた。 「俺は、右回りに廻りながら軍勢を注入して、人体もろとも粉々に砕いてゆく行く方式を取りたい。」 「貴様の方式では人間は楽なものだ、わしは絶対に左に廻りながら内臓からぶっちぎり、この上も無い苦悩をまき散らす方式だ。」 「いや、その方らのやり方では、まったく生温い、方向は上だ!すべてを坩堝に誘き寄せ上から頭から剃り下ろして血の雨を降らせ、ふいに圧搾する方法が最も良いのだ。」 三人の声が揃った。 「それでは風味が失われてしまう!わっははははー!」 そのような訳の判らぬ事を云っては、人の魂の干物をむさぼり食っていた。 「やはり天日で干したものが、極上だ。」 「うぬ、半生も俺の好みだがな。」 「恐怖を味わって絞めたやつは格別味が良いからな。」 まるで何処かの呑み屋で、おじさんが一杯やっているかの会話が交わされていた。 その頭から胸にかけては三つ有るが、下半身は腹から一つだった。 東京はすでに、自衛隊の出動をみるまでも無くほとんど一日で壊滅状態だった。 都民の八割方は魂が抜かれ、半数がすでに干物にされていた。 一夜にして大勢の魂を抜かれたゾンビ人間が歩き回る異様な廃虚と化していた。 「ちくしょうめ!コンガラは俺達の大事な軍勢を実体化して蛆にしてしまいやがった。」 「アフリカから老いぼれのメデスンマンがやって来るぞ。」 「犬治郎という阿呆も帰ってくる。」 三人の声が揃った。 「なんじゃーそれ、屁の突っ張りにもならんわい!わっははははー!」 暗い東京の夜景に、三人の頭の大王は再び乾杯のグラスを合わせた。 |
一夜にして変わり果てた東京、その原因の中心が眼下にあった! 展望台の真向かいに巨大な花が見えた。つまりその高さは東京タワーに匹敵していた。 機は横田米軍基地に緊急着陸の申請をした。 |
「一夜にしてとんでもない事になったらしい。」 犬治郎は着陸すると、ただちに犬萬ホールディングスに電話した。 一時間もしないうちに、ガードマンと側近の社員がすっ飛んで来た。 犬治郎らは、米軍基地内に在る犬萬ホールディングス系列のホテルに向かった。 「蛆は清掃車が回収して焼却処分したらしい。 しかし、その直後に、感染するように人がばたばたと死んだと思ったら、その死者が夜間に徘徊を始めたらしい。…いったいどうなってるのだ?」 犬治郎は、首を捻った。 「それはな、蛆を潰さずに焼却処理したからだぞ。 やつらは焼き払うと夢体化して人間に入り込む事ができるようになるのじゃ。 そうなると人間の心臓は止まり、ゾンビとなる。」 顔中皺だらけの長老が、ハイエナの尻尾を呪文とともに立ててゆっくり降り払うように喋った。 「ブヒン!ゾンビ?煮ても焼いても食えねしろものだ。 国は無能だぞ。どうするんだ?旦那。ブヒブヒ。」 土ブタが、口のチョコをころがしながらちょっと笑った。 長老の手に持つハイエナの尻尾は、突然ゆっくりと立つと自動的に方向を示して動き始めた? 「ついて来なされ。」 「ど、何処に?」 「ブヒブヒ、ああ、きたぞ、まったくアフリカの奇跡だな、ブヒン。野性動物を大事にせにゃね。」 土ブタらも後に続いた。 |
MXTVは電波を乗っ取られたまま、ラフレシアの映像を流し続けた。 「俺が見たのは、…これだけじゃない。」 |
その映像は、今も鮮明に鹿男の眼に刻まれていた。 ほの暗い闇に林立するラフレシアがポツリポツリと光っている? 暗いシルエットにしか見えなかったその蟻塚のような形態に、僅かだが発光が見え始めた。 「夢の原形化だ!貘だ、貘が来る。そうだ!あの夢を喰う、貘…。」 やがて無数の蛍光発光が銀河の様に見えるさまを、固定カメラは生中継映像に映し出した! 光を発しているのはゾンビの口であった? いや、正確には、ゾンビの口から何者かが這い出て発光していた…。 無数の白蟻の様な虫が這い出てきていたのである。 ラフレシアを巣として数千万の虫どもがぞくぞくと暗い塔を上っていた。 或高さまで来るとそれは花の内部に流入していった。 そら恐ろしくもあり、まったく美しい光景である。 三人頭の王の一人が叫んだ。 「夢の原形化だ!これは台本にはないぞ?」 「俺も知らん。」 「以下同文。」 展望台からは、まったく美しい発光が目の前一杯に広がっていた。 「夢の原形化など、まったく俺は興味はない。」 「虫どものわしらの軍勢が、“夢化”に変態したのかも知れんぞ?」 「む、利を得るには含む損も在る。“夢化”に変態した虫のコントロールには、魂を戻さねばならん…。」 三人頭の王が声を揃えた 。 「それはやりたくない!すでに俺達の干物だ。」 「ふふ、わしら、これだけの魂の干物さえ手に入れればもう、十分用済だ。」 「無垢時空に戻るのが得策だ。うるさいコンガラのやつが出んうちにな。」 「ああ、戻ろう。蛍光虫が、せっかくの美しい戦慄の闇の花見気分を台なしだ!」 三人頭の王が声を揃えた。 「さらば、人間ども!」 瞬間に、奇異な姿も展望台から消えていた。 それを追う様に、とてつもない鋭い閃光がタワー上空から走ったのが見えた。 |
犬治郎、長老らは黒塗りのセダンに分乗し、東京タワーを目指して五日市街道を東に向かった。 ゾンビの襲撃を避けて、車は本道から外れ裏街道をひた走った。 小金井近辺まで来ると、長老の目があらぬ方を見て神がかった、長老はハイエナの尻尾をピンと真直ぐ立てたままだ。 「…さあ今から、喚ぶぞ。 サバンナのもっとも神聖なるものを喚ぶ事としよう。」 |
長老の身体は時折吹き上げる強風に吹き崩れそうになった。 だが、空中に差し出された呪術棒は、不思議な固定をしてまったく揺らがなかった。 …その棒の先に瑠璃色をした数十匹の、見たことも無いトンボが出現した。 「“ご祖先様のおかげ”? いったい人と云うのは、どこまでの深さを持つものなのだろうか…?」 |
