あるところに、躯つきのがっしりした力士のような男が、童を一人お供に旅をしていた。
行き慣れた道を男は急ぐ旅でもなかったが、ふとした事から道を外れてしまい、枯れた野原の踏み分け道に迷い込んでしまった。
「やれ、...どうやら道を誤ったようだ。日もまだ高い、あそこに見える木陰で休むとしよう。」
力士のような男が言った。
男は、枯れ野原に一本ポツンと在る木の木陰に腰を降ろした。ところどころ膝の高よりある枯れ草は、その側を抜け、ますますけもの路のように先へと続いた。
「さて、戻るか、このまま行くか、だいたいの見当はあるが、どうしたものか。...しかし、今日はどうしたことだ、俺としたものが10年このかた、よく通る道を間違えるとはな...。」
一服着けながら、ふと上を見あげた。
見ると、奇妙な形だが枝振りがみごとにある一方向に延びている。
「こんなりっぱな枝振りをした木は、初めて見るものだ。随分といつもの道を外れているな、やっぱり戻った方がよさそうだ。どれ、日もある事だ、ひと休みしたら戻るぞ、小憎。」
男は見上げたまま、少し離れた童に言った。
「...先生、...どこかから人の呻くような声が聞こえます...。」
童が、しんと静まり返って言った。
「何だと?」
男と童は、どこぞに人が倒れていないか、微かな呻き声を頼りに探した。
しかし、声はすれども、姿は見えない。
「犬のうなり声でしょうか?」
童が言った。
「いやいや、人だ、何処かに人が行き倒れているやも知れん。よく捜せ。」
男はあたりに油断のない態度で木の後ろの方に回った。
注意深く聞くと、その微かな呻き声はどうやら声は土の中から聞こえてくる。
「...先生、...声は、...この土の中から聞こえてきます...!?妖怪でしょうか?」
童は震えながら言った。
見ると、その当りの地面だけが枯れ草がなく、掘られて埋め戻されたばかりの柔らかさに見えた。声はソコから聞こえてきた。
恐ろしさに、童は口もごって言った。
「死人が生き返った..!?」
「うむ。しかし、たとえ妖怪の仕業とて、人の声なら今すぐに掘り起こせば助かるかも知れぬ。」
男は篦のような形の枝だを見つけると、すぐさまそこを掘り始めた。柔らかい土を、男と童は夢中で掘り進めた。
ちょうど童の腰のあたりまで掘ったあたりで、10才に満たない子供の頭部が現れた。
「おお、子供だ!しっかりしろ!今助けるぞ!」
男は怒鳴った。
目も鼻も口も泥が詰まって判別が着かないが、まだ微かに息をしている。男が穴の周囲の泥を除こうにも、隙間が狭すぎて泥がなかなか掻き出せない。引き上げるにも、どうにも身体ごとはまだ上がり切らない。最初僅かにあった息も、絶え絶えに聞こえてくる。
「水だ、瓢箪に水は無いか?」
男は童に尋ねた。
「...先ほど...飲んでしまいました。」
童が泣きそうな声で言った。
男は身を起して辺りを眺めてみたが、枯れ野原が広がるばかりだ。
「むむ、おい、小憎、小便だ。この顔に小便を引っ掛けろ。」
小便で鼻と口の泥の詰まりが取れると、男はすぐさま、自分の息を子供に吹き込んだ。子供は再び息を吹き返した。時々息を入れながら周囲の泥を手でかき出し、瞬く間に、男は子供を穴から引き上げた。
子供は、まる裸のまま、穴に立姿で埋まっていた。
泥だらけの身体をすばやく自分の着けていた柔らかい帯で拭き取ると、懐に入れ抱締めた。
しばらくすると今まで青ざめて震えもしないでいた唇が震え、色味を帯びてきた。
「しめたぞ!」
男が笑った。しばらくは男の懐へ入れたまんま、泥を童に拭わせると、からだを温かくなるまで擦った。身体の震えはおさまりみるみる頬に赤味が差し、子供は一命をとりとめた。
いったいこのような、生き埋められた子供を助けるということが、この男がその日、道に迷った事でなされたのだ。また、このような子供を生き埋めるという事を誰がしたのだろう。
思えば、男も子供とは赤の他人であろうが、この奇妙な宿縁に生きていると言わねばなるまい。
あるところに、頬には無精髭だが、どことなくきりりとした顔だちの男が独り歩いていた。
男は急ぐ用でもないが用達しに、丁度近道にと、大きくも無い小路を曲ったとこだった。
すると庇の低い格子の奥から、昼の日中、なにやら鼠が啼くような「プシ、プシ」というような声がするので、不審に思い中を窺った。見ると、ほの暗い中から、歳の頃二十五、六の女が、歯の隙間から息で合図を送るように呼んでいた。
「...何か、どうかいたしたか?」
男は格子越しに答えた。
「お話したいことがあります。
