「PIRE 2」
ネダイエレナ ミリンナボン(他人の不幸は…)


 


 ある男が上を向いて、何事かを見定めると奇妙な顔で言った。
「一片の雲も無い。これで豪雨だと?たわけた事を申されたな、御坊も。」
 男はまた山道の街道を歩き始めた。

「待ちなさい、おや?あなたに功徳の相がでておるぞ?
今生に限らんが、よほどの善行を積んでおられたとみえるな。この先、大変な豪雨じゃよ。笠は在るか?なんならわしの笠を貸そう。」
 つい今し方、峠の地蔵様の脇の岩に腰掛けた坊主に呼び止められたのだ…。
空は朝から晴れ渡っていた。
そうこうするうち、何やらおかしな気配になった。ボツッ、ボツッ、突然大粒の雨が落ちてきた。
あれよという間に、たちまち車軸を流す豪雨となった。

「ああ、しまった。御坊の言うとおりだったな。しかし、俺は何もない普通の男だ、とりたたてよい事をした憶えも無い…。ただ素直に笠をお借りするんだった。」
なにも隠れる場所の無い草っ原の直中、男は前も見えない雨に独り言を言いながら道を下った。

やっとの思いでたどりついた雨宿りの大樹の下、着物を脱いで下帯だけになり焚火をした。
着物もほとんど乾きかけた頃、ふと大樹の裏を見ると荒れ果て壊れかけた祠がある…。
「ちょいと、一時お世話になりまする。」男は大声で誰もいない祠に声を掛け、手を合わせた。

そこに白い犬がどこかからか来て急に口をきいた。
「恐れ入ります、どうかその着物をいただけませんか?」
男は怪しみながらも後を追うと、女が独り追い剥ぎに遭って身ぐるみ剥がされて困り果てたところであった。
聞けば泣いてばかりで判らぬ。
女にその着物をあたえると、白い犬は涙ながらに礼を男に述べた。
男に焚火を消した後その焚火の下を掘るように告げると、女と何処かへ立ち去ってしまった。

男はすっかり狐につままれた思いでしばらく天を仰いだ。
いつのまにか雨は止んで、山の端から明るくろうろうと月が昇って来た。
男は今度は言われた通りに焚火の下を掘った。するとそこから月光の光の中大量の金子がざっくりと現れ出た。
驚いてなお掘りすすむと、白骨化した犬と人の遺体が出てきた。

男は、さては先ほどの犬と女かと思うと、胸がつまった。
男は犬の忠義心にもう一度合掌した。


 その後裔八代目、笠屋犬治郎は、高利で金貸しを行ない巨万の富みを築いていた。
 今、金融と総合商社関係では、犬萬を知らぬものはない。 何故か社名を犬萬と云う、それに不思議な犬のマーク。 その初めを忘れる事のないように、犬の印を使い続けることを初代は遺言していたのである…。

 しかし、21世紀、巨大に成長したこの犬のマークの会社には、人間的なものがすっかり失われていた。 石油、農産物の先物取り引きに於いて莫大な利益を上げ続けた。 反動で、アフリカでは食料の異常高騰から、餓死する者がうなぎ上りに増え続け深刻さを増していた。
 隣国の不幸とばかり笑っている場合では無かった。

 その張本人は自覚を失っていたのだ。
 …元ば死者の金から始まったものだ…。 ここに決して忘れてはいけない事がある。
 これは死者の金なのだ! その戒めが不思議な犬のマークなのである。

 ある午後、丸の内に在る本社の犬のマークが突如落下した。
 ここ数日、笠屋犬治郎は、壮絶な悪夢に苦しむようになり病床に着いていた。 決まって毎晩、雲に乗った童子が暗闇より飛来して、凶暴な何匹もの犬を嗾けてくるのだ。 生きたままその肉を食いちぎられるその痛みは尋常では無かった。
「うわわわわぁ、!」
 飛び起きると、何も居ない。
「ふう、いったい私が何をしたというのだ?何故こんな夢を毎晩見なくてはならんのだ?」

 腕を摩りながら、犬治郎は朦朧と中空を見つめた。

 その托鉢僧は、本社正面に、まるで浮遊するような足取りで鐘を揺らし登場した。
 大きな受付に受付嬢が数人居たが、誰も声さえ掛ける事ができず、犬治郎の社長室までなんなく通ってしまった。
 その僧は犬のマークを指してひとこと言った。
「目を覚ませ!!犬治郎。その印を何と心得る?これ以上の無礼はゆるさぬぞ!どれだけの人間を餓死させ困らせればよいのじゃ!」
 犬治郎は聞く耳持たぬ風に僧を無視し、ガードマンを呼ぶスイッチを素早く押した。
 すると、僧はかき消えるように無くなったのだ!

 犬萬ホールディングスのCEOである笠屋犬治郎には、まったく理解が出来ない事であった。 すべてに於いて企業の利潤が優先するのは、世界でも暗黙の了解があったからだ。 ガソリンが高騰したり、農産物が乱高下するのは、あたりまえで、その事で人が餓死するのは現象でしかなかった。 数日前、突然本社に現れた坊主に説教をくらうまでは、犬治郎は疑いもせずにそう思っていた…。

 その夜から…夢をみるようになった。あの悪夢だ。

  寝床を前にして、犬治郎は頭をかかえた。
「自分のホールディングスは、社会に貢献もしている、税金も多額に払っている、雇用もしているのだと。 それでいけなければ、ルールこそ改変すべきで、企業が責任を負う話では無いはずだ…。」
 何がいけないのか判らなかった。依然腹ではそう思った。
「しかし、犬の印と僧は言ったではないか…? …企業倫理の問題では無いのか? そうだ、そう思ったのは、自分に負わされた引け目が勝手に自分らを正当化していただけか? …これは、そんな話ではなかったか!」
 犬治郎は、戦国武将のようにはたと膝を打った。
 「企業倫理などでは無い!死者の金、ということだ!」
 立ち上がり、うろうろ歩き回ると怒鳴った。
 「他人の不幸を己の不幸と感じる思いが、逆に現在の富を産んだのではなかったか…?」
 同時に、自らの名の犬治郎を思った。
「犬は忠義だ、受けた恩は百年立とうが千年立とうが忘れはしないものだ。」

 そう思い至った瞬間に、全身から勇気が湧いてきた。
 夜中だというのに、犬治郎は居ても立ってもいられぬ気持ちになった。
 朝を待って、犬治郎は全社を上げて食料と水を確保し、全アフリカに大型貨物機を何台もチャーターした。

 援助物資とはいうものの、飢餓の状態にある者の口に、容易に届かないのも事実である。

 犬治郎の思い立つと止まらない性格は、アフリカ現地の飢餓の現場に、自身を立たせた。
 …餓えだけでは無かった。 一滴の雨も降らずすでに砂漠化は進み、 すでに共同体が破壊され、そこここに死者が野放しに転がっていた。 農作物はひどい旱魃のためひと粒のとうもろこしも取れず、水はまったく涸れ、感染病が蔓延していた。 …神も仏も無い地に来たと正直、犬治郎は思った。 犬治郎の眼には涙が光った。
 それでも犬治郎は、死にそうな人々のところを一人一人巡る決心をした。 犬治郎のチャーターした大量の救援物資などは、ほとんどここに届いてこなかった。 自分で持ってきたものなど焼け石に水だが、無いよりはましだった。 死にそうな子供を抱きとめて、乾パンを砕いて口に含ませた。 飢饉に追い討ちを掛けたのが、レアメタルなどの資源争奪利権の内戦で、青年や男どもはもはや居なかった…。 残った老人、女、子供も本来的な意欲を失い、生きていても、その目は絶望に閉ざされていた…。
 犬治郎は、今そこで出来る事をする以外、何も出来ない自分に無性に腹が立った。

 …そこに流浪の男が現れた。 長身で長い杖をたずさえて頭巾を被り、古典的ないでたちだがひどく襤褸けていた。 犬治郎に寄ると、いきなり男は梳歯の口で耳打ちした。
「甘い事を言っておると、あんたまで干乾しになるぞ。俺は砂漠から来た土ブタだ。」
「土ブタだと?」
「そう。金はいらんか?たっぷり儲けさせてやるぞ、あんた。 金が出るんだ、金だぞ!金がざくざく。ぶひひ。」

「何だあんた?それより水は何処に在る?」
「おお!金より水をお望みか…。ぶひひ、それを聞いて、東洋の高貴なお方と察しましたぞ。 実は水なら無いのです。一滴も。 そこでお願いだが、そのポケットのチョコレート、私に恵んでくれはしまいか?」
 土ブタは、犬治郎のベストの胸ポケットにチラリと銀紙が覗いていたのを目敏く発見してた。
「水をくれたら一切れやる。水を出せ。」
「ぶひ!まったく狡いな、ほれ。」 土ブタは服に隠した革袋を取り出して犬治郎にすすめた。 犬治郎はそれを土ブタから奪い取ると、日陰の瀕死の子供らに飲ませた。
「何をするんだい、旦那!こいつらは、ほっといても今日、明日には死ぬるぞ…。」
「バカやろう!ほれ、チョコレート全部やるから水全部もらうぞ。」
 犬治郎は、自らも水を革袋から飲み干した。
「なんてこすっからい旦那だ、ぶひ。」
「そうだ!土ブタ、おまえは鼻が利くだろ、俺を水の在るところに案内しろ。ただとは言わん。」
「ぶひぶひ、で報酬は?」
「…そうだな、金貨一枚でどうだ?」
「なんてけち臭い。ぶひ。その値段では掘っても泥水も出ない。」
「む、金貨三枚。」
「…いいでしょう。私にも善意というものもある、ぶひ。」

 犬治郎と土ブタは、夜明け前から月明かりの砂漠を歩いた。

  満天の星はめぐり、明るくなって月が西の空に残っていた。 やがて猛烈な輝きを見せて太陽が昇ってきた。
「おい土ブタ、もう随分歩いているぞ、まだか?」
「ぶひぶひ、水の臭いがする…。近いな。ぶひ。」
 空がすっかり真っ青になる頃、犬治郎は声を上げた。 信じられない光景だった。 砂漠のど真中に、滾々と湧き出る泉が突如として現れたのである。
「し、信じられん!こんな凄い事が在るものなのか?正真正銘の湧水だ?」
「ぶひひ、さあ、金貨三枚だ、旦那。ぶひ。これは旦那一人では見つけるのは不可能だ。」
 犬治郎は土ブタに金貨を手渡し、思う存分湧水を飲んで言った。
「どう云う事だ?」
「この湧水は彷徨うからな…。場所を定めないから次に来てもここには無い。ぶひ。」
「…そうか。」
「土ブタしか見つけられない。ぶひぶひ。」
「こんなに水があるのに…。」

犬治郎は革袋に一杯の水だけを持ち帰った。

 犬治郎はアフリカに来て判った。

  …人間一人水を手に入れるのもなまなかでは無い。
『他人の不幸を笑えばいつか自分に降り掛かる…。』という説話がアフリカには在る。 厳しい環境の中で生きる者の真実の言葉だ。 犬治郎は自分を忘れて、瀕死の子供達に水を飲ませた…。 最初は呆れていた土ブタも、しまいには自分から水を汲み犬治郎に届けた。 いつのまにか土ブタには、数十人の子供の手下が出来て、いつも犬治郎と土ブタを取り巻くようになっていた。 一人の行動はたかが知れているが、すっかり犬治郎は現地民の間で有名になっていたのだ。 少ない食料を削って逆に持って来る者もいた。それには犬治郎は真に涙が出た。
「アフリカの子供も、遠く血の繋がる皆自分らの子供なのだ! 黙って死なせてたまるか!せめても一口の水でも…。」   誰言うともなく犬治郎は、その名も「犬のパパ」呼ばれた。

  犬治郎は満で六十歳の誕生日を迎えていた…。 自分がこのようにして還暦を迎えるとは夢にも思わなかった。

 利を無視して動く事が出来るのは、情の在る人間だけである。 人の救済は、人がする以外に無いのだ!
 緊急物資が取り引きに利用され、必要な人には届かない…。
 …死に瀕しているのは、むしろ人間全体なのではなかろうか?
 ここで起っている崩壊はすべての人間、人類そのものに起っている大問題だと正直犬治郎は思った。
 犬治郎は、勝手に付いてくる土ブタを引き連れて行動を起した。 『世直し事業』を破竹の勢いで始めたのである。
「まず取りかかるのは農園だ、己で食うのものを己で作る。」
 犬治郎は、犬萬ホールディングスに現地事務所開設を要請した。
「ぶひ、旦那といると俺は何か善い事をしてる気になるぜ…、この俺様が?まったく前代未聞だよ。
 ぶひぶひ、人の役に立った事がねえのが自慢の俺だがね、ぶひ。おいココット兄、旦那の昼飯を調達してこい!」
 ココットとは取り巻きの手下のココット三兄弟のことだ。 土ブタに始終くっ付いて、あれやこれやと細かい使いに明け暮れる子供達は、日に日に数を増していた。
 「エネルギーも食料も、みんな直接に解決することにする!
 カギは自給自足農園と屎尿エネルギーだな…。 必要なのは水!土ブタ、貴様の出番だぞ
 。 …しかし、えらいやつに見込まれたもんだ。 土ブタ、その旦那はやめろ、犬治郎でいい。」