「ブヒン、長老、ところで、サバンナのもっとも神聖なるものってのは何だ?ブヒ」土ブタが聞いた。 「おお、それを忘れとった。 最近めっきり物忘れがひどくてなあ、塔に戻ってくれ。」 拍子抜けをした長老に一同やられてしまった。 笑い声が多摩の真っ暗な大空間に響いた。 土ブタは笑い転げ、犬治郎は大笑いをして片腹が痛くなった。 側にいた犬萬のガードマンさえ塔から落っこちそうになった。 「おぬしら知っとるか?夜のサバンナには、眠りを食べる生き物がおるんじゃ。 今も暗黒のアフリカにはおる。 人は夢を見ると額に瓢箪の様なものがぶら下がる。 それをよう食べに来るんじゃ。 朝になるとすっかり見た夢を忘れてるじゃろう、そいつの仕業じゃ。 象のように鼻が長くて、舌はカメレオンのように巧みじゃ、鋭い爪を持ち、その舌で夢だけを取り出して食べる。 この霊界の小さな動物が星の数程の年月を生きて祖霊化したのが、巨大なキンタンゴだ。 キンタンゴは、教えるの意味じゃ。 何を教えるのか、誰もわからん。」 天に向い呪詛し始めしばらくすると、やがて長老は額から脂汗を流した。 なおも産む苦しみのように唸り呪詛を続けた。 犬治郎は西の方角の空からドオンとした気団の様なものが迫って来るのを察知した。 低空で来た気団がそこを通り抜けると、地鳴りとともに闇の空間に光る虹色の尾が何本も引くのが見えた。 「さあ、皆の衆、今度こそ出立だ!」 |
長老のトンボ・クトゥが東京タワーの展望台に降り立った。 呪術棒の廻りに美しいブルーのトンボが集積すると、輝きとともに一瞬で消えた。 |
キンタンゴは、ラフレシアを巡り“夢”を食い続けていた…。 しかし、ラフレシアの急速な増殖と、ゾンビの原形化は唯事ではない数に上っていた。 まるで、違う惑星の、違う発達をとげた生物コロニーを思わせた。 |
生き残った都民は最初はびっくりはしたが、ゾンビが花に寄せられて注意をこちらに向けて来ないのと、たかが花の事だと他人事のように構え、自衛隊がダメでも、そのうちアメリカ軍が何とかしてくれるとタカをくくっていた。 「待て!」 |
鹿男は自分の目を疑った。 緑色の発光体が自ら立ち上がり人の形をとったのだ。 「触れてはダメよ。」 若い女の声がした。 「わたしは実体のないラフレシアの霊です。 今、私に触れるとあなたの夢の原形化が起ります。 あなたの心にあるものがそのまま実体化してしまいます。」 声は、あらゆる女の声が混ざったものに変わった。 その緑色の身体の中に、幼子、少女、若い女、年増の女、老婆、あらゆる女達の幾千の相が現れては消えていくのを、鹿男は驚きの顔で見つめた。 「女ばっかりだ…?」 鹿男は、自分の幻覚がそこに現れたのではないかと一瞬思った。 「せめて、花に収まるまで待って。」 再び若い女の声がした。 発光体は、ふるいつきたくなる様な若い女になった。 「うそだろう!あんたは只の幻想だ。 こんな腐ったところに霊が憑く訳が無い、激烈な腐ったやるせない臭いが生み出す幻覚だろう。 俺はひねくれた超能力者だ、俺は一目俺が見えなかったものが何なのか見てみたいだけだ。 ラフレシアの実体! 俺には、見えない!ここのところだけが透視出来なかった! 幻影には用は無い! …触ってみれば判るのか? マスコミでインチキ呼ばわりされた以降、いったい俺がどんな思いで生きてきたのか教えてやろうか? 泥棒め!実体化させてみろ!お前は只の幻影だ、…お前の正体を暴いてやる!」 鹿男は女を捕まえようと飛びかかった! しかし、緑の人の形は目の前を崩れ去った…。 |
鹿男は自分の身体が瞬間に熱くなるのを感じた。 胸から、脇から汗が溢れるように湧き出した。 突然身体から何かが抜け出て行った…? 身体が、ラフレシアの花弁の中へ溶けて流れ落ちたところまでの記憶の後は、身体から何ものも消え去った…。 鹿男の邪悪な思念と強烈な憎悪のみが、ラフレシアの夢の原形化作用により実体化したのだ…。 それを、以前になんと皮肉にも、…鹿男自身が予知したのであった。 |
「東京はどうなってしまうんだ?」 犬治郎は展望室からかぎりなく増殖を続けるラフレシアの森を眺めていた。 「ブヒ、旦那、あながちビルばかりよりも俺はイイように思えるぜ。 あのキンタンゴだって、アフリカっぽくて実にイイ味だしてるものなあ、俺は好きだよ、この東京。ブヒブヒ。」 「お前はケダモノじゃからのー。」 並んで見てる長老が言った。 「キンタンゴの速度はどうにかならないのですか?長老。」 「ああ、あんなものじゃ!」 「ゾンビの都民がみんな死んでしまう…、いや、正確には死んでる、死体が、ああ、ややっこしい!」 「わしの知るところでは、魂を戻せば、ゾンビならまだ戻せるかも知れんからな…。」 「本当か?長老。 三人の頭の大王から都民の魂を取り戻せばいいのか?」 「そのとおりじゃ。」 「ブヒブヒ、やつらは無垢空間に逃げ込んだんだとよ?ブヒン。 大人の隠れ家か?まだガキだな…。」 「土ブタ、その無垢空間って?知ってるのか?」 「…行ったことはねえがね。生まれる前の穴のようなとこさ。ブヒ」 「こやつ、穴には詳しいぞ、土ブタじゃ。」 長老は遠くにキンタンゴを見据えたまま言った。 |
キンタンゴの行動をつぶさに眺めていた犬治郎は、不思議な行動に気づいた。 このオオアリクイに似た巨大な霊獣は、 昼間は勿論夜半まで、ふさふさの毛に丸まって長い眠りについてしまうのだ。 ラフレシアを巡りその長い舌を花に差し入れて、あの発光体を舐めるのは、日没後の数時間だけなのである。 その他の時間をほとんど寝ている事に気がついた。 「長老、キンタンゴは原形化した夢を食って眠る…、くさいな!そこには何か大きな秘密が在るだろう?」 「そのとおりだ。」 長老の奥目が光った。 「人は眠りをただの休みとしか知らない。 じゃが、キンタンゴは眠りの中にこそ本質を持つものじゃ。 ああやって眠りに落ちているときにこそ不可思議なものに変容しておる…。」 「ブヒ、俺にはキンタンゴのやつ食い過ぎて寝てるだけにしか見えねえ。 俺ももう少しチョコを早く知ってたら、人生余計な行動はしないね。 チョコを程よく食ったらぬくぬくととろけるように眠る!なんと甘いデカダンスなんだろうか!ブヒーン!」 土ブタはすっかりチョコにやられていた。 |