どうぞそこの戸を開けてお入り下さい。...お入りになりましたら、そこの鍵を掛けて下さい。」
言われるままに男は中に入ると、辺りを一度見渡し女に近寄った。
女の近くに寄ってみると、その抜けるような肌、目の覚めるようなうつくしさに男はギョッとした。
「お呼び止めしましたのは、他でもございません。ここではなんです、どうぞ、奥にいらして下さい。」
女は自然に奥に男を誘った。
奥の部屋はほんのり薄暗いが、こぎれいに掃除もゆきとどいてサッパリしていた。
男は言われるままにした。やがて食事時になると、何の指図もないのに何処からともなく、膳が用意された。不思議に思っていると、再び片付けの者達が何処からともなく現れては速やかに持ち去る。べつだん別棟もなし、大きな家屋敷とは思えないにもかかわらず、何の指図もないまま、その頃かと思われると寝具などが引き述べられ用意される様に、男はいったいどうなっているのか不思議でならない...、
しかし、あまりの居心地の良さに、そのままそこで気がつくと半月ばかりが過ぎていた。
「お話したいことがあります。どうぞ奥の部屋においでください。」
女は、今まで閉め切ったままにしてあった奥の部屋に男を呼んだ。
「これから見聞きすることは、誰にも喋らないと約束して下さい。」
そう言うと、床の間の山水の秋景が描かれた掛け軸の裏壁を押した。
すると、驚いたことに壁が開き地下につながる狭い階段が現れた。
女は、何も騒がず聞かず臆することなく降りてくる男に言った。
「そういう方だと存じておりました。」
降りると女は男の身ぐるみを剥ぎ、十字架に組まれた柱に縛りつけた。そのままイバラの鞭で50回ほど男の横腹と肩と腰を容赦せず打った。
「我慢できますか?」
「なんの、これぐらい。」 「...うれしゅうございます。」
女は涙しながら、男を元の部屋に担ぎ戻した。
その後、3日ばかり薬を傷口に塗り込み、ねんごろに男を介抱した。
男はやっと立ち上がれるようになった。
傷も治りかけたや先、再び女は、先日と同様、男を十字架に架け、前よりももっと厳しく容赦せず責め、言った。
「まだ、我慢できますか?」
「...なんの、これぐらい。」
「思った通りの方です、うれしゅうございます。」
男の顔は青ざめ、十字架に架かったまま瀕死の状態になった。
男は、いつのまにか、このままこの女に打ち殺されてもいいような気になった。
女は、自分の容赦のない仕打ちに、引き裂かれた死にそうな男を必死に介抱しながら泣いた。傷も癒えた頃、女は、男にある事を頼んだ。
「今日の夜半に、これこれのところに出かけて下さい。案内の者が辻角で口笛を鳴らすから、“私だ。”と、だけ告げて付いててゆくように。誰と聞かれてもけっして名乗ってはいけません。また、もし何かお礼や金品を渡されても決して何も受け取ってはいけません。」
そしてその夜。
早速、辻角まで行くと暗闇から低い口笛がした。男は「私だ。」と、答えた。
すると速やかに何者とも知れぬ2,3人の者が声もなく早足に先導した。辻を曲がると、また口笛がして、無言のまま、また4、5人増えていた。
こうして、大辻に出る頃には、7、8人ごとの単位に、100人近い者達が疾風ように音もなく一団となって移動していた。
一団は濠に出ると、そこには手引の者が居るらしく、2、3人居た見張り役を引き落とし、あっという間にそこに架かる橋を渡ると、門をくぐり抜け、城の北側の建物に入った。
それは幾つかの倉のようで、男は指図されるままに、夜陰に乗じ外濠下流に待たせていた船に、千両箱をつぎつぎに担ぎ乗せる者どもの見張りに立った。
作業は無言のままもくもくと進み、黄金を乗せた船は速やかに闇に消え去り、波だけが暗い川面に残った。
半時後、下流岸の人気のない一本柳の処で一団は落合った。
少し遠くに独り離れて、黒頭巾、黒装束の首領と思える小柄な者が、こちらの方をしばらく見てるのが分かった。
どことなく柔らかいスッとした見覚えの有る立ち姿に、男は不可思議な感じがした。
男はその者に名を訊ねられたが、女に言われた通りに「答える程の者ではありません。」と低く通る声で言った。
「いか程欲しい?」
と聞き返されたが、男は言われた通りに
「仕事を覚えられればそれで結構です。」
と答えると、小さくうなずきすぐにそこを立ち去った。
しばしその場で符丁のような会話が素早く取り交わされると、3人、5人と消え、気がつくと、ほとんどの者はいなくなっていた。船もかき消すようになかった。
男が家に帰ると、風呂が用意され、膳も支度されていた。
女の美しい立ち姿を見て、男は、フッと、先程見た黒装束の者の事を思い出した。