 犬治郎、いや、今や子供だけでも100人は超える大集団だ、犬治郎一味といった方がいいかも知れない...は、地元の古来からの主食であるヤムイモの栽培に乗り出した。
 換金作物をやめて、もともとの自分達の主食であったヤムイモの栽培に戻ったのだ。 屎尿の大きなタンクが数カ所に作られた。 発酵させ、ここからメタンガスと液肥と水を精製しようというのだ。 水は土ブタがみつけて子供らが蟻のように運んだ。 他にも、子供らは精魂傾けヤムイモに少量の液肥と水を与えた。 やがて、瘠せた岩だらけの荒れた土地に力強くヤムイモが生った! …植物の力は神秘をたたえていた。 砂漠化した厳しい環境にこそ、力一杯のイモが生った! 悲しいかな、出来上がる頃合を見計らいヤムイモは略奪された…。
「ちきしょう!隣の村の大人達だべ!ココット小兄が夜中に見ただと!オラ攻め込んで取り戻す!」ココット弟が怒鳴った。 「ンダ!取り戻すだ!オラ達のイモだもの。」
 鼻垂らしの少女が鼻をなすり揚げ、思いきり眉を吊上げた。
「ふざけるな!大人!」
「ふざけるな!大人!」
子供達皆の大合唱になった。 子供の輪はどんどん大きくなっていった…。
「まあ待て待て。」
 輪に割って入ったのは、土ブタだった。

「静にしろ!大人が全部悪い訳でもないだろう…。 長老のヒエンは物知りだ、ヒエンなら知ってるぞ、どうしたらいいかな!」土ブタが言った。 ココット小兄と弟が、ヒエン長老にさっそく聞きに出かけた。 家が見える場所まで来ると、マンゴーの木陰から木琴の音が溢れて来た。 マンゴーの木陰でイスに腰掛けている長老のヒエンは自称百三十六歳だった。 輪郭が壁に揺れる木陰にすっかり同化して、小柄で皺だらけの顔に光る眼が二つ在った。
「…お前は、ココット小兄と弟か?よく来たな。うーむむ、答えは、こうだ…。」
 突然、今まで音楽のように聞こえていた、ころころ転がる水のような木琴が、こう喋った!?
「精霊を呼べばよい…。ヤムイモの精霊だ。」
「え?どうやって呼ぶのだ?」同行した犬治郎が思わず口を挟んだ。 すると、再び木琴がころころと、こう言った。
「満月から新月までの毎晩木琴を聞かせると現れるだろう…。 そこでこう頼め、『子供らが皆飢えている。』とな!」
「ココット小兄と弟よ!その男を連れて行け。」
 長老は、側で木琴を弾いていた男を貸してくれた。
   長老ヒエンの家を後にしての帰路で、犬治郎は木琴弾きの男に訊ねた。
「…ヤムイモの精霊が本当に居るのか?」
「勿論だ。犬のパパ、悩むな!木琴がきっと教えてくれる。」
その時、木琴弾きの男は深々と被った帽子を取り、犬治郎を見て笑った。 犬治郎はその顔にショックを受けた! …聞き覚えのある声、この顔! そうだ、あの僧だ!あの日、突然犬萬ホールディングスの社長室に現れた、あの托鉢僧だ!?
「誰の心にもここでは、まだ自然霊が宿っているのだ…。」
そう言うと、木琴弾きの男は再び真深に帽子を被り直した。

  その日が満月だった。 …ヤムイモに満月から新月までの毎晩木琴を聞かせる…。
 木琴弾きの男は広場の脇の大樹の下に木琴を置くと、夕まぐれから、まず、流すように木琴を弾き始めたのだ。
 鳥達が巣に戻り大騒ぎする中を、木琴の音が流れた。 東の空から大きな満月が泳ぐように昇って来た。
 薄暗くなった宵闇の空気の澄んだヤムイモ畑に朗々と木琴の音が鳴り響いた。 ヤムイモの畑の上にも、音は染込むように空間を渡っていった。 子供らは歓声をあげて歌い、やがて村中の者が加わって踊りだした。
 木琴の周りを列になり、前に後ろに動いて、さんざん卑猥なセリフを怒鳴った後で大笑いしながらコーラスになった。

♪さあさあ、にょっきり顔をだせ♪ ♪
 ヤムイモ畑のヤム男、一緒に歌って踊りましょう♪ ♪
 村の外から泥棒が来たよ、みんな持ってちゃって子供はぐーぐー腹ぺこだ♪ ♪
 おらはぐーぐー腹ぺこだ♪ ♪みんなぐーぐー腹ぺこだ♪ ♪
 おら達みんなへなへな力が出ないよ♪ ♪さあさあ、にょっきり顔をだせ♪ ♪
 さあさあ、にょっきり顔をだせ♪
 

 日を追うごとに盛り上がりは、ピークに達していった。
 いよいよ新月のその晩、真っ暗闇にヤムイモの精霊は現れたのだ…!

 鼻をつままれてもまったく分からない程の濃い闇夜だ。 皆が口々に卑猥なセリフを怒鳴った後に、木琴が饒舌に喋り始めた。 ダンスと歌は頂点に達していた。 ヤムイモの精霊が黙っておれず、ついに現れた。
「やあやあみんな、俺の好きな言葉を唱えてくれたね。俺も嬉しくなって来たよう。 さあ!腹が減っているのは誰だ?あんたか?あんたか?ほいさっさー、ほいさ。 俺を食え食え!いっぺんに腹を膨らませるぞ!腹ぺこでねえかあ?」
 木琴の音は、突如このように聞こえた!? その姿は真っ暗で何も見えないが、空気がねっとりした。
「子供らが飢えてる!大人もだ、みんなよろしく頼んます!」
 闇の中、犬治郎の怒鳴る声がした。 するとまたまた木琴が喋った!
「ほうほほー!腹ぺこばかりなのかあ?それなら俺をまるかじれ! 腹ぺこはいねえか?腹ぺこはこっちゃ来い。」
 そのねっとりした空気を食うと口の中でねっとりしたイモになった。
 そのねっとりした空気を捏ねると、ねとねとして手の中でフフという食べ物になった。
「うめえ!」子供らは狂喜した。
「かあちゃんに食わしてえ!」別の声も叫んだ。
「おらもだ!瘠せた病気の妹にも!」
 ココット弟の声だ。
「…精霊が出た?」
 犬治郎は、あらためて信じられないという思いを新たにした。 食料は商社などにとっては、只の物資であり、取り引きの対象であったが、忘れ果てていたことに精霊の世界のものなのだ!?
「そんなバカな?これは事実か…?」
 この歳になってまったく保然としてそのイモを見た。
「犬パパ!ヤムイモも知らんの?」鼻を垂らした子供がフフを犬治郎の口に入れた。
「でも食べ過ぎちゃいかんよ、お腹一杯は毒だってじいちゃんが言うよ。」
 別の子が犬治郎を見上げて言った。 犬治郎の目に涙が光った。 日本人もこんなはずじゃなかった!貧しいのはまったく俺達の方だ…。 犬治郎は、あらためて西洋化された社会が、破壊的な様相を持つ事に強く危機感を持ったのだ。 思えば大航海時代から、西洋文明の搾取の地として今だアフリカがされたままなのだ。 日本もまったく然りだ…。 すべての間違いはココから始まったかも知れなかった…。
「誰も止められないのか?」
 腹の中から絞るように犬治郎はつぶやいた。 …日本では食事の前に誰も
「いただきます。」を必ず言う。 これは、精霊そのものへの感謝であったのか…。
「われわれは何に対しての感謝をしていたのだ?」
 犬治郎は突然吐き出すように言った。 闇に向かうと、犬治郎は口にフフをほうばったまま涙ながらに怒鳴った。
「くそ!いただきまーす!」

「…食う前にそんなこと言うのは人間だけだな。俺はがつがつ食うぞ。」
 土ブタが言った。
「お前は動物だ、人間はそうはいかんのだ。」
「そんなものかね。いけねえヤムイモ落としちまった、真っ暗だとこの上品な味も判らんねえ。くそ!」
 そう言いながら土ブタはライターに火を着けた。 その時、長老の声が怒鳴った。
「コラ!誰じゃ?火を着けてはいかん!明るくしては水の泡じゃぞ!」
 周囲がぼうっと明るくなった?
「…そんな明るい火は俺じゃないぞ?」
「火矢だ?!」
 土ブタは後ろを振り返るなり怒鳴った。
 すると紫色の火の玉が幾つも幾つも放物線を描いてこちらに飛んでくるのが見えた。
 ばらばらと黒い森の木々を超えて広場に射込まれてきた。 何者かが火矢を射かけてきたのだ。
 地面に落ちると緑色の炎を発して燃え上がった たちまちに広場の周囲は、奇妙な緑の満月の夜のごとく明るくなった。  木琴の音に合わせて踊っている精霊が瞬間ぼうっと見えたが、すぐに森に消えてしまった。
 ヤムイモの精霊を見た者達の混乱は極致に達した。
 怪奇な容姿もさることながら、その巨大なイモの様な身体が一瞬にして醜くぐにゃりとトロけたように見えたからだ。 異様な緑の火は、誰も消し止めようもなくそのまま放置された。
 大騒ぎとなったこの広場から、気がつくと木琴たたきのの男がいなくなっていた。

 あの闇からの火矢はとても人間わざではないと、興奮ぎみに土ブタは言い切った。

 しばらくすると、火矢が再びバラバラっと射込まれてきた。
「いったいどうしたんだ?誰の仕業だ?!」
 犬治郎が叫んだ。 森からは、二メートル半もあるブリキロボットのような武装兵士が、十体ほど音も無く出てきて、 緑の火を森の向こうに投げ返し始めた。
 顔や身体に塗った塗料からまるでたくさんの踊る外骨の様に見える。
 子供らみんなは、やんやの喝采を上げた。 どことなくその動きは頼もしくも有るが、むしろユーモラスだった。
 転ぶとバラバラになるが、すぐにまた不思議な力で組み上がるのがなんとも笑いをさそった。
 いきなり雷の雷鳴の様な音が響いたと思うと、なんと!側に居た山羊の口を内側からこじ開けるようにして木琴弾きの男が帰ってきた?
「ふう、残念だが取り逃がした。」
 そう言うと、そのままそこに落ちて伸びてしまった。
「…肝が帰らんな、ミモザの花とハイエナの尻尾を持って来い。」
 長老の一人が若者に言った。
「この男の本当の名を述べながらミモザの花のついた枝で囲み、尻尾で鼻廻りを擦れば、帰らぬ胆魂も戻るだろう…。」 「メロンマンだよ。メデスンマンのメロンマンだろう?」ココット小兄が言った。
「いや、メロンマンではない…。本当の名だ。メロンマンではびくりとも動かぬ…。」
 長老は皺に皺を入れ困った様な顔をした。
「この男の本当の名なら俺が知っているよ。コンガラ童子だ!」
 犬治郎が横合いから口を挟んだ。
「犬の旦那、ホントか?ブヒ。知り合いか?」
「ああ、知り合いだとも、間違い無い。俺の目を覚まさせてくれたコンガラだ!」
「おお、コンガラか?コンガラ、コンガラ、戻って来い。君の身体はこちらに戻っているぞ。怒りを鎮めてすぐにも戻って来い。 戻らぬと手後れになる。」
 長老が押えた山羊の開いた口の中に呼びかけた。

  犬治郎は、一部始終を目玉を丸くして見守っていた。
「いったい、この山羊の腹の中には、何が有るというのだ?」
「ブヒヒ、まあまあ、旦那の考えているよりは、凄い世界でさあ。 きっと、度胆を抜かれますぜ!西洋の学校じゃ教えてくれない事ばかり、世界が唯事で無いですから。」
 土ブタがなだめるように言った。
「うーむ、俺にも判らん事ばかりだ! この六十年間何をしてきたのだろ俺は! 敵は何処だ、どいつが敵なのだ?」
 犬治郎は、歯痒さに爆発寸前だった。
「敵?ブヒブヒ、旦那、簡単でさあ、誰かが腹の中で思っているんだ。 想像する事が現実になるんです…。それもご存知ない? この世界の誰かが思いついた悪事が現実になるのですぜ、ブヒーン。 腐った気持ちの汚染が、メデスンマンにはそのまま敵となって現れてくるんでさあ!ブヒヒン」
「何だって?」
「まあ、なに、俺もひとごとでないんですがね、ブヒ。」
 土ブタは上を向いて頭のてっぺんを掻いた。 すると、別の眠りこけていた長老が目をつぶったまま言った。
「そうじゃ!あんなやつどうでもよい、どうとでもなれ、というのが恐ろしい。 自分さえ良ければというのがもっとも怖いぞ。 それがウジ虫のように寄り集まってとんでもないものとなるのじゃ…。」
 犬治郎は声も出なかった。 コンガラはそんなものと戦ってきたのか?そして戻ってこれるのか…?