「昔からこう言われておる。 サバンナで、キンタンゴの寝ている姿に出くわしたものは気が狂うとな…。 どうやらキンタンゴが眠ると、夢の異世界へ通じる穴があちらこちらに出現するのかも知れんのじゃ…。 どうにも、まともに帰って来たやつがおらんのが気に掛かるところじゃがの。」 「ブヒ、俺の言った、生まれる前の穴だ!」 土ブタも身をのりだしてきた。 「なんだと?無垢空間ってのにも繋がっているのか?車で行けるか?」 犬治郎の目が輝いた。 「うわあ、社長、私は嫌ですよ!」 犬治郎の運転手が大声を張り上げた。 「バカモン!人々の魂を戻す正義に怯むとは何事だ。」 「強制はイケマセンや旦那、ブヒ。 “自らの冒険心が無ければ夢は恐怖に変わる…”土ブタ座右の銘、ブヒン!」 「それもそうだ。」 |
「穴に行かねばなるまい…。」 長老は呪術棒を覗きキンタンゴを凝視していた。 しばらくはそのまま覗いていたが、そのうちにいびきが聞こえてきた。 「ブヒ、長老、目玉に杖あてがって寝てる場合じゃねえぜ、ブヒ。」 「年寄りなんだ、しばらくそっとしておこうじゃないか。」 犬治郎が上着を脱いで長老の肩に掛けてやった。 しばらくすると、呪術棒が独りですっくり立った…。 「おお、なんと、眠りが真実を教えてくれた! 穴は見えぬが反応は有る! なんと、なんと、今はここの真下じゃぞ?」 「瓢箪とかヘチマとか言っておれんな!すぐ出発だあ。」 犬治郎は立ち上がり、すでにエレベーターを呼ぶボタンを押していた。 「ブヒン、穴と云っても普通じゃねえ、ゾーンが移動して来るんだ。 飲まれたら、かいもく判らねえときていやがる、久々に背中の毛が逆立つぜ、ブヒン!」 運転手とガードマン二人をそこに連絡本部として残して、犬治郎らはすぐさま展望台エレベーターを下った。 視界は徐々にラフレシアの森の中に埋もれていった。 「ブヒ、俺には見える!出てすぐの右方向にゾーンが開いてるぞ!気をつけろ!ブッヒーン」 土ブタが出口を出るなり怒鳴った。 「よし、トンボ・クトゥじゃ。」 長老が呪術棒を立てた。 一瞬にしてブルーレーザーの幾何形体バリヤーが犬治郎らの周りに出現した。 犬治郎らの足は地面から僅かに浮かんでいだ |
土ブタには見えていた。 キンタンゴの眠りのゆらぎと関係が有るのか、穴と云うよりも影のような広範なゾーンが移動してゆくのだ。 それはまるで息を潜める猛獣のようにじっとして踊り掛かってきた。 「ほとんどの穴はどこに転げ落ちるか分からん。 わしらの行く先は無垢空間じゃ、よいな。」 長老がハイエナの呪術棒をひときわ真直ぐ立てた。 その時、…! 「ブヒン、あぶねえ!来た、また右だ!」 「うわあ!?何だ?」 犬治郎が消えた。 犬治郎の目の前が突然ブラックアウトすると、真っ逆さまに急激な落下をしていた。 恐ろしい勢いで落下する中、土ブタの声が聞こえた。 「ブヒ、旦那!掴まれ。」 しかし犬治郎はあまりの落下速度に目が開けられなかった。 再び土ブタの叫びが遠のいて聞こえた。 「横に手を出せ!旦那!掴まるんだー!ブヒン」 犬治郎は己の手を動かそうとしたが物凄い重さだった。 目をやっと開けると横に光の筋が何本も見えた…。 犬治郎はぼんやりとこれに土ブタは掴まれと言ってるのだなと分かったが、ほとんど手は動かなかった。 落下速度は考えられる速さを超えていた…。 犬治郎は遠ざかる意識の中、もうダメかも知れないと思いながらも渾身の力を両手に掛けた。 |
手に何かが触った? その瞬間に犬治郎はありったけの力でぐいと掴んだ。 落下は、うそのようにスピードを緩め、犬治郎のからだはピタリと止まった。 …妙な感じになっているのに犬治郎は気づいた。 からだの内と外が入れ替わっているのだ…? 空間が自分であり、身体が外部であるのだ? 外側から見る自分はまったく異様な感じがした。 初めて自分の録音した声を聞いた時の事が、瞬時によみがえった。 それが自分である事が信じられない、あの感覚だ! 見なれぬ自分だけが世界の異物の様であった。 すべてが、まるで騙し絵の中の様に感じた途端に、今度は逆方向の反動が来た。 物凄い速度で上昇の加速を続け、息もつげない速さに達すると、再びピタリと止まった。 天空に在った上弦の半月が真っ二つに割れた!? その途端に何処かで大爆発が起った。 犬治郎は、トンボ・クトゥの青いレザー光線の一角に投げ出された。 間髪そこに飛び付き片手でぶる下がった。 「くそっ!ここを開けろー。」 片方の手でドンドンと光のバリヤーを叩いた。 “新しい虫”達は、すぐさま犬治郎をコーナーポイント内に取り込んだ。 頭はもしゃもしゃ、着ていた衣服はぼろぼろになっていた。 「まったくなんてざまだ…!」 犬治郎は自分の喉元をさすりながら吐き出すように言った。 |
一息ついて、土ブタは冗談をとばした。 「ブヒヒヒヒ!戻ってきた旦那のブサイクな必死の顔ときたら、あんたの運転手に見せたかったな。」 「土ブタ、俺はそんな顔しておらんぞ!」 そう答えた犬治郎の顔は、煙突掃除の少年のように所々煤けていた。 「今し方イヌパパが襲われたのは“生まれる前の猛獣”だ、何が起るやらとんと判らんのじゃ。」 長老は何事にもまったく動ぜずに言った。 「“生まれる前の猛獣”?まったく判らんな…。」 「ブヒ、まだいるぜ、他にも得体の知れないゾーンがうようよ狙っている。」 「キンタンゴは聖獣じゃ。 善悪の判断はそこに塵ほども無い。」 「ブブ、てことは、こっちがやられちまう事もあるってことだな、おもしれえブヒ。」 「すべて眠りの世界か…。 これは幻覚じゃないのか?」 「命を落とす場合もある。 キンタンゴとはそういう聖獣じゃ。」 明るいブルーに発光したトンボ・クトゥは、滑るように静かにラフレシアの巨大な森を飛行し始めた。 |