しかし、その事を、男は黙っていようと思った、女の前でおくびにも出すつもりはなかった。
女が言った、「今夜の事は、どなたにも喋ってはいけません。」
「む、どのような事なのか分からぬが、あれ程の事を...、まったくな手際の良さだった...。泥棒ならば、さぞや大変な大泥棒かも知れぬ...。以後誰にも喋らぬ。」
男は、多少その事を興奮気味に語ると、口をつぐんだ。
その後、男と女は、これと言って派手に遊ぶ分けでもなく、また何かに困るわけでもない、かえってひっそりとした暮らしで半年程たったが、女の素性は知れぬままであった。
なにより不気味のは、あれだけの御金蔵を破られたのに噂にも聞こえてこないことだった。
ところが、ある日から女の表情に翳りが見えはじめた。女は寝覚めると急に涙して男に言った。
「この半年余りの間、このような幸せを今生で経験させていただけるとは、夢にも思わなかったです。しかし、私には、それも終わりになるような気がしてまいりました。これも、きっと前世からの決り事なのだと思います。この後、どのようにしても、私を捜し当てる事は出来ないでしょう。また、どのような事が起ころうとも、今までの事は内密にお願いいたします。」
そう言い残したまま、その日を境に女の行方が知れなくなった。女が居なくなるのと合い前後して、何者かの密告から男は家に踏み込まれ盗賊の頭領の容疑で捕まった。
お白州も踏まぬまま、容赦のない、鞭打ち、石責め、水責め、気の遠くなるようなきつい責め立てが続いたが、ついに女の事は一言も喋る事がなかった。
男は、御金蔵破りについて金の行方や計画の一部始終の自白を迫られたが、事実、何も知らなかった。また、取り調べ側も男を殺してしまうと、他に手がかりもまったくないらしく、膠着状態になった。男は、生かさず殺さずのまま牢に繋がれ、半年が過ぎようとしていた。
身体の芯まで底冷えが忍び寄るご牢内、5、6日前に入ってきた彫り物をした男が、不思議な事を言った。燻したような小声で
「もうすぐ、お前さん方、ここを出られるぞ。世の中が変わるんだ...。見ていろよ、...もうすぐだ。これは他言無用だ。」
入れ墨の男は“ひょっとこの銀次”と言った。太股から尻にかけ、ひょっとこの彫り物が情けなく笑っていた。
「...本当ですかい?兄さん」
「...ただ、お前さんは無理だろうよ...。どうも、お前さんがやったとは俺も思えねえが、天下がひっくり返ろうってなこんな時に、お上も公に口にしたくねえ御用金破りの嫌疑だあな...。この世間の今の今に城の御金蔵が空と知れちゃ、天下の守りもくそもねえ...。お前が娑婆に出られるには何万両か知らねえが、その法外な金の在り処を駆け引きにでもしなきゃ無理だろう....。」
畳の上の牢名主が小声で言った。
「...いや、...いや!?...皆目見当の付かねえ...お上の旦那が、内密で...お前を泳がせるって事も有りかも知れねえな?!...。...ここで、一つ大博打を打つかも知れねえ...。...お前、どうだ、俺と組む気はねえか?」
銀次が、かすれた声で男の耳もとで言った。
「皆さんのお言葉ですが、...俺は、何にも知らねえんです。
どんなにお上の旦那に責められても、知らねえものは、知らねえ...。」
男が言った。
「鼻も、耳も削ぎ落とされ、足の甲は潰され、満足に歩くことが出来ねえ...。ひでえもんだ。やってねえと言うお前さんを、そこまで嬲るお上にゃ、悪業尽きねえこの俺も心底から怒りが湧いてくる。...どうだ、この“ヒョットコ”の言うように、生きてるうちにお上に一杯食わしてやる気はねえか?」
牢名主が言った。
「...どう言う事です?」
男は、潰されて無い方の目で牢名主を、ま直に見上げた。
「お上も、地獄の一丁目を見物させてやるのさ。まあ、...筋書きは俺に任せろ。ヒョットコも手を貸せ。」「世間に暴いちまうんだ...。お上のひた隠しに隠している御金蔵破りそのものをだ。
お上は、御金蔵にビタ一文ねえのがバレるのを最も恐れているんだ...。何故だか分かるか?莫大な御用金が何処かに消えちまった...。...この始末が世間に知れちまうと、ガタガタと世の中変わっちまうんだよ。お上がホントの一文無しのカラッケツと知れりゃあイザ鎌倉だと騒いでも、もう何も動きゃしねえ。あっさり、列強の諸国や御用商人に付け込まれるのさ。こうなると、へっぽこお上の脳味噌じゃあ、とても捩じ伏せられないだろうよ。...お上は一気に転覆だよ。どうだ、面白れえだろう...。ふふふ、イイ筋書きだあ〜な。芝居だよ...。歌舞伎でヤルのよ!