 その時、誰も弾いていないのに、木琴の上のバチがひとりでに踊り始めた。
 それはやおら言葉となって聞こえはじめた。

 一方、コンガラの胆魂は怒りを鎮められぬまま、異界を彷徨っていた。

  そこは、異様なほど薄気味悪い感じがして、上から何物かの霊気が流れ下る滝の様なところだった。
 果ての見えぬほど、広大な滝がめんめんと連なり、目の前で瀑布となり轟きを上げていた。 今しがた追ってきた魔の姿は、ちりじりにここの上付近で霧散してしまったのだった。
 コンガラは、舌を縦巻にした隙間から鋭く吹き矢のように、唾を滝に射込んだ。 すると滝全体が、地鳴りとともにぐわーっと立ち上がった?
「滝よ、俺の怒りを鎮めてくれ。このままでは元の鞘に戻れん。」
「…今俺に唾矢を射込んだのは貴様か?」
「その通り!一番相撲を取らせてくれ。
」 「ふざけた事を抜かすな、小僧。神聖な滝をなめるとこうなるぞ!」
 コンガラの胆魂と、瀑布は、突然立ち上がり、がっぷりと組んだ。 両者磐石のようにガッシリと組み合った。
 双方の力がぎりぎりと締め上げて、すべてが物凄い力で圧迫された。
 すると怒りは、我慢出来なくなってコンガラの胆魂から霧散した。 コンガラの胆魂は力を得て、ますます力を加えた。
 膨大な瀑布から、何物かが絞り出されるように昇華してるのをコンガラの胆魂は見届けた。 その途端に、コンガラの胆魂は瀑布に豪快に投げ飛ばされた。 広大な瀑布の上に信じられない程の美しい虹が掛かった。
「おお?お主、爽快じゃ、爽快じゃ。今までの憂鬱は何じゃ?もう一番取ろう!」
 滝が怒鳴った。
「おう、機会があればな!」

 コンガラの胆魂は、この世のものでない加速を続け、異界の天井をぶち抜けた。

 

 コンガラの胆魂はますます速度を速め、無となって次元を突き抜け、逃げおうせたと油断している魔の気魂の軍勢に追付いた。 そこには、空間一杯に漂う暗い暗褐色の何かが充満していた。

 コンガラの胆魂は、いきなりそこに怒りの昇華した霧を吹付けたからたまらない。
 充満した何かは、無数の蛆の形をとった。 恐ろしい程の数の蛆が、バラバラと塊になって下界に逃れようとした。 それぞれ人間の脳の隙間に逃げ込もうとしたのだ。 しかし蛆と実体化したままでは、入り込めない…。 コンガラの胆魂は、ブリキの軍勢を地上に無数に降下させ、それを片っ端から踏みつぶしにかかった。
 残念ながらここで、コンガラの胆魂の時間が来た。 …地上の身体に戻れるギリギリの時間だった。 度胆を抜かれた犬治郎らの見守る中、コンガラの身体の横たわる脇の地面が一部輝きを帯び、突然揺らいで変容した。
 地面から勢い良く、長い潜水をした泳者のように真っ黒な何者かが吹き上がると、コンガラの臍に飛び込んで消えた。 それを待って、コンガラは大きく息を吹き返したのだ。 最前から聞こえる木琴の声は、これら一部始終をすべて実況で伝えていた。 今、その喋りは、コンガラの胆魂を称えるとともに、警告も発していた…。
「誰かがやらなければ、誰がやる。 誰かがやらなければ、誰がやるのさ? 誰かがやることじゃない。私がやる。 私がやらなければ、誰がやるのさ? 誰がやってくれたのさ?それはあの人? 汚い事や、辛い事、誰かがやった? 誰かがやった。誰がやってくれたのさ?それはあの人。」
 喋りの終わりにそう、木琴は付け加えた。

 半信半疑、木琴の喋りを聞いていた犬治郎は、天からばらばらと降ってくる蛆を見上げて仰天した。 「本当だ!おい、みんな。 この蛆どもを踏み殺せ!一匹残らずだ! こいつらが敵だ!」
「ブヒ、驚いたね?本当かね…。 俺は人間じゃ無い、俺には餌にも見えるがね。 けっ、まずい! あわわ!凄い刺激だ、ブヒ。」 土ブタが落ちた蛆を摘まみ上げ食ったのだ。
「やめておけ!そんなもん食えんぞ!いくら貴様でもそいつはダメだ。」
 数百人の子供達と、ブリキの兵士は、必死になってその蛆どもを踏みつぶした。 後から大人達も加わった。 あたり一面、力強く踏み付けるドス、ドス、ドスという音とリズムで一杯になった。 やがてリズムに合わせて、幾つかの太鼓のリズムが加わった。 踏みつぶしは、何か異様に盛り上がってきた。
「うわー」
 という歓声が方々に上がり、片っ端から蛆どもは全て踏みつぶされた。
 そしてそれが一段落するころ、犬治郎が見渡すと、其処にコンガラと木琴はすでに居なかった。

 犬萬を通じて、犬治郎の耳に素早く世界各国で蛆の降るニュースが、緊急に届いた。 東京では大騒ぎとなりパニックが襲ったという。 人々は踏みつぶす事も出来ず、大人も子供も逃げまどい、清掃局と保健所に頼る以外何もできなかったそうだ…。 犬治郎は情なさに涙が出た。犬治郎は膝を折ってその場に号泣した。
「くっそ!自分に巣食う虫じゃないか!誰かがやってくれる事じゃないんだ! これは、自分で踏みつぶす以外誰がやるというのだ?」
 すぐとなりで土ブタが、しょんぼりとして言った。
「ブヒン、旦那の国ではそんなに酷いのか…?」

 日本では、蛆などが自分の目の前に曝される事など、現在ではほとんど無い事も事実だった。 見たくないものは、自分の目の前からいつの間にか消えていた…。

 これというのも、公共のインフラが隅々まで整い、上下水道、電気、ガス、などの普段意識しない線でつながれて生活しているからだ。 普段食べている肉なども、目の前で屠殺を見る事はなどはまったく無い。 人の誕生や、死さえ、家庭から目に見えない場所に隔離されて、人間が生き物である事までが忘れ去られようとしていた…。
「間違っているんじゃないか?
汚い辛い事をみな隠し、すべてを誰かがやってくれると思う…。 そんなことでいいのか!?」
 犬治郎は、ひとり中空に大声で怒鳴った。
「早晩、人類全部が壊滅してしまうぞ!」

 犬治郎は、犬萬ホールディングスでも同じ事にぶちあたたことがあった。
 放っておけば、嫌な事辛い事は社長の耳に入って来ないのだ…。 責任の無いごますりに囲まれて、いつの間にか気が着けば自分が裸の王様になっていた。 まさにトップの人間が、自分の目先の利だけで行動していたからだ。 …大いなる経営の危機であった。 大改革の末、正直なもの、まともなものを根幹から問い直した経緯があった…。 それは、少しづつの人間の心のごまかしが原因であったのだ。
 人の事ではない! まずは、CEOである自分の、誠実さ、正直さ、が大問題となったのである!
 思い立ったらジッとしておれない犬治郎は、周囲が止めるのも聞かず、 その時おのずから会社の便所掃除と取り組んだのだった。

  土ブタが同情の顔つきで言った。
「ブヒ、旦那もたいしたタマだな。世の中なんてもんは勝手に動いてゆくさ。」
「いやいや、犬のパパ、あんたはエライ。その心が好きだ。」
ハイエナの尻尾を持った長老が、皺だらけの顔をますます皺にして言った。
「わしをあんたの国に連れて行け。その国を立て直したらよい。そこには魔が入り込んでおるぞ。」
「ブヒブヒ、なんだって?生き馬の目をひきぬくようなところだぜ!
 とっつあん止めておけ、悪い事は言わねえから。ブヒ」
 土ブタが長老の肩を抱き、なだめるように言った。
「いや、長老もご老体だ、とても無理だ。飛行機の長旅はこたえるでしょう。…気持ちだけで十分です。」 犬治郎は、ハイエナの長老の手を握って礼を述べた。 「馬鹿もの!人の不幸を放っておけと云うのか!今すぐにでもここを立とう。」 ハイエナの長老の、皺だらけの顔に在るつぶらな目が光った。 犬治郎はその言葉に胸を打たれ、感動して涙ぐんでしまった。 「ハイエナの長老、私はあなたに対して出来うる限りの事をします。日本に行きましょう!」

 犬治郎は、すぐさま直行チャーター機を犬萬現地支社に早急に用意させた。 年令も名前も定かでない長老の出国に、難色を示す大使館員らに、金を握らせてただちに解決し、 犬治郎は、なんとその日のうちに土ブタと数人のお伴を引き連れ、日本へと飛び立ったのだ。

  離陸したジェット機の窓から広大なアフリカの暗い大地が見えた。

  土ブタや長老は、その景観に興奮して大騒ぎをしていた。
 そこには何もかも呑込んで、意外にも、穏やかな生活の明かりが、うすぼんやりとそこここに灯っているのが確認された…。 やがてあたりは真っ暗な空間となり、機体はぐんぐんと上昇を続けていった。
 昼の疲れか、長老も土ブタも豪快ないびきをかいていたかと思ったら、死んだように眠ってしまった。
 犬治郎も普段ならすぐに眠ってしまう剛胆な男だが、何故か犬治郎の目玉は覚醒したままだった。
 ふと窓の外に気づくと、星々がギラギラと輝く直中を飛行していた。 犬治郎はアフリカに来て今まで起った事が夢の様に思えた。 突然、無力感が犬治郎を襲った。 犬治郎は、あらんかぎりの力で自分の行動が無駄ではなかったと自分に強く言い聞かせた。 しかし、何も出来なかったという無力感が、忍び足で身体を急速に広がった。
「人間一人の力なぞたかが知れている、他人の不幸なぞどんな事をしても救えるはずがない。」
 という思いが気持ちいっぱいに溢れてきた。 その時、水を飲む子供らの屈託のない笑顔が浮かんで、犬治郎は本当に救われた…。

 同時にジェットの機体は知らぬ間に入った暗黒を抜け、ふたたび明るい星々の中を飛行した。 ふと目を移した窓の外にコンガラの顔が覗いた様な気がして、犬治郎は目玉をますます見開いた。

 東京タワーの夜の展望室では論争が起っていた。 魔界の、三人の頭のある王が人間界の非業な最後について謎を掛け合っていた。 「俺は、右回りに廻りながら軍勢を注入して、人体もろとも粉々に砕いてゆく行く方式を取りたい。」
「貴様の方式では人間は楽なものだ、わしは絶対に左に廻りながら内臓からぶっちぎり、この上も無い苦悩をまき散らす方式だ。」 「いや、その方らのやり方では、まったく生温い、方向は上だ!すべてを坩堝に誘き寄せ上から頭から剃り下ろして血の雨を降らせ、ふいに圧搾する方法が最も良いのだ。」
 三人の声が揃った。
「それでは風味が失われてしまう!わっははははー!」
 そのような訳の判らぬ事を云っては、人の魂の干物をむさぼり食っていた。
「やはり天日で干したものが、極上だ。」
「うぬ、半生も俺の好みだがな。」
「恐怖を味わって絞めたやつは格別味が良いからな。」
 まるで何処かの呑み屋で、おじさんが一杯やっているかの会話が交わされていた。 その頭から胸にかけては三つ有るが、下半身は腹から一つだった。 東京はすでに、自衛隊の出動をみるまでも無くほとんど一日で壊滅状態だった。 都民の八割方は魂が抜かれ、半数がすでに干物にされていた。 一夜にして大勢の魂を抜かれたゾンビ人間が歩き回る異様な廃虚と化していた。
「ちくしょうめ!コンガラは俺達の大事な軍勢を実体化して蛆にしてしまいやがった。」
「アフリカから老いぼれのメデスンマンがやって来るぞ。」
「犬治郎という阿呆も帰ってくる。」 三人の声が揃った。
「なんじゃーそれ、屁の突っ張りにもならんわい!わっははははー!」
 暗い東京の夜景に、三人の頭の大王は再び乾杯のグラスを合わせた。

  一夜にして変わり果てた東京、その原因の中心が眼下にあった!