「ブヒ、おもしれえようにゾーンがそこここに隠れているぜ?間違い探しを見ているようだ、ブヒ。 これじゃ、どれが無垢空間に通じるゾーンだか分からねえな。ブヒ」 犬治郎らの眼下に広がるラフレシアの森の暗部には、粘菌のように鮮やかなものもあれば、 底なし沼のような色をたたえたゾーンが、静寂を装い潜んでいた。 「あれがすべて異界への頤なのか?信じられんな…。 俺は、一枚布かとずーっと思っていたよ。」 突然、鮮やかな黄色のゾーンがジャンプでトンボ・クトゥをまるごと捕らえた。 トンボ・クトゥは、幾何学形体を維持して必死にこらえようとしたが、 ゾーンは、執拗にトンボ・クトゥをまるごと引きずり込み呑込んだ。 …嵐の上空に犬治郎らは突然現れた。 まさに今、その帆船は難破しかかっていた。 大きな渦が海上をうねっていた。 トンボ・クトゥのバリヤーに強固に守られているとはいえ、 映画を見ている感覚とは大違いだ。 実際にそこにある感覚が、犬治郎に目眩を生じさせた。 「うわあ?大波だ!このままでは沈むぞ!」 犬治郎は必死になって操舵輪を切っていた。 波を被ると同時に、あらゆる今までの記憶と映像が回顧された。 しかし、これは犬治郎の記憶では無い?…。 それは、港町の風景、幼い娘の顔、片足の海賊との決闘のシーン、離婚した女房に殴られるシーン、アフリカ沖をめぐり奇跡の凱旋の入港、仲間の反乱、…。 そこに見た船長の意識と、まったく同時混在している風であった。 船は再び真横になるほど大きく左舷に傾いた。 「ぎょえ!何だあれは?!」 |
前方から、黒々と小山のような船体がこちらにまっしぐらにやって来る! 読者はもう気づいたかも知れぬ、ババシカオスである!! しかも恐ろしい程に巨大化している…。 この怪物も、やはりこのラビリンスに落ち込んだのだろうか? |
犬治郎らは四方に吹っ飛ばされたが、瞬時にトンボ・クトゥは先に飛び散り、青い光がうなりを上げガードした。 その瞬間、落雷とともにゾーンが開いた。 「よし、今じゃ!」 トンボ・クトゥは幾何学形体を素早く変形させゾーンに加速した。 狂った様な勢いで怪物が追ってきた。 「うっわ!やつが追ってくるぞ!なむさん。」 「ブヒン、追付かれる!」 「間に合ってくれ、トンボ・クトゥ。」 三人そろって、頭を抱えた。 ブルーの光が鋭くうなった。 一瞬間だけ開いたゾーンの裂け目はほんの僅かの安定度しかない。 トンボ・クトゥは能力ぎりぎりの鋭角で光線になってそこを抜け切った! …その瞬間ゾーンは閉じて無くなった。 追ってきたババシカオスの片方の首が、物凄い勢いで犬治郎らの背後から転がって来た…。 轟音とともに、信じられない大きさの首が大地をラディングして、ラフレシアを根こそぎ削り、 六本木界隈の、ありとあらゆる物を手当りしだい薙倒して、青山墓地まで来てピタリと止まった。 その馬の形をした巨大な首は、恐ろしい念を発していた…。 もうもうと昇る煙りから首の全容が現れた時には、さすがの犬治郎も身震いするほどであった。 |
そこここから水蒸気を吹出して、巨大な目玉のない目が虚空を睨みつけていた。 「いったいこれは何だ?」 「ブヒ、こんなでかい馬面は見た事ねえ…。ブヒン」 「…この怪物の元は人間じゃな。 相当な恨みが固まって化け物になったのじゃろう…。 近づかない方がよろしい、未だに恐ろしい念を発しておるぞ…。 そのうち本体の化け物が、きっとどのような事をしてもこの首を取り返しに来るに違いない…。」 「なんだって?これをか?」 「ブヒ、まったく人間の恨みほど怖いものは無いな。」 それを聞くと犬治郎は土ブタが止めるのも聞かず、巨大な首にずかずかと正面から近づいた。 「おい!貴様は元は人間らしいな、まだ人間らしさの欠片が残っているのなら、俺の話を聞け。 いったい何もかも、手当りしだいにぶち壊して何になるのだ! 貴様が、どのような恨みからこのように変容してしまったのか俺には判らぬ、 しかし、力にまかせて恨みを返せば、それが又恨みを生む。 そんなことも判らぬようでは、図体はでかくとも、ただの能無しだ!」 犬治郎の見上げている馬面のてっぺんから、ぼうぼうと湯気が噴き出した。 「貴様にまだ人間の片鱗があるなら思い出せ。 死なない人間などいない、貴様にも死が近づいているぞ…。 幾分かの人間の心が残っているのなら、最後にやってみろ! 貴様のいのちを恨みで終わってはいけない! 怨念を超えて、人間の善を全力を出し切ってみろ!! 死に臨み貴様自身を打ち破れ!」 犬治郎は、仁王立ちに泣いて言い放った。 静かにその首は浮遊した。 しばらく地鳴りをさせてその場に震えるように居たが、物凄い豪音とともにその場から消えた |
ババシカオスと化した鹿男の、ほんのかすかに残った部分が反応したのだ…。 己の恨みと欲望から怪物になってしまった鹿男に、僅かに米粒程の残された本来の鹿男が在った。 鹿男にとって、気の弱い自分、もっとも嫌な自分であったところだ。 この、自分にとって許せない部分がババシカオスとなってまで僅かに残っていたのだ! 常にびくびくとして、自分の人格から圧しやられた鹿男の中の弱気。 ババシカオスとなり怪物化してしまった鹿男に、人間的なものとしてそこだけが封印されたがごとくに残っていたのである。 それはラフレシアも変えられなかった最深部の鹿男なのであった。 この臆病の“弱気”が、犬治郎の言葉に目醒めたのである…。 死は目前であった。 時間の中に、もはや己が投げかける一切の希望が無い事が、むしろ“今”を鮮明にした。 “今”しかなければ、すがすがしい程に自分も単純だった。 生来の弱気は豹変した。 善を為すということがこれほど本来の理に叶うものであったとは! “今”しかない善とは私本来だ! 首は物凄い勢いで飛び去った。 |
仙界の空は、隅々まで霊気をはらんで澄み渡っていた。 深山幽谷の、水墨画を思わせる景色に、綿々と細い道が途切れては連なりしていた。 コンガラは、師の白雲斎の居所にようようたどり着いた。 其処では、師の白雲斎は、露天風呂でぬくい湯から出られずにいた。 「おお、コンガラか!ちょうどいいとこに来おったワイ、ワシは湯加減もみず、ぬるい湯に飛び込んでしまった。 熱い湯をこちらに導いてくれ。」 「おやすいご用、白雲斎さま、相も変わらずでございますなあ、お久しぶりです。」 「ワッハハハハッ、ヘーィクショォォォイ!ああ、寒かった。」 離れた脇に、小猿が行儀よく跪いていた。 「猿若、着物をこれへ持って来てくれぬか。」 小猿は走り寄って欄干に掛かる着物を置くと、また元の位置に素早く戻った。 「ところで白雲斎さま、無垢空間とは何処にございましょうか?」 「ああ、あれはまだ解がわからぬ。 しかし、予想は着く。実でも虚でも無く、穴でも無い。」 「そこに人の胆魂を持ち逃げし、つまみ食うモノが逃げ込みました。」 「まあ、食い意地の張ったやつじゃな! おっぱいぷにゅぷにゅ、 つまり、其処は掴み様のない赤ん坊の様な性格のところじゃ…。ヘーィクシ!」 |