俺はこうしているが、実は、娑婆に居る時あ“黙阿弥”と言う、ちっとは知れた戯作者だ。もう筋は出来てるぜ!!」
牢名主が言った。
“その日”が来た。
ヒョットコの銀次が獄中に密かに流布した“世直しの日”だ...。
牢内には、異様な雰囲気がただよっていた。
誰も、銀次をそのまま信じる訳でも無いが、もしかするとという一縷の望みを持って待っていた日だった...。
御金蔵破りの容疑では、なんと無宿人から何から片っ端から背負っぴかれ、300人からの大勢の者が牢につながれていたのである。銀次の言葉の本来は、「黒鯰が現われ、途方も無い世直しが起こる。その日、獄中の者まで皆解き放たれ、混乱は止めようも無い。」であったようだ。
...どうやら、銀次は良く当たるので評判の柳島妙見様下の易者、象山堂から聞き及んだようであった...。世間では、このところの黒船の騒ぎでほとんどの者が“黒船の来航のおかげで恩赦が有る”と言う、ほとんどつじつまの合わない考えを鵜呑みにしていた。
それは夜、突然やってきた。
グォ〜〜ン!!
轟音とともに、激しくすべてが突き上がるような衝撃が最初に来た。
その後、牢の格子から、天井から、すべて歪むようになだれ崩れて、火種から出火した。この夜の大地震は、未曾有の混乱と被害を出した。
死者は見分けのつかぬ程に黒焦げになった者が多く、誰が誰やら判別がつかない状態であった。
死者、行方不明を含め、獄中からいなくなった者の数が、八割方を越えていた。
死んだ者をお上が判別したのは、一ト月半も経っての事だった。
黙阿弥も銀次もそこになかった。
男の行方も知れなかった。芝居小屋は、今日が初日の幕開けだった。...お上がどのように押さえ付けても皆知っていた...。噂が噂を呼び、この奇妙な事件を扱った歌舞伎の前評判を聞きつけた町衆や粋人で、小屋の前は、芝居を見ようにも入れない、前代未聞の人並みでいっぱいになった。
やがて満を持してチョーンと、木が入り、ついに黙阿弥仕掛けの芝居が始まった。
なんと黙阿弥の巧妙な筋立てで、表向きは派手に男と女の心中劇と見えるが、分かるものには、分かる、...まるで、背景と見える絵柄が、見方によってはまったく違うものになるダマシ絵の様な仕掛けがされてた...。
この芝居の表は、お上のあからさまな御金蔵を破られた失態を描いたものではないにしろ、それ以上の滑稽さが巧妙にそこに隠されたものとなっていた。
コレをスグ見破るものは、黙阿弥自身もまず居ないと思ったが、そこは芝居通をなめてはいけない...。2、3の粋人から密かに流布されると瞬く間に広まり、それがまたマジックの仕掛けを知った大衆のように桟敷席から木戸の客まで大いにうけた。
芝居のネタには、いかに細かい処までうるさいお上も、脚本のお調べからだけではまったく分からなかったのだ。これほどの大当たりした芝居は、前代未聞であった。
大変な人出が朝から晩まで芝居町に押し寄せた。
勿論、黙阿弥は世をすねた者、表には一切顔を出さなかった。その謎の戯作者が、また粋人の評判をとった。その上、役者も尋常ではなかった。黙阿弥をよほど理解し、幕中のただならぬ運命の容変の場を、布がじわりと木肌色に染まる渋さで客の前にさらした。日常の在り来たりのものが、突然に変転する瞬間を鮮やかに垣間見せたのだ。
通人達はかたずをのんで黙阿弥の芝居に見入ったのだった。
この芝居を末席から見つめる男が居た。
薄汚れたぐるぐる撒きの包帯の顔の中に、光る目が一つ覗いていた。
...しかし、一月後、ますます押し寄せる人波をよそに、突然芝居は中止された。
その場は静めることができても、もはや、大衆の底に蠢く力は止めようもない程に動き始めていた。たかが一つの芝居ではない。それはひとつの導火線だった。おとなしく運命を、運命として甘受していた者達、...非人や無宿者はもとより、町衆や、百姓、侍が、...はたまた大名までもが、突然に己に目覚める気がしたのだ。
もはや止めることのできない何モノかだ!