 展望台の真向かいに巨大な花が見えた。つまりその高さは東京タワーに匹敵していた。
花は闇の芝公園当りから生え立っているようであった。 周囲には、えも言われぬ恐ろしい腐臭が立ちこめていた。
 …「ラフレシア」だ。しかし、ここまで巨大化したものが果たしてラフレシアなのか?
 夜の闇に放たれた腐臭に寄せられるように、死者となった魂を抜かれたゾンビが重い足を引き摺ってあちらこちらから、蛆のように吸い寄せられて来る。 三つ頭の大王は、配下に改造したTVマンらに南洋のジャングルから超巨大な「ラフレシア」の卵を運ばせ、異常培養して、ここ東京タワーに咲かせたのである!
 最初は、怪奇な特番としてこの模様をTVで生放映したのだ!
 ところが、TVの向こう側は決して安全なところではなかった…。 原因不明の内に、次々と番組を見たものが死者となり、ゾンビと化したのだ。 闇に目を凝らすと、花は一本どころではなかった。
 花はあたりの深い闇に林立して異様な景観を呈していた。
 …これが東京なのか? 犬治郎らを乗せたジェット機は、長い飛行を終えて東京湾上空を旋回していた。 どう見ても、その中心は深い闇に覆われているのであった…。

 機は横田米軍基地に緊急着陸の申請をした。

「一夜にしてとんでもない事になったらしい。」
犬治郎は着陸すると、ただちに犬萬ホールディングスに電話した。
 一時間もしないうちに、ガードマンと側近の社員がすっ飛んで来た。 犬治郎らは、米軍基地内に在る犬萬ホールディングス系列のホテルに向かった。
「蛆は清掃車が回収して焼却処分したらしい。 しかし、その直後に、感染するように人がばたばたと死んだと思ったら、その死者が夜間に徘徊を始めたらしい。…いったいどうなってるのだ?」
 犬治郎は、首を捻った。
「それはな、蛆を潰さずに焼却処理したからだぞ。 やつらは焼き払うと夢体化して人間に入り込む事ができるようになるのじゃ。 そうなると人間の心臓は止まり、ゾンビとなる。」
 顔中皺だらけの長老が、ハイエナの尻尾を呪文とともに立ててゆっくり降り払うように喋った。
「ブヒン!ゾンビ?煮ても焼いても食えねしろものだ。 国は無能だぞ。どうするんだ?旦那。ブヒブヒ。」
 土ブタが、口のチョコをころがしながらちょっと笑った。
 長老の手に持つハイエナの尻尾は、突然ゆっくりと立つと自動的に方向を示して動き始めた?
「ついて来なされ。」
「ど、何処に?」
「ブヒブヒ、ああ、きたぞ、まったくアフリカの奇跡だな、ブヒン。野性動物を大事にせにゃね。」
 土ブタらも後に続いた。

  MXTVは電波を乗っ取られたまま、ラフレシアの映像を流し続けた。
 固定カメラが、闇に茫洋と浮かぶ巨大な花たちを延々と映していた。 そのTV映像を脇目も振らずにのめり込むように見ている男がいた…。
「やっぱり、ホントになってしまった…。」
 馬場鹿男。ユリ・ゲラーよりも高い能力を持つと騒がれ、超能力ブームの折にマスコミ世間からインチキ扱いされた超能力者だ。 鹿男は念写を得意としていた。 その何枚もの念写の写真で、東京タワーの背景に巨大なラフレシアが写ったものが放送され、 インチキの刻印を捺されてしまったのである。
 鹿男の、その後の人生はまったくひどいものであった。 誰もが鹿男をインチキ呼ばわりし相手にしなかった。
 そこまでひどくなった原因は、念写映像だけでなく、週刊誌の特集でその恐ろしい内容を語ったからだった…。 世に蛆が降り、ゾンビと侵略者の渦巻く話は茶番のSFとして、世の笑いものとなった。 その後、鹿男はわざとうさん臭い格好を好むようになり、うさん臭い振りをするようになった。 …そしてマスコミから消えた。 鹿男は、TV映像に目をやったままぽつりと言った。

「俺が見たのは、…これだけじゃない。」

 その映像は、今も鮮明に鹿男の眼に刻まれていた。 ほの暗い闇に林立するラフレシアがポツリポツリと光っている?
 暗いシルエットにしか見えなかったその蟻塚のような形態に、僅かだが発光が見え始めた。
「夢の原形化だ!貘だ、貘が来る。そうだ!あの夢を喰う、貘…。」
 やがて無数の蛍光発光が銀河の様に見えるさまを、固定カメラは生中継映像に映し出した! 光を発しているのはゾンビの口であった? いや、正確には、ゾンビの口から何者かが這い出て発光していた…。 無数の白蟻の様な虫が這い出てきていたのである。 ラフレシアを巣として数千万の虫どもがぞくぞくと暗い塔を上っていた。 或高さまで来るとそれは花の内部に流入していった。 そら恐ろしくもあり、まったく美しい光景である。 三人頭の王の一人が叫んだ。 「夢の原形化だ!これは台本にはないぞ?」
「俺も知らん。」
「以下同文。」
 展望台からは、まったく美しい発光が目の前一杯に広がっていた。
「夢の原形化など、まったく俺は興味はない。」
「虫どものわしらの軍勢が、“夢化”に変態したのかも知れんぞ?」
「む、利を得るには含む損も在る。“夢化”に変態した虫のコントロールには、魂を戻さねばならん…。」
 三人頭の王が声を揃えた 。
「それはやりたくない!すでに俺達の干物だ。」
「ふふ、わしら、これだけの魂の干物さえ手に入れればもう、十分用済だ。」
「無垢時空に戻るのが得策だ。うるさいコンガラのやつが出んうちにな。」
「ああ、戻ろう。蛍光虫が、せっかくの美しい戦慄の闇の花見気分を台なしだ!」
 三人頭の王が声を揃えた。
「さらば、人間ども!」
 瞬間に、奇異な姿も展望台から消えていた。
 それを追う様に、とてつもない鋭い閃光がタワー上空から走ったのが見えた。

  犬治郎、長老らは黒塗りのセダンに分乗し、東京タワーを目指して五日市街道を東に向かった。 ゾンビの襲撃を避けて、車は本道から外れ裏街道をひた走った。 小金井近辺まで来ると、長老の目があらぬ方を見て神がかった、長老はハイエナの尻尾をピンと真直ぐ立てたままだ。
「わしはこの呪術棒のままに動いてる、棒がどこかに高い場所を探し求めておる…。 “そこ”が見える程高くなくてはならん。」
「“そこ”とは東京タワーだな?何処かないか?」
 犬治郎がフロントウィンドウに顔を寄せ見回した。
「途中に田無タワーが在ります。」
 運転していた側近が答えた。
「よし、そこだ!」
 まもなく疾走するセダンの車窓から、闇夜に明滅する赤い光が目に入って来た。
 黒のセダンは素早く田無タワーに横付けられた。 長老は、柵を越え、ハイエナの尻尾を真直ぐ立てたまま外部梯子段を登り始めた。 犬治郎、土ブタらは、その行動に驚くヒマも無く後に続いた。 神がかった長老は、ゆっくりとした木偶人形のような動きで、ついに頂上付近まで上り詰めた。 犬治郎は途中で真下を見ると、黒のセダンがチョコレート片の様に見え足がガクガクと震えた。 土ブタはさすがになんなく登り切ってしまった。 長老は夜風にもあもあの髪を逆巻かせて、東の闇に向かって何か呪詛するごとく喋った。

「…さあ今から、喚ぶぞ。 サバンナのもっとも神聖なるものを喚ぶ事としよう。」

 長老の身体は時折吹き上げる強風に吹き崩れそうになった。 だが、空中に差し出された呪術棒は、不思議な固定をしてまったく揺らがなかった。 …その棒の先に瑠璃色をした数十匹の、見たことも無いトンボが出現した。
 その美しさは夜間にもかかわらず、目の覚める様なブルーをしていた。 棒の廻りに正確にホバリングして、複雑な幾何学図形を作り出していた。
「おお、来たな。ちょっと頼むぞ。」
 長老は、何も無い空中に足を踏み出した。
「危ない!」
 犬治郎が後ろから長老の腕を引いたが、もろとも転げ落ちたと思われた。
 あわや、まっ逆さまという時に、なんと二人は素早く立ち直って空中に浮遊していた。
 幾何学図形が瞬時に広がり、頂点にはそれぞれのトンボがホバリングいた 。
「これを何と呼べばよいのかわからぬ。 つまりはご祖先様のおかげじゃ。 人を信ずる事があれば、おのずからどうにかなる…。」
「はあ、驚いたな!誰が助けてくれたのか?」
 犬治郎は何も無い足下を見てあたりを見回した。
「これがつまりはトンブクトゥじゃ。」長老は浮遊しながら言った。
「トンブクトゥとは古代マリ帝国の都じゃないか?」
「トンボ・クトゥーは、新しい虫の意味じゃ。」
「おーい、俺も乗せろー。」
 土ブタが怒鳴った。
「人を信じる?しかし、そんな安普請の宗教のようなことでなあ…。」
 単純を良しとする犬治郎にはまだ納得がいかなかった。 しかし、自分の身体は歴然と中空に浮かんでいたのである…。 「さて、現場に急ごう。」
 長老がハイエナの呪術棒を軽く振った。
 途端にトンボは複雑な幾何学図形を再編成して、人もろとも塔から飛び去った。 飛び去る最中、犬治郎は自分の物心着いてからの人生を思い返してみた。

「“ご祖先様のおかげ”? いったい人と云うのは、どこまでの深さを持つものなのだろうか…?」
 犬治郎は、まったく頭の芯が痺れる思いがした。

「ブヒン、長老、ところで、サバンナのもっとも神聖なるものってのは何だ?ブヒ」土ブタが聞いた。 「おお、それを忘れとった。 最近めっきり物忘れがひどくてなあ、塔に戻ってくれ。」
 拍子抜けをした長老に一同やられてしまった。 笑い声が多摩の真っ暗な大空間に響いた。 土ブタは笑い転げ、犬治郎は大笑いをして片腹が痛くなった。 側にいた犬萬のガードマンさえ塔から落っこちそうになった。
「おぬしら知っとるか?夜のサバンナには、眠りを食べる生き物がおるんじゃ。 今も暗黒のアフリカにはおる。 人は夢を見ると額に瓢箪の様なものがぶら下がる。 それをよう食べに来るんじゃ。 朝になるとすっかり見た夢を忘れてるじゃろう、そいつの仕業じゃ。 象のように鼻が長くて、舌はカメレオンのように巧みじゃ、鋭い爪を持ち、その舌で夢だけを取り出して食べる。 この霊界の小さな動物が星の数程の年月を生きて祖霊化したのが、巨大なキンタンゴだ。 キンタンゴは、教えるの意味じゃ。 何を教えるのか、誰もわからん。」
 天に向い呪詛し始めしばらくすると、やがて長老は額から脂汗を流した。
 なおも産む苦しみのように唸り呪詛を続けた。 犬治郎は西の方角の空からドオンとした気団の様なものが迫って来るのを察知した。 低空で来た気団がそこを通り抜けると、地鳴りとともに闇の空間に光る虹色の尾が何本も引くのが見えた。
「さあ、皆の衆、今度こそ出立だ!」

 長老のトンボ・クトゥが東京タワーの展望台に降り立った。

  呪術棒の廻りに美しいブルーのトンボが集積すると、輝きとともに一瞬で消えた。
「みごとな光景じゃ。キンタンゴが花の中の光を食っておる…。」
「何と云う事だ!キンタンゴとは、言うなれば巨大なアリクイだな!」
 犬治郎は夜景から目を放さず言った。 キンタンゴは、目の前の群生するラフレシアを巡って、蛍光を発する物体をペロリと食い廻っていた。
「こんなヤツ、俺も見た事も無いぞ、ブヒン。」
 土ブタが言った。
「キンタンゴは原形化した夢を食うのだ。人の原形化した夢が無数に花の中で光っておるじゃろう。」
 長老はしわくちゃの顔の中の目を光らせた。
「何故だ?どうなってるのだ? 長老、説明してくれねば俺にはまるで判らない。」
 犬治郎は頭をかかえた。
「イヌパパ、夢を見た事があるかね? …夢とはとても茫洋としたものじゃ。 じゃが、人はこれが無いと酷く困った事になるのじゃ…。 魂は、この夢を通してしか存在が出来ないときておる。 つまりは逆の事が起っておるのじゃな…。 人が魂を抜かれ、ゾンビになった、 そのゾンビから何らかの原因で夢が原形に戻って、巨大な花に流出してしまったと云う事じゃな。 …それをキンタンゴが食っている。」
「うむ、まったく不可思議な出来事としか言えんな!」
 犬治郎はひどく得心した。 そう云えば、あのコンガラが最初に犬治郎を訪れて来たのも、不可思議な出来事として夢の中であったのを犬治郎は思い出していた。