「だんだん温くなってきた。イイ湯だぞ!コンガラ、お前さんも入らんか。」 「失礼して白雲斎さま、背中でも流させていただきます。」 「こうして、天然の湯に浸かると、大地もまた一如なのだと知れるな、コンガラ。」 「…ええ、湯加減さえ良ければ…。」 「ワッハハハハッ、確かじゃ!」 白雲斎が大笑いをした。 すると、その声は向こうの山までも震わせた。 「遠い嶺に掛かる雪の白さが、この湯煙と同じもので出来ておるのは概知じゃが、 心が納得せん。 おっぱいぷにゅぷにゅの無垢空間も、在るとも無いとも心が見い出す事が出来ないのだ。」 「白雲斎さま、すると、ぬくい湯の様なものですか?」 「鋭いな。」 「…熱い湯を導けば良い!?」 「そのとおりじゃ、コンガラ。 しかし解は出ておらん。」 途端にコンガラは、温泉を塞き止めていた土手を蹴破った。 コンガラと白雲斎は、湯を蹴り上がり宙に転がり出た。 白雲斎は、呼気で細く吹集めた一面の湯煙を、白雲としてその上にコンガラとフワリと乗った。 |
「コンガラ、お前さんも、イイ悪漢になったものだ!ヒークショイ!」 「手荒いまねで恐縮です。途端に無垢空間が知れました。」 膨大な湯気で辺り一帯は、霧が立ち込めた様となった。 無垢空間とは、空間認識以前のところとコンガラには知れたのだ。 つまり、認識が生じる前の場であるのだ。 白雲斎の入る以前の、天然露天の湯が熱いとかぬるいとかの予見を持たないということだ。 すでに生じた認識は人間の予測である。 |
徐々に霧が晴れて来ると、コンガラらを乗せた雲は降下していった。 白雲斎は、ぽよぽよの強烈な光だけになっていた。 |
無垢空間では、非現実な速度で時空が流れていた。 バー“パピヨン”の扉をコンガラが開けると、もうもうとした熱気にミラーボウルが回っていた。 賭けポーカーで賭けているものは不正な金や略奪品や密輸品で、 其処は、あらゆる不良生命体が溢れる根城であった。 入り口で、一癖も二癖も有りそうな生命体をコンガラが呼び止めた。 「こんな頭が三つ有るオヤジを探しているんだが、知らないか?」 「金は有るのか?」 「…。」 「俺にものを聞きたいのなら金出しな。」 傍らで、タンバリンをたるく叩く店の女に、コンガラは振り返って聞いた。 「最近、気前よく羽振りのイイやつさ、頭が三つ有るオヤジを見かけただろう?」 「ああ、あいつかい?」 店の奥まったところに、奇妙な帽子を乗せた三つ頭が見え隠れする…。 近づくと、ヤツは仲間と酒を呑みながらポーカーをしていた…。 |
「ウオーッ!貴様、イカサマだ!」 ポーカーの相手をしていた、大きなライオンの頭を持つ男が髪を逆立てて吠えかかった。 「イカサマとは人聞きの悪い。わしは王だぞ!」 「ふざけるな!そっちの頭がこっちを見てる間に、向こうの頭が、覗いてるじゃねえか!」 「それならわしに見えんようにしっかりガードしておけ!わしのせいではない。貴様はワンペア、わしはフルハウス、全部いただきじゃ、ガハハハ!」 三本の腕には、酒のグラスと葉巻きとカードがそれぞれ握られて、残りの三本は、 中心にどんと太い太刀を杖代わりに立て、脇に短銃とナイフがもてあそばれていた。 「クソッ!」 その時、背後のギャラリーから地獄の底から響くような声が掛かった。 「俺に代われ。」 首に包帯を巻いた鹿の頭を持つ男が、ライオン男を除けてそこに座った。 |
「彷徨えるシカオス!…この男は、まだここで負けた事を見た事ねえ! おもしろくなって来やがった!」 取り巻きの、海賊風の片目の男が言った。 「ようし!俺は、こいつが勝つ方に、五万宇宙ギネス賭ける。」 片目の男が、金の小袋をテーブルに投げ出した。 すると、すぐに海草で全身が覆われた怪物がさえぎった。 「おいおい、ライオンを負かしたつわものだ!三つ頭のおっさんもやるぜ!この卑怯さはまともじゃねえぜ!俺は三つ頭に二万五千宇宙ギネスだ!」 「どいつもこいつもガキのお年玉じゃねえんだ!俺は百万宇宙ギネス!シカオスに乗せだ!」 義足で半透明の幽霊船のキャプテンが、葉巻きで指図して子分に金を積み上げさせた。 「これは諸君!チャンスだ!我輩はお忍びの、さる高貴な身分なのだが、百万宇宙ギネスと聞いては心が踊る! 反対側に同じ額賭けよう!負ける気がせん。」 全身歩くブランド品を身に着けた、クリスタルな骸骨男が言った。 パピヨンの奥は、さまざまな如何わしい輩で異様な熱を帯びてきた。 |
「さあ、どいつもこいつも張り終わったかい?もたもたしてると大損するよ!」 やり手婆が長い掻き棒で指図した。 「ちょっと待った、俺もゲームに交ぜてくれ。 金なら無い!」 中折れ帽を深々と被ったコンガラが、テーブルの男を退けてイスを分捕り座った。 「なんだと?」一斉に、声とともにさまざまな悪面がこちらに向いた。 「負けたら何で払うつもりなんだい?からだの支払いはごめんだよ。 でもイイ男前だね…、ケケケケッ。」やり手婆が、帽子の中を覗き込んだ。 「これならどうだ?」 コンガラは、していた透明な石が並んだブレスレットを見せた。 「こいつはダイヤモンドだぜ!?」脇の海賊が手にとって驚いたように言った。 「ようし、お前さん!無垢空間パピヨンでの予想が利かねえポーカーを味わってみな! 尻の毛までむしり取ってやるよ!」 婆の怒鳴り声とともに、札が切られはじめた。 「さあ、賭けるなら今だよ!このダイヤモンド男に賭けるやつはいないかい…? ダイモンド男に賭けるやつはいないのかい?」 「わしが木の実を賭けるとしよう。」 ポヨンと、透明な光から白雲斎が出現した。 「わっ?なんだ?どっから出た?爺!」 「木の実って?おい、爺さん!ここは幼稚園じゃねえんだ!」 婆が怒鳴った。 「いいだろう。丁度、ウイスキーにナッツのつまみが欲しかったのよ。」 三つ頭の一人が喉を鳴らして言った。 素早く、テーブルの三人にカードが配られはじめた。 |