男も例外ではなかった。
思えば、あの町屋の角を曲がった時から運命の目覚めは始まっていたのだ。このような人生になろうとは、いったい誰が思っていただろうか...。
「俺にはヤルことがある...。」
男の包帯の中の片目が異様な程光った。
芝居町の雑踏を出て、人通りの尽きた坂の中処で男に聞き覚えのある声を掛ける者が在る...。
「...恨んでおりませんか?」
味噌田楽を売る屋台の脇には女が立っていた。
「おお、お前は...。」
「味噌おでんでも、どうぞお一つお召し上がり下さいな。」
「いったい、あれからどうしたと言うんだ?
ひょんな事からお前に出会い、気がつくと御金蔵破りに加わり、お縄になった。...俺は千両箱の在り処はトンと知らなかった...。ご牢内ではきつく責められ、片目、鼻、金玉も焼かれたが、命は在った。足の甲もつぶされたが、なんとかビッコひきながらもこうやって歩ける...。
だが、そんなことじゃないんだ!
こんな身体になっても、やっと目覚めた事は掛替えが無い....。
いったい何が目覚めたのだ、と言いたいのか...?
...お前への復讐?
そんなことじゃない...。
今まで、己の生きたい様に生きる事に何の疑いを持った事もなかったこの俺だが、何かが大きく変わったんだ....。俺には生まれ落ちてこのかた、この世でヤラなきゃならない事など無いと思っていたよ。ところが、...、ところがだ!俺にはヤラなきゃならないことがある...!」
「...うめえ。うめえおでんだぞ...、こりゃあ...。...しかし、お前さん、...もう、こんな俺に用はないだろう....?どうして現れたんだ...?」
「一言お詫びを申し上げたかったのです。
それまで、私は自分が十分に悪に通じてる者とうぬぼれ、固く思っておりました...。しかし、何故かあれ以来、寝ても覚めても、心の休まる時はございません。盗み遂せた大金にも、こころ踊りませんので何故かそのままにしてあります...。...私も、あの時から、まさかこの様なところで田楽売りになってるとは夢にも思いませんでした。悪事を重ねてきた、私の言葉は信じていただけないかも知れませんが...、あなたが、こんな姿になったのもみんな私のせい...。
...死んでお詫びをしても償いきれません。」
女が真直ぐこちらを向いて言った。
「俺の因縁と業の、暗くて、ろくでもねえ因果の一生が今尽きようって時、はっ、と気がついた。
まだ俺は生きてたんだ!...まだ生きてた...。最後の幕引き場になって明るい日が当たってきやがった...。...やらなきゃならない事...。それは、俺が、打算や魂胆の因果を越えて、一瞬でも“生きる”ことだ...。...神ほとけの巡り合わせか、お前は味噌田楽売りだ。...この田楽がことの他“うまい”...。魂に沁みるようにうまい...。...その他に何がいるって言うんだい。」
男は絞り出すように泪ぐんだ。
「この味噌は、乳熊の味噌です。わざわざ私は永代のふもとまで仕入れに行きます。
寒い晩に、ひとさまの「うまい」という眼差しが、どれほどのこの暗い魂の支えなのか、私もよく存じております。
今夜はあなたに思いもかけず遭う事が出来、私の味噌おでんを食べていただきました。
たとえこうして改心いたしても、悪事の因果は償わなければなりません。
私はもうこの世に思い残す事はございません。お上に申し出、お縄になります。
取りかえしの就かないことですが、せめてもあなたの濡れ衣を晴らしてまいります。」
あくる日の早朝、女は独り河原に立ち川向こうを見ていた...。
大金の隠し場所にしていた、一本柳の河原の先に船ごと沈めたはずの千両箱は、船ごとそっくり無かった。
一本柳の対岸にぽつんとある船宿の主人がそっと教えてくれた。
先の大地震で隆起した河原から船一艘が浮きあがり、そこから千両箱が出て大騒ぎになったが、すぐさま役人に口止めされ、関係した者は皆消えてしまったり、死んでしまったという...。