  キンタンゴは、ラフレシアを巡り“夢”を食い続けていた…。 しかし、ラフレシアの急速な増殖と、ゾンビの原形化は唯事ではない数に上っていた。 まるで、違う惑星の、違う発達をとげた生物コロニーを思わせた。
 馬場鹿男は、相変わらずTVの前で画面に罵声を浴びせた。 鹿男の住まいは、神田川沿い落合あたりの下駄履きアパートだった。 巨大ラフレシアは山手線の内側半分までを占拠し始めていた。 六本木、渋谷、新宿、どこも巨大な塔のような花が林立して、TVは異様な景観を映し出していた。
「ついに、俺の見た通りになってきた…。
 さあ、みんな死んでしまえ!貴様らみんな死んでしまえばいい!
 …いよいよ出てくる!冷徹で恐ろしい魔人が。
 ゾンビやラフレシアで驚いていたら臍が茶を沸かすさ!
 …俺の見た最後の映像に登場するのは、ミノタウロスの恐ろしさ持った、ヤヌスような両頭の怪人だ!
 こいつが、人間の都会を立ち直れない程めちゃめちゃにするはずだ。
 誰も生きて逃れられる事は無い!誰も彼も地獄に落ちろー!」
 鹿男は、涙ぐみながら独りTVに向い絶叫した。

  生き残った都民は最初はびっくりはしたが、ゾンビが花に寄せられて注意をこちらに向けて来ないのと、たかが花の事だと他人事のように構え、自衛隊がダメでも、そのうちアメリカ軍が何とかしてくれるとタカをくくっていた。
 こと他人の死に関しては、今だ無関心であった。 人口二割となってしまった今も、山手線の内側を除いては、まだ普通に生活をしていたのである。
 鹿男が外に出ると、すぐの高田馬場あたりにまで花は迫って来ていた。 あたり一面に、腐臭というか、汲み取り便所の臭いに似た吐き気を催す強烈な臭いが漂ってきた。 その臭いに誘われるように多数のゾンビが、ぞろり、ぞろり、と花に吸い寄せられてて歩いてゆく。 たとえ、人間のままで生き延びた者もそこには、とても居られぬ場面がやって来たのだ。
 鹿男はどうしても、花の中を覗いてみたい好奇心を抑えられなくなっていた。 かねて用意していた防毒面が役立つ時が来たのだ。 ゾンビどもは花の下まで来るとゆっくり倒れてどろどろに腐り、そこから原形化した夢が緑に蛍光発光し、無数の白蟻のような虫の集合となり、花を登り、内部へと消え去るのだ。 鹿男は、ぬるぬるしたゾンビの腐った死体の泥濘を越えて進み、発光する緑のモノに触れようとした。

「待て!」
 鹿男の目の前に立ちはだかる者がいた。

  鹿男は自分の目を疑った。 緑色の発光体が自ら立ち上がり人の形をとったのだ。
「触れてはダメよ。」
 若い女の声がした。
「わたしは実体のないラフレシアの霊です。 今、私に触れるとあなたの夢の原形化が起ります。
 あなたの心にあるものがそのまま実体化してしまいます。」
 声は、あらゆる女の声が混ざったものに変わった。 その緑色の身体の中に、幼子、少女、若い女、年増の女、老婆、あらゆる女達の幾千の相が現れては消えていくのを、鹿男は驚きの顔で見つめた。
「女ばっかりだ…?」
 鹿男は、自分の幻覚がそこに現れたのではないかと一瞬思った。
「せめて、花に収まるまで待って。」
 再び若い女の声がした。 発光体は、ふるいつきたくなる様な若い女になった。
「うそだろう!あんたは只の幻想だ。 こんな腐ったところに霊が憑く訳が無い、激烈な腐ったやるせない臭いが生み出す幻覚だろう。 俺はひねくれた超能力者だ、俺は一目俺が見えなかったものが何なのか見てみたいだけだ。 ラフレシアの実体! 俺には、見えない!ここのところだけが透視出来なかった! 幻影には用は無い! …触ってみれば判るのか? マスコミでインチキ呼ばわりされた以降、いったい俺がどんな思いで生きてきたのか教えてやろうか? 泥棒め!実体化させてみろ!お前は只の幻影だ、…お前の正体を暴いてやる!」
 鹿男は女を捕まえようと飛びかかった! しかし、緑の人の形は目の前を崩れ去った…。

 鹿男は自分の身体が瞬間に熱くなるのを感じた。 胸から、脇から汗が溢れるように湧き出した。 突然身体から何かが抜け出て行った…? 身体が、ラフレシアの花弁の中へ溶けて流れ落ちたところまでの記憶の後は、身体から何ものも消え去った…。 鹿男の邪悪な思念と強烈な憎悪のみが、ラフレシアの夢の原形化作用により実体化したのだ…。 それを、以前になんと皮肉にも、…鹿男自身が予知したのであった。
 鹿男の見たとおり、二つ頭が異様に周囲の気配を伺っていた。 腐臭に集まったカラスが、ナニモノかの恐怖に駆られ、驚くように一斉に飛び立った。 それが黒い雲のように八方にちぎれた。
 怪物は、やおら手に持った鉄の斧を大きく振り下ろし、当り構わずメッタ打に打ち砕いた。 ラフレシアの林立したもうもうと立ち上がる水蒸気の中に、異様な巨体が現れて来た…。
 一方の邪悪な思念は鹿の頭、他方、強烈な憎悪のもう片方は猛り狂う馬の頭、全体はミノタウロスを思わせるの異形の怪物の様相を呈していた!! もはや、人間らしいなごりなどまったくどこにも無かった。
 鹿や馬の面をしてはいるが、顔のどこにも目玉も鼻も口も見当たらない。
 ラフレシアが生み出した、盲目の最悪がここに立ち上がったのである。 これが強力な思念によりあらゆるものをどんずまりの不幸に陥れる怪物、“ババシカオス”の登場であった!

 「東京はどうなってしまうんだ?」
 犬治郎は展望室からかぎりなく増殖を続けるラフレシアの森を眺めていた。
「ブヒ、旦那、あながちビルばかりよりも俺はイイように思えるぜ。 あのキンタンゴだって、アフリカっぽくて実にイイ味だしてるものなあ、俺は好きだよ、この東京。ブヒブヒ。」
「お前はケダモノじゃからのー。」
並んで見てる長老が言った。
「キンタンゴの速度はどうにかならないのですか?長老。」
「ああ、あんなものじゃ!」
「ゾンビの都民がみんな死んでしまう…、いや、正確には死んでる、死体が、ああ、ややっこしい!」
「わしの知るところでは、魂を戻せば、ゾンビならまだ戻せるかも知れんからな…。」
「本当か?長老。 三人の頭の大王から都民の魂を取り戻せばいいのか?」
「そのとおりじゃ。」
「ブヒブヒ、やつらは無垢空間に逃げ込んだんだとよ?ブヒン。 大人の隠れ家か?まだガキだな…。」 「土ブタ、その無垢空間って?知ってるのか?」
「…行ったことはねえがね。生まれる前の穴のようなとこさ。ブヒ」
「こやつ、穴には詳しいぞ、土ブタじゃ。」
長老は遠くにキンタンゴを見据えたまま言った。
 キンタンゴの行動をつぶさに眺めていた犬治郎は、不思議な行動に気づいた。 このオオアリクイに似た巨大な霊獣は、 昼間は勿論夜半まで、ふさふさの毛に丸まって長い眠りについてしまうのだ。
 ラフレシアを巡りその長い舌を花に差し入れて、あの発光体を舐めるのは、日没後の数時間だけなのである。 その他の時間をほとんど寝ている事に気がついた。
「長老、キンタンゴは原形化した夢を食って眠る…、くさいな!そこには何か大きな秘密が在るだろう?」
「そのとおりだ。」 長老の奥目が光った。
 「人は眠りをただの休みとしか知らない。 じゃが、キンタンゴは眠りの中にこそ本質を持つものじゃ。 ああやって眠りに落ちているときにこそ不可思議なものに変容しておる…。」
「ブヒ、俺にはキンタンゴのやつ食い過ぎて寝てるだけにしか見えねえ。 俺ももう少しチョコを早く知ってたら、人生余計な行動はしないね。 チョコを程よく食ったらぬくぬくととろけるように眠る!なんと甘いデカダンスなんだろうか!ブヒーン!」
 土ブタはすっかりチョコにやられていた。
「昔からこう言われておる。 サバンナで、キンタンゴの寝ている姿に出くわしたものは気が狂うとな…。 どうやらキンタンゴが眠ると、夢の異世界へ通じる穴があちらこちらに出現するのかも知れんのじゃ…。 どうにも、まともに帰って来たやつがおらんのが気に掛かるところじゃがの。」
「ブヒ、俺の言った、生まれる前の穴だ!」
 土ブタも身をのりだしてきた。
「なんだと?無垢空間ってのにも繋がっているのか?車で行けるか?」
犬治郎の目が輝いた。
「うわあ、社長、私は嫌ですよ!」
 犬治郎の運転手が大声を張り上げた。
「バカモン!人々の魂を戻す正義に怯むとは何事だ。」
「強制はイケマセンや旦那、ブヒ。 “自らの冒険心が無ければ夢は恐怖に変わる…”土ブタ座右の銘、ブヒン!」
「それもそうだ。」
 「穴に行かねばなるまい…。」
 長老は呪術棒を覗きキンタンゴを凝視していた。
 しばらくはそのまま覗いていたが、そのうちにいびきが聞こえてきた。
「ブヒ、長老、目玉に杖あてがって寝てる場合じゃねえぜ、ブヒ。」
「年寄りなんだ、しばらくそっとしておこうじゃないか。」
 犬治郎が上着を脱いで長老の肩に掛けてやった。 しばらくすると、呪術棒が独りですっくり立った…。
「おお、なんと、眠りが真実を教えてくれた! 穴は見えぬが反応は有る! なんと、なんと、今はここの真下じゃぞ?」 「瓢箪とかヘチマとか言っておれんな!すぐ出発だあ。」
 犬治郎は立ち上がり、すでにエレベーターを呼ぶボタンを押していた。
「ブヒン、穴と云っても普通じゃねえ、ゾーンが移動して来るんだ。 飲まれたら、かいもく判らねえときていやがる、久々に背中の毛が逆立つぜ、ブヒン!」 運転手とガードマン二人をそこに連絡本部として残して、犬治郎らはすぐさま展望台エレベーターを下った。 視界は徐々にラフレシアの森の中に埋もれていった。
「ブヒ、俺には見える!出てすぐの右方向にゾーンが開いてるぞ!気をつけろ!ブッヒーン」
 土ブタが出口を出るなり怒鳴った。
「よし、トンボ・クトゥじゃ。」
 長老が呪術棒を立てた。 一瞬にしてブルーレーザーの幾何形体バリヤーが犬治郎らの周りに出現した。
 犬治郎らの足は地面から僅かに浮かんでいだ
  土ブタには見えていた。 キンタンゴの眠りのゆらぎと関係が有るのか、穴と云うよりも影のような広範なゾーンが移動してゆくのだ。 それはまるで息を潜める猛獣のようにじっとして踊り掛かってきた。
「ほとんどの穴はどこに転げ落ちるか分からん。 わしらの行く先は無垢空間じゃ、よいな。」
 長老がハイエナの呪術棒をひときわ真直ぐ立てた。 その時、…!
「ブヒン、あぶねえ!来た、また右だ!」
「うわあ!?何だ?」 犬治郎が消えた。 犬治郎の目の前が突然ブラックアウトすると、真っ逆さまに急激な落下をしていた。 恐ろしい勢いで落下する中、土ブタの声が聞こえた。
「ブヒ、旦那!掴まれ。」
 しかし犬治郎はあまりの落下速度に目が開けられなかった。 再び土ブタの叫びが遠のいて聞こえた。
「横に手を出せ!旦那!掴まるんだー!ブヒン」
 犬治郎は己の手を動かそうとしたが物凄い重さだった。 目をやっと開けると横に光の筋が何本も見えた…。
 犬治郎はぼんやりとこれに土ブタは掴まれと言ってるのだなと分かったが、ほとんど手は動かなかった。
 落下速度は考えられる速さを超えていた…。 犬治郎は遠ざかる意識の中、もうダメかも知れないと思いながらも渾身の力を両手に掛けた。
  手に何かが触った? その瞬間に犬治郎はありったけの力でぐいと掴んだ。 落下は、うそのようにスピードを緩め、犬治郎のからだはピタリと止まった。 …妙な感じになっているのに犬治郎は気づいた。 からだの内と外が入れ替わっているのだ…? 空間が自分であり、身体が外部であるのだ? 外側から見る自分はまったく異様な感じがした。 初めて自分の録音した声を聞いた時の事が、瞬時によみがえった。 それが自分である事が信じられない、あの感覚だ! 見なれぬ自分だけが世界の異物の様であった。 すべてが、まるで騙し絵の中の様に感じた途端に、今度は逆方向の反動が来た。 物凄い速度で上昇の加速を続け、息もつげない速さに達すると、再びピタリと止まった。 天空に在った上弦の半月が真っ二つに割れた!? その途端に何処かで大爆発が起った。 犬治郎は、トンボ・クトゥの青いレザー光線の一角に投げ出された。 間髪そこに飛び付き片手でぶる下がった。
「くそっ!ここを開けろー。」
 片方の手でドンドンと光のバリヤーを叩いた。 “新しい虫”達は、すぐさま犬治郎をコーナーポイント内に取り込んだ。 頭はもしゃもしゃ、着ていた衣服はぼろぼろになっていた。
「まったくなんてざまだ…!」
 犬治郎は自分の喉元をさすりながら吐き出すように言った。
  一息ついて、土ブタは冗談をとばした。
「ブヒヒヒヒ!戻ってきた旦那のブサイクな必死の顔ときたら、あんたの運転手に見せたかったな。」
「土ブタ、俺はそんな顔しておらんぞ!」
 そう答えた犬治郎の顔は、煙突掃除の少年のように所々煤けていた。
「今し方イヌパパが襲われたのは“生まれる前の猛獣”だ、何が起るやらとんと判らんのじゃ。」
 長老は何事にもまったく動ぜずに言った。
「“生まれる前の猛獣”?まったく判らんな…。」
「ブヒ、まだいるぜ、他にも得体の知れないゾーンがうようよ狙っている。」
「キンタンゴは聖獣じゃ。 善悪の判断はそこに塵ほども無い。」
「ブブ、てことは、こっちがやられちまう事もあるってことだな、おもしれえブヒ。」
「すべて眠りの世界か…。 これは幻覚じゃないのか?」
「命を落とす場合もある。 キンタンゴとはそういう聖獣じゃ。」
 明るいブルーに発光したトンボ・クトゥは、滑るように静かにラフレシアの巨大な森を飛行し始めた。
「ブヒ、おもしれえようにゾーンがそこここに隠れているぜ?間違い探しを見ているようだ、ブヒ。 これじゃ、どれが無垢空間に通じるゾーンだか分からねえな。ブヒ」
 犬治郎らの眼下に広がるラフレシアの森の暗部には、粘菌のように鮮やかなものもあれば、 底なし沼のような色をたたえたゾーンが、静寂を装い潜んでいた。
「あれがすべて異界への頤なのか?信じられんな…。 俺は、一枚布かとずーっと思っていたよ。」
 突然、鮮やかな黄色のゾーンがジャンプでトンボ・クトゥをまるごと捕らえた。 トンボ・クトゥは、幾何学形体を維持して必死にこらえようとしたが、 ゾーンは、執拗にトンボ・クトゥをまるごと引きずり込み呑込んだ。 …嵐の上空に犬治郎らは突然現れた。 まさに今、その帆船は難破しかかっていた。 大きな渦が海上をうねっていた。 トンボ・クトゥのバリヤーに強固に守られているとはいえ、 映画を見ている感覚とは大違いだ。 実際にそこにある感覚が、犬治郎に目眩を生じさせた。 「うわあ?大波だ!このままでは沈むぞ!」 犬治郎は必死になって操舵輪を切っていた。 波を被ると同時に、あらゆる今までの記憶と映像が回顧された。 しかし、これは犬治郎の記憶では無い?…。 それは、港町の風景、幼い娘の顔、片足の海賊との決闘のシーン、離婚した女房に殴られるシーン、アフリカ沖をめぐり奇跡の凱旋の入港、仲間の反乱、…。 そこに見た船長の意識と、まったく同時混在している風であった。 船は再び真横になるほど大きく左舷に傾いた。
「ぎょえ!何だあれは?!」