何しろ、この無垢空間に於いては予想ほど当てにならないものは無いのである。 時空の中に在りながら、未来はまったくあやふやなのである。 これがこの世界の特質なのだ。 ここでは予想されるものは外れるのだ! そのようなところでポーカーをやるのは至難の技となるだろう。 片方の首ババを無くしたシカオスは、目玉も無ければ鼻の穴も無い、感覚器感が閉鎖されているのが強さの秘密らしい。 三つ頭の大王は、そのえげつない覗き込みと、卑怯さにかけては並ぶものが無い。 コンガラはこんなやつらを相手に、いったい勝負に勝てる秘策はあるのか? さて、いよいよ勝負の始まりだ! 今配られたカードは、各者一斉に手の内に繰り広げられた。 背後から固唾を呑んで見守る海千山千のものどもの、 それを見たギャラリーから、ため息とも驚きともつかない声がドオッと洩れた。 |
と、斯くして、ここからの勝負がそのままわれわれの現実世界となるのである。 犬治郎はゆったりとソファに座り、ホットチョレートを飲んだ。 対座する長老と土ブタは、この不思議な飲み物に感動していた。 物語はまるで、無風地帯に突入していた…。 すべてが平穏で平和に満ちて何事も無かった。 犬治郎の目の前の真っ白な砂浜は、遠い水平線まで、まったく何事も無くきれいに遠のいていた。 しばらく何も無い海を眺めていて、犬治郎は何か存在の予感の様な漠然としたものをあるところに感じ始めた。 遠く2時の方角に芥子粒のように浮き沈みしている黒い点のような物体は、漂いながらはっきりせぬうちに、10時の方角まで時間をぬうように流れていた…。 それがだいぶ近づいて椰子の実だということが犬治郎には知れた。 「始まるかな。」 長老が、そのまま何も見ずに言った。 |
椰子の実がぐんぐん近づくと、それはひとりでに起き上がりこちらにやって来た。 人間の頭ほどの大きさのある椰子の実は、あたかも身体の頭の位置で浮遊して、犬治郎の目の前に止まると、固い外皮から目を開いた。 「犬治郎、出発のときが来た。さあ、出かけるぞ!」 「何だ?俺は悪い夢でも見ているのか?貴様は、椰子の実じゃないか?」 「ふふ、椰子の実でも、目を開くこともある。もちろんものを喋ることもあることを忘れてはならん。」 長老が薄目で煙草を燻らせた。 「ブヒン、俺が喋るのは認めて椰子の実の誘いをことわるのもまったく変だぜ?犬治郎。」 土ブタは、ホットチョレートを堪能し終えてから満足そうに犬治郎の肩に手を置いた。 「おい、俺は、まともな人間だぞ。しかも社会的な地位も名誉もある。それに、昔ならもう隠居の歳なんだぞ。」 「へん、笑わせてもらっちゃこまるぜ!ブヒン、あんたのその熱血の善意は、この世のみんなが待っているんだ。世の中はあんたのようなやつが居ないと面白くないんだ、ブヒブヒ。」 「そう!そのために俺は来た!俺は、ココナッツの椰子男だ。みなさん!一時の休息は終わったぞ!」 |
「ところで、ついでに言うが、この世界の崩壊まであと五日だ。どうする?」 「おい、本当か?ココナッツの椰子男くん、ついでにはないだろう。」 犬治郎は、飲んでいたホットチョレートを吹き出した。 「まあ、わしは充分思い当たるぞ、妥当なことでもあると思うのじゃ。わしは先ほど渡る風に聞いたが神々の賭けにすべてが乗ったようじゃ。存続も僅かだが残されてはおるがの。」長老が言った。 「ブヒブヒン、すでにその渦中なのか。」 「まったく唐突だぞ。いったい何が原因なのだ、何とかなる方法はないのか?」 「俺が賭けの質草だからだ。白雲斎どの、しいて言えばこの世の世話人がそうなさったとしか言えないことだ。」 ココナッツの毛もじゃの中からクリンとマリンブルーの目が回転した。 「前代未聞の事だな。」 「まったく信じられんことだが、この椰子男が目を覚ましたのじゃ。」 長老が大きく目を見開くと立ち上がって言った。 |
「椰子男の正体はよく分かってはおらん、太陽系の三男坊、地球のことかもしれん。わしらの呪術の世界ではともかく謎に満ちた精霊なのじゃが素直だ。 白雲斎どのが、賭けの草にしたとはな!」 長老がもうもうと紫煙を燻らせた。 「何だ、お前は三男坊か?どうでもいい生き方をした方がいいぞ、あと五日だろうが無かろうがね。」 犬治郎はどんと腰を据えて言った。 「はて、さて、わしらの出る幕なのか?」 「ブヒン、たった五日じゃ、めだかもすくえねえな。」 「うむ、わしらが五日間で出来る事があるのか?椰子男。」 犬治郎が言った。 「あります。これからそこに一緒に行きましょう。」 |
目もくらむような光の波が押し寄せたかとおもうと、 一同は波にさらわれたようにその光に乗った。 「なんかすげえぞ!ブヒ!」 「これは、ただ事ではない。光速で進んでおるか?」 「しかも加速のGを感じないのは何故だ?夢か?」 「土ブタ、きさまの顔がまともな男に見えてきたぞ?」 「犬治郎の旦那、あんたもだ、そんなに色白の男前だったのかい?」 「まあな。」 「長老?あんたはなんなのだ?」 「俺には、白いランにしか見えないのだが。」 「そのとうりじゃ。わしの霊体は見てのとおりじゃよ。」 突然、椰子男が頭をスピンさせながら渦巻状に広がった。 「みなさん、今突入しているところは実宇宙です。わたしたちの本来の波動のみが感じられるはずです。 私が三男坊の地球といわれるのは、霊体の物質化が木の実と似ているからです。」 「なるほど、木の実はすべてが内包されておるな。」 「椰子男、難しい説明は抜きだ。どうこの取り返しのつかない崩壊を乗り切る?」 犬治郎の姿はもとに戻った。 目の前には、信じられない白亜の巨大な建造物があった。 |
天使の言葉が頭の中に響いた。 「意識バンドの崩壊が起こっているのです。 人間だけがこの世界に意識を持っているのではありません。 岩石や地層、水などの風景も、じつはトーンの違う意識があります。 これは、ペンタトニックスケールのオクターブの振動数で、通常でも3オクターブ ほどの幅を持っています。私たちのこの世界はあなた方のオクターブ上に属します。 これらのスケールが微妙に前後の振動数を入れ替えることによって、人間の意識とうなりを生じはじめています。」 「そうなるとどうなる?」 「すべての階層の共鳴する振動数が、うなりを生じる可能性があります。」 「よく分からないぞ、端的に何が起こるのだ?」 「階層化の世界が一元化して、因果関係がなりたたなくなるのではないか?」 「ブヒン、時間が解き放たれるということか!」 「人間の考えているように時間は実はありません。うなりが起これば因果の法はその場に崩壊します。」 |
「オクターブ違う自分と出会うというのは爽快だな。そりゃあ俺は、むしろ崩壊した方がおもしろいぞ。」 「ブヒ、信じられねえ!自分は自分で天下に俺様は一人かと思っていた!違うのか?」 「いや、いや、自分というものは、一人で出来上がってはいないのじゃよ。 オクターブ違う世界でもその音は同じだ、他の音との関係は似たものだが別物でもある。 これが真に分かればどんなことも恐れるにたらんことだがな。」 長老が目を細め見上げていると、天空の天使が羽を大きく広げて、犬治郎たちの目の前に舞い降りてきた。 すくっと立つと、長く白い翼は器用に背中に折れ曲がり収納された。 「そのとおりです。死とは終わりではありません。 あなたがたのこのオクターブ世界の自分は、今きっと、ひどくうなりをあげて共鳴してることでしょう。」 「本当かね?会ってみたいぞ、ここの俺に!」 犬治郎は目を輝かせた。 するとそれまで黙っていた椰子男は、犬治郎に向き直り大いに笑った。 |
「ブヒ!だけど死を恐れることは人間の本能でしょう?俺たち動物はその意識を持たないがね。」 「そうなのか。動物は死を恐れているわけではないのか。」 「そうよ。旦那、動物は利口でさ!何も考えちゃいません。」 「人間だけが先のことで悩むのか!」 思ってもいない言葉が一人歩きをはじめた。 「変だ?勝手に喋りだしたぞ。何なのだ?」 「ブヒン、俺もだ! 」 椰子男が目玉を大きく回した。 「あんたらの右の脳は時間を知らない。左の脳は自分をいつも心配して計算ずくだ。 まずは、統合した自分に焦点を合わせてくれないか。 何の心配もいらない。 どちらも、無色透明にしてくれ。 人間でも、動物でも同じだよ。 輝きだけを信じてくれ! そら、変わってきただろう? それが、オクターブの基調のあんたらだ。 地球というのは集合だ。」 |
椰子男は突然歌い、半回転でラテンのステップをきめた。 「とにかく力を抜きましょう。ほら、次のことを考えなければこんなに生き生きだよセニョール。」 「…!そういうことか!わかった、椰子男。俺は踊る、わはは、踊るよ。」 犬治郎は、三回続けて間抜けなターンをした。 「わはは、なんだかばかばかしいが、おもしろい。ブヒ。」 「へたくそな若いものに、任せておけんな!」 長老のへっぴりごしが腰を振り始めた。 「そう!うー、うっ!脳は使いません!」 椰子男のへたくそ口笛で、みんなはゆるい踊りと言えない踊りを踊った。 これが、オクターブを感じるという事なのか? とにかく、みんなの柔らかくなった身体には何やら不思議と息吹が戻ってきた感があった。 ばかばかしい間抜けなスッテップは、立っていた天使をまったく呆れさせた。 「あなた方の好きになさればいいでしょう。私はあなた方にあまり関わりたくなくなりました。 この危機の時にそのようなことができるのも、人間だけでしょう。」 天使は優雅に翼を拡げ天空に駆け上って行ってしまった。 「ふぁふぁふぁ、わしらは天使にまで見放された。」 長老は抜けた歯で息を漏らして笑った。 犬治郎に閃くものが身体の中を走った。 絶体絶命の深刻さの原因を作り出していた自分をなんと内側から乗り越える者がある!これは誰なのか? 最後の日が五日だろうが一週間だろうがまったく時間の問題ではない。 「ぶざまなことぐらいでなんだ!みっともないぐらいでどうということもない。俺ほど始末におえない魂は惑うものだ。これが人間だ!」 長老も深々とうなずいた。 椰子男は、とぼけた口笛で相づちをうった。 「だがね、まちがいなく俺たちは真面目だ、ブヒン。」 土ブタが天に向かいニヤついた。 |
ますますいいかげんとも言える展開は、地球最後の日も、宇宙の終焉もお呼びでない。 しかし、この、真面目だという言葉ほど犬治郎の的を得ていた。 思い立ったら黙っておれない犬治郎は、犬萬ホールディングスの総力を挙げて地球の危機に挑みかかったのだ! 「ちくしょう!犬萬の誠意の元をただせば、死者から得られた何とも言えん報酬だ。 この期に及んで全力を出さんでどうする!地球一つも救えぬのか?犬萬ホールディングスは?」 企業が金の糸目をつけぬ全力を出し切った時がどうなるかは、予測を凌いだ事となった。 |
「企業ができるのか分からんが、こんな時のんきに金を稼いでる状況ではない。 他人の不幸もまさに自分の事だ。 犬萬ホールディングスの全ネットワークで、接続する全部のコンピュータをシナジーの基本解析に使うのだ。」 「ブヒ!旦那、何だい、そのシナジーって?」 「俺にも分からん。だが、最も最初を見抜くということだろう。要するに専門家になど任せておけるかって事だ!自分で出かけて、自分で見るんだ。」 「シナジーとは幾何学だ。相乗効果の事だが、むふっ、シンプルな原理がすべてを決定しているという事じゃな。」 長老が紫煙を燻らせてつぶやいた。 「世界が同時に無いという事だよ。貿易はここに生まれる。 俺はこれに気づいて俺の商社を短期間に世界一のものに出来た。同時で均一なのは考えたやつの頭の中だけだ。」 |
犬治郎は犬萬ホールディングスのネットワークを使って緊急の物資供出を始めた。 犬治郎はいよいよ勝負に出たのだ。 |
犬治郎はおもってもみない行動に出た。 各国の首脳元首に途方も無い権利を売り出したのである。 何の? それは、南極の空気の使用権である。 しかも膨大な価格で限定100セット売りに出したのである。 しかし、あっという間にすべて完売してしまった。 一見ふざけているとしか思えないものだが、 先を争うように大国の首脳が買いあさって権利はあっという間に売り切れてしまった。 いったい何者が何の目的で買うのか? 軍事目的であるのか?国の予算の半分にもあたる数十兆も支出した国もある事であきらかだ。 なぜそのようなものが売れたのか? ここにいつまでも人類が愚昧の秘密が隠れていたのである。 |