  前方から、黒々と小山のような船体がこちらにまっしぐらにやって来る!
「ぶつかるぞ!」
「ブヒ、サービス過剰に楽しませてくれやがる!ブヒー。」
 犬治郎は目の前にせまった船が迂回出来ない程に近づいているのが分かった。 物凄い衝撃とともに、そのまま船は大破した…。 トンボ・クトゥは間一髪浮揚すると、大混乱の直中、嵐の中空に留まっていた。
 呪術棒がその一点に鋭く反応していたからだ。 犬治郎らは再びゾーンが開く機運を待った。 帆船はゆっくりとへし折れ、ばらばらに船体をまき散らしながら、渦に呑まれ跡形も無くなった。
「ブヒヒヒィ、旦那、なんてこった!あれは船じゃねえぞ!」
 犬治郎はやっとのことで気がついた、嵐の海を進んできたと思ったものは、船では無い! 異様な双頭の怪物であった!

 読者はもう気づいたかも知れぬ、ババシカオスである!! しかも恐ろしい程に巨大化している…。

 この怪物も、やはりこのラビリンスに落ち込んだのだろうか?
 それともゾーンは、何処かで秘密裏にすべてラフレシアにつながっているのであろうか?
 目玉も耳も鼻の穴も退化してなくなったその顔は、まったく不気味な無表情でトンボ・クトゥに近づいた。
 「うむむ!もう少しじゃ、まもなく開きそうな手ごたえじゃ。」
 長老の、棒を立てた手が戦慄いていた。
 怪物は、目玉の無い目で体を入れ振り向くと、トンボ・クトゥめがけて斧を振り下ろした。 嵐の暗雲が一瞬物凄く光ると、凄まじい稲妻が烈火のごとく落雷した。 “ズガーン!”

 犬治郎らは四方に吹っ飛ばされたが、瞬時にトンボ・クトゥは先に飛び散り、青い光がうなりを上げガードした。 その瞬間、落雷とともにゾーンが開いた。
「よし、今じゃ!」
 トンボ・クトゥは幾何学形体を素早く変形させゾーンに加速した。 狂った様な勢いで怪物が追ってきた。
「うっわ!やつが追ってくるぞ!なむさん。」
「ブヒン、追付かれる!」
「間に合ってくれ、トンボ・クトゥ。」
 三人そろって、頭を抱えた。 ブルーの光が鋭くうなった。 一瞬間だけ開いたゾーンの裂け目はほんの僅かの安定度しかない。 トンボ・クトゥは能力ぎりぎりの鋭角で光線になってそこを抜け切った!
 …その瞬間ゾーンは閉じて無くなった。 追ってきたババシカオスの片方の首が、物凄い勢いで犬治郎らの背後から転がって来た…。 轟音とともに、信じられない大きさの首が大地をラディングして、ラフレシアを根こそぎ削り、 六本木界隈の、ありとあらゆる物を手当りしだい薙倒して、青山墓地まで来てピタリと止まった。 その馬の形をした巨大な首は、恐ろしい念を発していた…。 もうもうと昇る煙りから首の全容が現れた時には、さすがの犬治郎も身震いするほどであった。
 そこここから水蒸気を吹出して、巨大な目玉のない目が虚空を睨みつけていた。
「いったいこれは何だ?」
「ブヒ、こんなでかい馬面は見た事ねえ…。ブヒン」
「…この怪物の元は人間じゃな。 相当な恨みが固まって化け物になったのじゃろう…。 近づかない方がよろしい、未だに恐ろしい念を発しておるぞ…。 そのうち本体の化け物が、きっとどのような事をしてもこの首を取り返しに来るに違いない…。」
「なんだって?これをか?」
「ブヒ、まったく人間の恨みほど怖いものは無いな。」
 それを聞くと犬治郎は土ブタが止めるのも聞かず、巨大な首にずかずかと正面から近づいた。
「おい!貴様は元は人間らしいな、まだ人間らしさの欠片が残っているのなら、俺の話を聞け。
 いったい何もかも、手当りしだいにぶち壊して何になるのだ!
 貴様が、どのような恨みからこのように変容してしまったのか俺には判らぬ、 しかし、力にまかせて恨みを返せば、それが又恨みを生む。 そんなことも判らぬようでは、図体はでかくとも、ただの能無しだ!」
 犬治郎の見上げている馬面のてっぺんから、ぼうぼうと湯気が噴き出した。
「貴様にまだ人間の片鱗があるなら思い出せ。 死なない人間などいない、貴様にも死が近づいているぞ…。
 幾分かの人間の心が残っているのなら、最後にやってみろ!
 貴様のいのちを恨みで終わってはいけない!
 怨念を超えて、人間の善を全力を出し切ってみろ!!
 死に臨み貴様自身を打ち破れ!」
 犬治郎は、仁王立ちに泣いて言い放った。 静かにその首は浮遊した。 しばらく地鳴りをさせてその場に震えるように居たが、物凄い豪音とともにその場から消えた
  ババシカオスと化した鹿男の、ほんのかすかに残った部分が反応したのだ…。
 己の恨みと欲望から怪物になってしまった鹿男に、僅かに米粒程の残された本来の鹿男が在った。 鹿男にとって、気の弱い自分、もっとも嫌な自分であったところだ。
 この、自分にとって許せない部分がババシカオスとなってまで僅かに残っていたのだ!
 常にびくびくとして、自分の人格から圧しやられた鹿男の中の弱気。 ババシカオスとなり怪物化してしまった鹿男に、人間的なものとしてそこだけが封印されたがごとくに残っていたのである。
 それはラフレシアも変えられなかった最深部の鹿男なのであった。  
 この臆病の“弱気”が、犬治郎の言葉に目醒めたのである…。
 死は目前であった。
 時間の中に、もはや己が投げかける一切の希望が無い事が、むしろ“今”を鮮明にした。
 “今”しかなければ、すがすがしい程に自分も単純だった。
 生来の弱気は豹変した。 善を為すということがこれほど本来の理に叶うものであったとは!
 “今”しかない善とは私本来だ!
 首は物凄い勢いで飛び去った。
  仙界の空は、隅々まで霊気をはらんで澄み渡っていた。 深山幽谷の、水墨画を思わせる景色に、綿々と細い道が途切れては連なりしていた。 コンガラは、師の白雲斎の居所にようようたどり着いた。 其処では、師の白雲斎は、露天風呂でぬくい湯から出られずにいた。
「おお、コンガラか!ちょうどいいとこに来おったワイ、ワシは湯加減もみず、ぬるい湯に飛び込んでしまった。 熱い湯をこちらに導いてくれ。」
「おやすいご用、白雲斎さま、相も変わらずでございますなあ、お久しぶりです。」
「ワッハハハハッ、ヘーィクショォォォイ!ああ、寒かった。」
 離れた脇に、小猿が行儀よく跪いていた。
「猿若、着物をこれへ持って来てくれぬか。」
 小猿は走り寄って欄干に掛かる着物を置くと、また元の位置に素早く戻った。
「ところで白雲斎さま、無垢空間とは何処にございましょうか?」
「ああ、あれはまだ解がわからぬ。 しかし、予想は着く。実でも虚でも無く、穴でも無い。」
「そこに人の胆魂を持ち逃げし、つまみ食うモノが逃げ込みました。」
「まあ、食い意地の張ったやつじゃな! おっぱいぷにゅぷにゅ、
 つまり、其処は掴み様のない赤ん坊の様な性格のところじゃ…。ヘーィクシ!」
「だんだん温くなってきた。イイ湯だぞ!コンガラ、お前さんも入らんか。」
「失礼して白雲斎さま、背中でも流させていただきます。」
「こうして、天然の湯に浸かると、大地もまた一如なのだと知れるな、コンガラ。」
「…ええ、湯加減さえ良ければ…。」
「ワッハハハハッ、確かじゃ!」
 白雲斎が大笑いをした。 すると、その声は向こうの山までも震わせた。
「遠い嶺に掛かる雪の白さが、この湯煙と同じもので出来ておるのは概知じゃが、 心が納得せん。
 おっぱいぷにゅぷにゅの無垢空間も、在るとも無いとも心が見い出す事が出来ないのだ。」
「白雲斎さま、すると、ぬくい湯の様なものですか?」
「鋭いな。」 「…熱い湯を導けば良い!?」
「そのとおりじゃ、コンガラ。 しかし解は出ておらん。」
 途端にコンガラは、温泉を塞き止めていた土手を蹴破った。 コンガラと白雲斎は、湯を蹴り上がり宙に転がり出た。  白雲斎は、呼気で細く吹集めた一面の湯煙を、白雲としてその上にコンガラとフワリと乗った。
「コンガラ、お前さんも、イイ悪漢になったものだ!ヒークショイ!」
「手荒いまねで恐縮です。途端に無垢空間が知れました。」
 膨大な湯気で辺り一帯は、霧が立ち込めた様となった。 無垢空間とは、空間認識以前のところとコンガラには知れたのだ。 つまり、認識が生じる前の場であるのだ。
 白雲斎の入る以前の、天然露天の湯が熱いとかぬるいとかの予見を持たないということだ。
 すでに生じた認識は人間の予測である。