支離滅裂な展開はいよいよ極まった。 この世界は何処かが狂っているのだ。 犬萬ホールディングスの持つ清浄な空気を、奪い合うように高額で入手した各国の会社や金持ち達はすでに遅かったのかもしれなかった。 細菌兵器が秘密裏に使用され、それに反応して、最後のとどめの相互の核兵器が人類をめちゃくちゃな状態にした。 悲劇が突然主要な大陸にやってきた。暗雲が極地を除き地球を幾重にも取り巻いて気象は激変した。 ほとんどは遅かった。 ほんの一部の戦争当事者の首脳や軍部の将軍たちだけが汚染の届かない極点に逃げ延びていた。 南極の極点付近の空気は今や汚染を免れた唯一の地球の空気となっていた。 この世界では、犬萬ホールディングスの分析は非情にもズバリ事実となっていたのである。 地球という星は、まったく取り返しのつかないほどの悪の気配に充ちてきていた。 自分だけがそれでも生き残るという壮絶な戦いが極点ではついに始まった。 犬萬ホールディングスの極地ショップのコンビニは自動開店し営業を始めた。 |
いったいどうなってるのだろうか? すでにこの世界に懸念された核戦争が起こってしまっていた。 人類はほとんど99.999%の人間が一瞬にして死に絶えていた。 まさか、そんな愚かな事にはならないだろうという甘い予想は、容赦なく破壊されていた。 ほとんどの地上生物の生存が瞬間にして地球上から消滅してしまった。 地球は、子を失った母のごとく気が狂ったように荒れ狂い始めた。 地表は暗雲に包まれ、気象はバランスを崩して、陸地は言い表せないほどに激情の坩堝と化した。 もはや極地といえどもその激情は免れない。 二千四百時間後には、逃げ延びた戦争当事者らの姿もひとっこひとり見えなくなっていた。 地表に動物の姿をしたものは犬の子一匹見えなくなった。 そこには変わり果てた、まったくの異様に動く気象と物質という以外表現のしようのない世界が広がっていた。 あの自動開店したコンビ二はいったいどうなったのだろう? |
一機の未確認飛行物体が信じられない速度で南極上空を飛行した。 そのUFOは極点付近の空に静止すると、緩やかな回転をしながら徐々に降下してきた。 地上二十メートルほどに静止するとコンビニの屋根に光線が当てられ、その屋根部分が丸く融解してUFOの中から人型のモノが4人店内に降りた。 「いらっしゃいませえ。」 店内には普通のコンビニと変わることのない声が店内に響いた。 「驚いたな、ここは開店しておる。」 長老はギョロリと当たりを見回して煙草に火を着けた。 「ブヒ、俺は人類はてっきり全部滅亡したと思っていたぜ、これは夢だろ?」 普段人事には動じない土ブタも疑問符を吐いた。 「いーや、俺の経験じゃこんな時に開いているのがコンビニなんだよ。そこを常に口をすっぱくして俺は言ってきた。」 犬治郎はこともなげに言い放った。 「おもしろいな!」 目玉を丸くして天井の穴の空を見上げていた椰子男がにっこりした。 |
「ブヒン、人類のバカでみんな死に絶えちまったんだが、この付近に生き物がなんぼか残ったようだ。 金の価値はまだ通用するのか?へへ、俺はこのヌードルを食いたいがいくらだ?」 土ブタは店員に声をかけた。 「お金は使えません。ヌードルは差し上げますが水の値段は500酸素です。まいどありー。」 どうやら喋り方から店員は人間ではない。 「犬萬開発のアヌビス型進化系の人工知能ロボットだ。こいつは霊界の案内も出来るしミイラも作れるぞ。」 長老がロボットの心臓を読んだ。 「ほほう、知らなかった!社長でも知らんことばかりだな会社というのは。」 犬治郎は頭を掻いた。 |
「なんだかカップヌードルが恐ろしく郷愁をそそるぜ。 ブヒン、たまげたもんだぜ!地球上でこのコンビニだけだぜ! こんななってもまだ営業状態をたもっているとはな! アチ!おれは猫舌なんだ。 冷めてふやけたヌードルがここで食えるとはまったくありがたいよ。 旦那に感謝だ。 それにしても、地上の文明で残るのは唯一犬の旦那のこの一店舗だけか! 独占だぜ。ブヒ、まいったな。」 「そう!まったく一軒だ!それもこんな状況でもだ!そんなこともありえる。」 椰子男は土ブタの言葉に神妙にうなずいた。 「人類の残したものはコンビニ一軒だけということか!」 長老があきれて嘆いた。 |
カップヌードルをズルズルとたいらげながら土ブタは聞いた。 「おい、店員、あんたの故郷は何処なんだ、ズルズルブヒ。」 「わたくし地元です。」 「ブヒ、此処か?何にもないとこだな。淋しいだろうロボットでも。」 「とんでもございません、そう思っているのはお客さんだけですよ。 ここはとても賑やかな所です。 お客様もたくさんみえますよ。」 「ズルズ、ロボットが嘘をつくもんじゃないブヒン、どこが賑やかなんだ?」 「嘘じゃございません、ほら、いらっしゃいましたよ。いらっしゃいませ!」 店員の言うとおりぞくぞくと客が入ってきた。 現れたのは身の丈三メートルほどもある獣類のような人間が数人入ってきた。 「あんたらいったい何処からくるんだ?」 犬治郎が遠慮なしに声をかけた。 「何処から来る?此処に住んでるのさ。」 モヒカン刈りで毛むくじゃらな男のゴーグルの中のガラスのような目玉がぐるりとこちらを見た。 「何じゃろ、外じゃ空気さえ駄目になっているじゃろう。」 長老が聞き返した。 「だから此処にガムを買いにくるのさ。」 別のラクダの様な顔の男が答えた。 「酸素ガムを十個たのむ。」 「はい、まいどありがとうございます。」 買うものを買い男たちはさっさと出て行った。 |
第一部 完 |
ネダイエレナ ミリンナボン第二部は、 http://kogiri.cocolog-nifty.com/blog/ こちらで再開します。 引き続きご購読よろしくお願いします。 チャンシー |