 徐々に霧が晴れて来ると、コンガラらを乗せた雲は降下していった。
 無垢空間の入り口とは、宇宙空港のようなところで、あらゆる生命体が行き交う場でもあった。 生命体のそれぞれの認識空間に旅立つ前の姿は、多種多様を極めていた。
「ほれ、ぷにゅぷにゅしておろう。」
 白雲斎が雲から降りて言った。 自分の身体は実在するものから、在ると云えば在る、無いと云えば無い様な、ほぼ透明のぽよんとしたものになっていた。
 鋭いオレンジのパルスが居並ぶ生命体が、カーゴに乗ってコンガラの目の前をめざましい速度で通過した。
 黒いベールをひらひらさせて、数人の意識体が何やらお喋りしながらこちらを見やり、軽やかに通り過ぎた。
 また、搭乗口から、竹の森林状の意識が、走り出て緊急の救いを求め、
「わたしは殺される!」
 などと、他の生命体に訴えかけたりしているのが見えた。 どれをとっても、存在というイメージの期待を裏切る光景であった。
「ぷにゅぷにゅ?何と云ういいかげんなのだ?」
 コンガラは呆然とした。
「ここでは、存在が在るような無いような不可思議が、しごく当然なのじゃ。
 記憶についてもそうじゃ。ここでの出来事は、娑婆に戻っても憶えているような、
 いないような事となる。」

 白雲斎は、ぽよぽよの強烈な光だけになっていた。

  無垢空間では、非現実な速度で時空が流れていた。
 バー“パピヨン”の扉をコンガラが開けると、もうもうとした熱気にミラーボウルが回っていた。 賭けポーカーで賭けているものは不正な金や略奪品や密輸品で、 其処は、あらゆる不良生命体が溢れる根城であった。 入り口で、一癖も二癖も有りそうな生命体をコンガラが呼び止めた。
「こんな頭が三つ有るオヤジを探しているんだが、知らないか?」
「金は有るのか?」 「…。」 「俺にものを聞きたいのなら金出しな。」
 傍らで、タンバリンをたるく叩く店の女に、コンガラは振り返って聞いた。
「最近、気前よく羽振りのイイやつさ、頭が三つ有るオヤジを見かけただろう?」
「ああ、あいつかい?」
 店の奥まったところに、奇妙な帽子を乗せた三つ頭が見え隠れする…。
 近づくと、ヤツは仲間と酒を呑みながらポーカーをしていた…。
「ウオーッ!貴様、イカサマだ!」
 ポーカーの相手をしていた、大きなライオンの頭を持つ男が髪を逆立てて吠えかかった。
「イカサマとは人聞きの悪い。わしは王だぞ!」
「ふざけるな!そっちの頭がこっちを見てる間に、向こうの頭が、覗いてるじゃねえか!」
「それならわしに見えんようにしっかりガードしておけ!わしのせいではない。貴様はワンペア、わしはフルハウス、全部いただきじゃ、ガハハハ!」
 三本の腕には、酒のグラスと葉巻きとカードがそれぞれ握られて、残りの三本は、 中心にどんと太い太刀を杖代わりに立て、脇に短銃とナイフがもてあそばれていた。
「クソッ!」
 その時、背後のギャラリーから地獄の底から響くような声が掛かった。
「俺に代われ。」
 首に包帯を巻いた鹿の頭を持つ男が、ライオン男を除けてそこに座った。
「彷徨えるシカオス!…この男は、まだここで負けた事を見た事ねえ! おもしろくなって来やがった!」
 取り巻きの、海賊風の片目の男が言った。
「ようし!俺は、こいつが勝つ方に、五万宇宙ギネス賭ける。」
 片目の男が、金の小袋をテーブルに投げ出した。 すると、すぐに海草で全身が覆われた怪物がさえぎった。
「おいおい、ライオンを負かしたつわものだ!三つ頭のおっさんもやるぜ!この卑怯さはまともじゃねえぜ!俺は三つ頭に二万五千宇宙ギネスだ!」
「どいつもこいつもガキのお年玉じゃねえんだ!俺は百万宇宙ギネス!シカオスに乗せだ!」
 義足で半透明の幽霊船のキャプテンが、葉巻きで指図して子分に金を積み上げさせた。
「これは諸君!チャンスだ!我輩はお忍びの、さる高貴な身分なのだが、百万宇宙ギネスと聞いては心が踊る!
反対側に同じ額賭けよう!負ける気がせん。」
 全身歩くブランド品を身に着けた、クリスタルな骸骨男が言った。 パピヨンの奥は、さまざまな如何わしい輩で異様な熱を帯びてきた。
「さあ、どいつもこいつも張り終わったかい?もたもたしてると大損するよ!」
 やり手婆が長い掻き棒で指図した。
「ちょっと待った、俺もゲームに交ぜてくれ。 金なら無い!」
 中折れ帽を深々と被ったコンガラが、テーブルの男を退けてイスを分捕り座った。
「なんだと?」一斉に、声とともにさまざまな悪面がこちらに向いた。
「負けたら何で払うつもりなんだい?からだの支払いはごめんだよ。 でもイイ男前だね…、ケケケケッ。」やり手婆が、帽子の中を覗き込んだ。
「これならどうだ?」
 コンガラは、していた透明な石が並んだブレスレットを見せた。
「こいつはダイヤモンドだぜ!?」脇の海賊が手にとって驚いたように言った。
「ようし、お前さん!無垢空間パピヨンでの予想が利かねえポーカーを味わってみな!
 尻の毛までむしり取ってやるよ!」
 婆の怒鳴り声とともに、札が切られはじめた。
「さあ、賭けるなら今だよ!このダイヤモンド男に賭けるやつはいないかい…? ダイモンド男に賭けるやつはいないのかい?」 「わしが木の実を賭けるとしよう。」
 ポヨンと、透明な光から白雲斎が出現した。
「わっ?なんだ?どっから出た?爺!」
「木の実って?おい、爺さん!ここは幼稚園じゃねえんだ!」
 婆が怒鳴った。 「いいだろう。丁度、ウイスキーにナッツのつまみが欲しかったのよ。」
 三つ頭の一人が喉を鳴らして言った。 素早く、テーブルの三人にカードが配られはじめた。
 何しろ、この無垢空間に於いては予想ほど当てにならないものは無いのである。
 時空の中に在りながら、未来はまったくあやふやなのである。 これがこの世界の特質なのだ。
 ここでは予想されるものは外れるのだ! そのようなところでポーカーをやるのは至難の技となるだろう。
 片方の首ババを無くしたシカオスは、目玉も無ければ鼻の穴も無い、感覚器感が閉鎖されているのが強さの秘密らしい。 三つ頭の大王は、そのえげつない覗き込みと、卑怯さにかけては並ぶものが無い。
 コンガラはこんなやつらを相手に、いったい勝負に勝てる秘策はあるのか?
 さて、いよいよ勝負の始まりだ!
 今配られたカードは、各者一斉に手の内に繰り広げられた。 背後から固唾を呑んで見守る海千山千のものどもの、 それを見たギャラリーから、ため息とも驚きともつかない声がドオッと洩れた。
  と、斯くして、ここからの勝負がそのままわれわれの現実世界となるのである。
 犬治郎はゆったりとソファに座り、ホットチョレートを飲んだ。 対座する長老と土ブタは、この不思議な飲み物に感動していた。 物語はまるで、無風地帯に突入していた…。
 すべてが平穏で平和に満ちて何事も無かった。 犬治郎の目の前の真っ白な砂浜は、遠い水平線まで、まったく何事も無くきれいに遠のいていた。
 しばらく何も無い海を眺めていて、犬治郎は何か存在の予感の様な漠然としたものをあるところに感じ始めた。
 遠く2時の方角に芥子粒のように浮き沈みしている黒い点のような物体は、漂いながらはっきりせぬうちに、10時の方角まで時間をぬうように流れていた…。
 それがだいぶ近づいて椰子の実だということが犬治郎には知れた。
「始まるかな。」
 長老が、そのまま何も見ずに言った。
 椰子の実がぐんぐん近づくと、それはひとりでに起き上がりこちらにやって来た。 人間の頭ほどの大きさのある椰子の実は、あたかも身体の頭の位置で浮遊して、犬治郎の目の前に止まると、固い外皮から目を開いた。
「犬治郎、出発のときが来た。さあ、出かけるぞ!」
「何だ?俺は悪い夢でも見ているのか?貴様は、椰子の実じゃないか?」
「ふふ、椰子の実でも、目を開くこともある。もちろんものを喋ることもあることを忘れてはならん。」
 長老が薄目で煙草を燻らせた。
「ブヒン、俺が喋るのは認めて椰子の実の誘いをことわるのもまったく変だぜ?犬治郎。」
 土ブタは、ホットチョレートを堪能し終えてから満足そうに犬治郎の肩に手を置いた。
「おい、俺は、まともな人間だぞ。しかも社会的な地位も名誉もある。それに、昔ならもう隠居の歳なんだぞ。」
「へん、笑わせてもらっちゃこまるぜ!ブヒン、あんたのその熱血の善意は、この世のみんなが待っているんだ。世の中はあんたのようなやつが居ないと面白くないんだ、ブヒブヒ。」
「そう!そのために俺は来た!俺は、ココナッツの椰子男だ。みなさん!一時の休息は終わったぞ!」
「ところで、ついでに言うが、この世界の崩壊まであと五日だ。どうする?」
「おい、本当か?ココナッツの椰子男くん、ついでにはないだろう。」
 犬治郎は、飲んでいたホットチョレートを吹き出した。
「まあ、わしは充分思い当たるぞ、妥当なことでもあると思うのじゃ。わしは先ほど渡る風に聞いたが神々の賭けにすべてが乗ったようじゃ。存続も僅かだが残されてはおるがの。」長老が言った。
「ブヒブヒン、すでにその渦中なのか。」
「まったく唐突だぞ。いったい何が原因なのだ、何とかなる方法はないのか?」
「俺が賭けの質草だからだ。白雲斎どの、しいて言えばこの世の世話人がそうなさったとしか言えないことだ。」
 ココナッツの毛もじゃの中からクリンとマリンブルーの目が回転した。
「前代未聞の事だな。」
「まったく信じられんことだが、この椰子男が目を覚ましたのじゃ。」
 長老が大きく目を見開くと立ち上がって言った。
「椰子男の正体はよく分かってはおらん、太陽系の三男坊、地球のことかもしれん。わしらの呪術の世界ではともかく謎に満ちた精霊なのじゃが素直だ。 白雲斎どのが、賭けの草にしたとはな!」
 長老がもうもうと紫煙を燻らせた。
「何だ、お前は三男坊か?どうでもいい生き方をした方がいいぞ、あと五日だろうが無かろうがね。」
 犬治郎はどんと腰を据えて言った。
「はて、さて、わしらの出る幕なのか?」
「ブヒン、たった五日じゃ、めだかもすくえねえな。」
「うむ、わしらが五日間で出来る事があるのか?椰子男。」
 犬治郎が言った。
「あります。これからそこに一緒に行きましょう。」
  目もくらむような光の波が押し寄せたかとおもうと、 一同は波にさらわれたようにその光に乗った。 「なんかすげえぞ!ブヒ!」 「これは、ただ事ではない。光速で進んでおるか?」
「しかも加速のGを感じないのは何故だ?夢か?」
「土ブタ、きさまの顔がまともな男に見えてきたぞ?」
「犬治郎の旦那、あんたもだ、そんなに色白の男前だったのかい?」
「まあな。」 「長老?あんたはなんなのだ?」
「俺には、白いランにしか見えないのだが。」
「そのとうりじゃ。わしの霊体は見てのとおりじゃよ。」
 突然、椰子男が頭をスピンさせながら渦巻状に広がった。
「みなさん、今突入しているところは実宇宙です。わたしたちの本来の波動のみが感じられるはずです。 私が三男坊の地球といわれるのは、霊体の物質化が木の実と似ているからです。」
「なるほど、木の実はすべてが内包されておるな。」
「椰子男、難しい説明は抜きだ。どうこの取り返しのつかない崩壊を乗り切る?」
 犬治郎の姿はもとに戻った。 目の前には、信じられない白亜の巨大な建造物があった。
 天使の言葉が頭の中に響いた。
「意識バンドの崩壊が起こっているのです。 人間だけがこの世界に意識を持っているのではありません。 岩石や地層、水などの風景も、じつはトーンの違う意識があります。 これは、ペンタトニックスケールのオクターブの振動数で、通常でも3オクターブ ほどの幅を持っています。私たちのこの世界はあなた方のオクターブ上に属します。 これらのスケールが微妙に前後の振動数を入れ替えることによって、人間の意識とうなりを生じはじめています。」
「そうなるとどうなる?」 「すべての階層の共鳴する振動数が、うなりを生じる可能性があります。」
「よく分からないぞ、端的に何が起こるのだ?」
「階層化の世界が一元化して、因果関係がなりたたなくなるのではないか?」
「ブヒン、時間が解き放たれるということか!」
「人間の考えているように時間は実はありません。うなりが起これば因果の法はその場に崩壊します。」
「オクターブ違う自分と出会うというのは爽快だな。そりゃあ俺は、むしろ崩壊した方がおもしろいぞ。」
「ブヒ、信じられねえ!自分は自分で天下に俺様は一人かと思っていた!違うのか?」
「いや、いや、自分というものは、一人で出来上がってはいないのじゃよ。 オクターブ違う世界でもその音は同じだ、他の音との関係は似たものだが別物でもある。 これが真に分かればどんなことも恐れるにたらんことだがな。」
 長老が目を細め見上げていると、天空の天使が羽を大きく広げて、犬治郎たちの目の前に舞い降りてきた。 すくっと立つと、長く白い翼は器用に背中に折れ曲がり収納された。
「そのとおりです。死とは終わりではありません。
 あなたがたのこのオクターブ世界の自分は、今きっと、ひどくうなりをあげて共鳴してることでしょう。」
「本当かね?会ってみたいぞ、ここの俺に!」
 犬治郎は目を輝かせた。 するとそれまで黙っていた椰子男は、犬治郎に向き直り大いに笑った。
「ブヒ!だけど死を恐れることは人間の本能でしょう?俺たち動物はその意識を持たないがね。」
「そうなのか。動物は死を恐れているわけではないのか。」
「そうよ。旦那、動物は利口でさ!何も考えちゃいません。」
「人間だけが先のことで悩むのか!」 思ってもいない言葉が一人歩きをはじめた。
「変だ?勝手に喋りだしたぞ。何なのだ?」
「ブヒン、俺もだ! 」
 椰子男が目玉を大きく回した。
「あんたらの右の脳は時間を知らない。左の脳は自分をいつも心配して計算ずくだ。 まずは、統合した自分に焦点を合わせてくれないか。 何の心配もいらない。 どちらも、無色透明にしてくれ。 人間でも、動物でも同じだよ。 輝きだけを信じてくれ! そら、変わってきただろう? それが、オクターブの基調のあんたらだ。 地球というのは集合だ。」
  椰子男は突然歌い、半回転でラテンのステップをきめた。
「とにかく力を抜きましょう。ほら、次のことを考えなければこんなに生き生きだよセニョール。」
「…!そういうことか!わかった、椰子男。俺は踊る、わはは、踊るよ。」
 犬治郎は、三回続けて間抜けなターンをした。
「わはは、なんだかばかばかしいが、おもしろい。ブヒ。」
「へたくそな若いものに、任せておけんな!」 長老のへっぴりごしが腰を振り始めた。
「そう!うー、うっ!脳は使いません!」
 椰子男のへたくそ口笛で、みんなはゆるい踊りと言えない踊りを踊った。 これが、オクターブを感じるという事なのか? とにかく、みんなの柔らかくなった身体には何やら不思議と息吹が戻ってきた感があった。 ばかばかしい間抜けなスッテップは、立っていた天使をまったく呆れさせた。
「あなた方の好きになさればいいでしょう。私はあなた方にあまり関わりたくなくなりました。 この危機の時にそのようなことができるのも、人間だけでしょう。」
 天使は優雅に翼を拡げ天空に駆け上って行ってしまった。
「ふぁふぁふぁ、わしらは天使にまで見放された。」
 長老は抜けた歯で息を漏らして笑った。 犬治郎に閃くものが身体の中を走った。 絶体絶命の深刻さの原因を作り出していた自分をなんと内側から乗り越える者がある!これは誰なのか? 最後の日が五日だろうが一週間だろうがまったく時間の問題ではない。
「ぶざまなことぐらいでなんだ!みっともないぐらいでどうということもない。俺ほど始末におえない魂は惑うものだ。これが人間だ!」
 長老も深々とうなずいた。 椰子男は、とぼけた口笛で相づちをうった。
「だがね、まちがいなく俺たちは真面目だ、ブヒン。」
 土ブタが天に向かいニヤついた。
 ますますいいかげんとも言える展開は、地球最後の日も、宇宙の終焉もお呼びでない。
 しかし、この、真面目だという言葉ほど犬治郎の的を得ていた。 思い立ったら黙っておれない犬治郎は、犬萬ホールディングスの総力を挙げて地球の危機に挑みかかったのだ!
「ちくしょう!犬萬の誠意の元をただせば、死者から得られた何とも言えん報酬だ。 この期に及んで全力を出さんでどうする!地球一つも救えぬのか?犬萬ホールディングスは?」
 企業が金の糸目をつけぬ全力を出し切った時がどうなるかは、予測を凌いだ事となった。
「企業ができるのか分からんが、こんな時のんきに金を稼いでる状況ではない。 他人の不幸もまさに自分の事だ。 犬萬ホールディングスの全ネットワークで、接続する全部のコンピュータをシナジーの基本解析に使うのだ。」
「ブヒ!旦那、何だい、そのシナジーって?」
「俺にも分からん。だが、最も最初を見抜くということだろう。要するに専門家になど任せておけるかって事だ!自分で出かけて、自分で見るんだ。」
「シナジーとは幾何学だ。相乗効果の事だが、むふっ、シンプルな原理がすべてを決定しているという事じゃな。」
 長老が紫煙を燻らせてつぶやいた。
「世界が同時に無いという事だよ。貿易はここに生まれる。
 俺はこれに気づいて俺の商社を短期間に世界一のものに出来た。同時で均一なのは考えたやつの頭の中だけだ。」

 犬治郎は犬萬ホールディングスのネットワークを使って緊急の物資供出を始めた。
 世界一の大商社の世界中の物資はある一点に向かってとんでもない勢いで集結を始めた。
 すべて無償の大放出だ! 金銀ダイヤモンド、石油を始め、品物、エネルギー、食物、鉄道など、およそ考えられる取引されるものである!
 それらがある一点に集結すると、必然的に金融機能、麻薬、兵器、美術品、などの取引、も驚くべき速さで付随してきた。 各国の元首クラスはコントロール不能事態に、非常事態を宣言し、もてる軍事力の総動員をかけた。

 犬治郎はいよいよ勝負に出たのだ。

 犬治郎はおもってもみない行動に出た。 各国の首脳元首に途方も無い権利を売り出したのである。
 何の? それは、南極の空気の使用権である。 しかも膨大な価格で限定100セット売りに出したのである。
 しかし、あっという間にすべて完売してしまった。 一見ふざけているとしか思えないものだが、 先を争うように大国の首脳が買いあさって権利はあっという間に売り切れてしまった。 いったい何者が何の目的で買うのか? 軍事目的であるのか?国の予算の半分にもあたる数十兆も支出した国もある事であきらかだ。 なぜそのようなものが売れたのか? ここにいつまでも人類が愚昧の秘密が隠れていたのである。
 支離滅裂な展開はいよいよ極まった。 この世界は何処かが狂っているのだ。 犬萬ホールディングスの持つ清浄な空気を、奪い合うように高額で入手した各国の会社や金持ち達はすでに遅かったのかもしれなかった。
 細菌兵器が秘密裏に使用され、それに反応して、最後のとどめの相互の核兵器が人類をめちゃくちゃな状態にした。
 悲劇が突然主要な大陸にやってきた。暗雲が極地を除き地球を幾重にも取り巻いて気象は激変した。
 ほとんどは遅かった。
 ほんの一部の戦争当事者の首脳や軍部の将軍たちだけが汚染の届かない極点に逃げ延びていた。
 南極の極点付近の空気は今や汚染を免れた唯一の地球の空気となっていた。
 この世界では、犬萬ホールディングスの分析は非情にもズバリ事実となっていたのである。
 地球という星は、まったく取り返しのつかないほどの悪の気配に充ちてきていた。
 自分だけがそれでも生き残るという壮絶な戦いが極点ではついに始まった。
 犬萬ホールディングスの極地ショップのコンビニは自動開店し営業を始めた。
 いったいどうなってるのだろうか?
 すでにこの世界に懸念された核戦争が起こってしまっていた。 人類はほとんど99.999%の人間が一瞬にして死に絶えていた。 まさか、そんな愚かな事にはならないだろうという甘い予想は、容赦なく破壊されていた。
 ほとんどの地上生物の生存が瞬間にして地球上から消滅してしまった。 地球は、子を失った母のごとく気が狂ったように荒れ狂い始めた。 地表は暗雲に包まれ、気象はバランスを崩して、陸地は言い表せないほどに激情の坩堝と化した。
 もはや極地といえどもその激情は免れない。 二千四百時間後には、逃げ延びた戦争当事者らの姿もひとっこひとり見えなくなっていた。 地表に動物の姿をしたものは犬の子一匹見えなくなった。 そこには変わり果てた、まったくの異様に動く気象と物質という以外表現のしようのない世界が広がっていた。
 あの自動開店したコンビ二はいったいどうなったのだろう?
 一機の未確認飛行物体が信じられない速度で南極上空を飛行した。 そのUFOは極点付近の空に静止すると、緩やかな回転をしながら徐々に降下してきた。 地上二十メートルほどに静止するとコンビニの屋根に光線が当てられ、その屋根部分が丸く融解してUFOの中から人型のモノが4人店内に降りた。
「いらっしゃいませえ。」
 店内には普通のコンビニと変わることのない声が店内に響いた。
「驚いたな、ここは開店しておる。」
 長老はギョロリと当たりを見回して煙草に火を着けた。
「ブヒ、俺は人類はてっきり全部滅亡したと思っていたぜ、これは夢だろ?」
 普段人事には動じない土ブタも疑問符を吐いた。
「いーや、俺の経験じゃこんな時に開いているのがコンビニなんだよ。そこを常に口をすっぱくして俺は言ってきた。」  犬治郎はこともなげに言い放った。
「おもしろいな!」
 目玉を丸くして天井の穴の空を見上げていた椰子男がにっこりした。
「ブヒン、人類のバカでみんな死に絶えちまったんだが、この付近に生き物がなんぼか残ったようだ。 金の価値はまだ通用するのか?へへ、俺はこのヌードルを食いたいがいくらだ?」
 土ブタは店員に声をかけた。
「お金は使えません。ヌードルは差し上げますが水の値段は500酸素です。まいどありー。」
 どうやら喋り方から店員は人間ではない。
「犬萬開発のアヌビス型進化系の人工知能ロボットだ。こいつは霊界の案内も出来るしミイラも作れるぞ。」
 長老がロボットの心臓を読んだ。
「ほほう、知らなかった!社長でも知らんことばかりだな会社というのは。」
 犬治郎は頭を掻いた。
「なんだかカップヌードルが恐ろしく郷愁をそそるぜ。 ブヒン、たまげたもんだぜ!地球上でこのコンビニだけだぜ!
 こんななってもまだ営業状態をたもっているとはな! アチ!おれは猫舌なんだ。
 冷めてふやけたヌードルがここで食えるとはまったくありがたいよ。 旦那に感謝だ。 それにしても、地上の文明で残るのは唯一犬の旦那のこの一店舗だけか! 独占だぜ。ブヒ、まいったな。」
 「そう!まったく一軒だ!それもこんな状況でもだ!そんなこともありえる。」
 椰子男は土ブタの言葉に神妙にうなずいた。
「人類の残したものはコンビニ一軒だけということか!」
 長老があきれて嘆いた。
 カップヌードルをズルズルとたいらげながら土ブタは聞いた。
「おい、店員、あんたの故郷は何処なんだ、ズルズルブヒ。」
「わたくし地元です。」
「ブヒ、此処か?何にもないとこだな。淋しいだろうロボットでも。」
「とんでもございません、そう思っているのはお客さんだけですよ。
 ここはとても賑やかな所です。 お客様もたくさんみえますよ。」
「ズルズ、ロボットが嘘をつくもんじゃないブヒン、どこが賑やかなんだ?」
「嘘じゃございません、ほら、いらっしゃいましたよ。いらっしゃいませ!」
 店員の言うとおりぞくぞくと客が入ってきた。
 現れたのは身の丈三メートルほどもある獣類のような人間が数人入ってきた。
「あんたらいったい何処からくるんだ?」
 犬治郎が遠慮なしに声をかけた。
「何処から来る?此処に住んでるのさ。」
 モヒカン刈りで毛むくじゃらな男のゴーグルの中のガラスのような目玉がぐるりとこちらを見た。
「何じゃろ、外じゃ空気さえ駄目になっているじゃろう。」
 長老が聞き返した。 「だから此処にガムを買いにくるのさ。」
 別のラクダの様な顔の男が答えた。
「酸素ガムを十個たのむ。」
「はい、まいどありがとうございます。」
買うものを買い男たちはさっさと出て行った。  
第一部 完

ネダイエレナ ミリンナボン第二部は、 http://kogiri.cocolog-nifty.com/blog/ こちらで再開します。

引き続きご購読よろしくお願いします。 チャンシー


 

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