あらためて、支度を整えお上に名乗り出たが、女は奉行所の門前払いをくらった...。
お上は御金蔵破りの事実そのものを否定しているからだ。
また、あの大地震を期に大きく奉行職が入れ替わり、役人も手に負えない面倒な負担を恐れた。
斯くして、女は今日も坂の中処に、味噌田楽売りの屋台の精を出していた。
ご維新前のお話です。
...男はと言いますと、
不自由な足でも、ひょこたんと、永代までの道のりを雨が降ろうと雪が降ろうと毎日のように元気に味噌の仕入れに出ております....。
ある、夏の盛りの正午、応天門の下には十人からの人が
強い日ざしを避け、門のつくる濃い影の中に涼んでいた。
そこを行脚の男が通りかかり、ふと、足を止めた。何ごともないにもかかわらず、何とも不思議な気になった。男は、よくよく門を見上げても何ごともない...。
老婆、子供、行商人、小奴、老、若の侍、乞食、...誰も“相”が凍てつくように黒く、動きがない...。蝉の声が一瞬途絶えたような感じがする...、
と、男は突然に気付いた。よくよく見ると、門を外れて、土塀の脇に座る老婆にはそれは見えない。
「これはどうしたことだ!?この応天門の下におる者すべてに、死相が出ておるぞ!?
皆の衆、其処を今すぐに立ち退かんと大変じゃ。きっと何事かある。」
行脚の男は、応天門の正面で立ち止まり、門の日陰に入るひとびとに呼び掛けた。
若侍はぎょっとして辺りを見たが、誰もニタニタして応じる者はいない。
この焼けるような真昼の暑さに、わざわざ日なたに出たくないのだ。
「これは御坊、せっかくのご忠告だが、そうは問屋が卸さぬ。この涼しい場所を独り占めしようと言う魂胆はみえすいておる、...フフフ。」
老侍が扇子で額を扇ぎ言った。
行脚の男は、誰もそこを動こうとしないのをみて、門の正面から一礼合掌し、応天門を後に過ぎ去ろうとした矢先、何の前ぶれもなく応天門は突如として自滅するように崩れ落ちた。その朦々とした煙がしばらく収まるまでは、何事が在ったのか分からなかったが、ようように全容が見えてくるころには、辺はまるで白昼夢のような不思議な静けさが漂った。そこに応天門の姿は無く、押し潰れた瓦礫が小山のように在った。
今し方の者達の姿は崩落に深く呑込まれ、何の跡形もなかった。
「...もしや、厳象様ではございませぬか?」
一部始終を仰天して見守っていた老婆が言った。
「いかにも、わしは厳象だ。わしをご存知か?」
「ああ、やはり厳象様であったか。何の前ぶれもなく応天門はもう此処にはない。
人の生き死にもまったく一寸先は分からない。...潰れた門の下に母がおりまする。
あの寝ていたしわくしゃの老婆は、わたしの母です、足腰が立たずあそこの場所に寝かせておりました。...もう助かりますまい...。...しかし、せめて末期の一言でも...。」
その老婆は両の手で、瓦礫の脇を掘り起こしながら言った。
「これは、お気の毒な事じゃ。兎に角掘り起こさねばなるまい。」
通りがかる者を加勢に加えながら、必死に瓦を退けて掘り進んでも埋もれた人になかなか突き当たることが出来ない。かまわずに瓦礫をどけてゆくと、不思議な事に瓦礫の中からコウ、コウと微かにイビキのような声が聞こえてきた?
ようように掘り進むと、門を守護する仁王像が倒れて覆い被さったほんの小さなスキマに、しわくしゃの老婆がスヤスヤと何ごとも無く寝ていたのだ?!
「おお、!これは、なんと!?」
...眠る老婆の胸に乗ったしわくちゃの手には粗末な木仏が握られてあった。
その老婆はまもなくパチッと目を開き言った。
「ほんの今まで、わしは仏さんと一緒に眠って居った。蓮のウテナの上でな...。まったく愉快な事じゃったわ。空には妙なる楽の音が響いて、ほんにええ気持ちじゃった...。」
そのしわくしゃ老婆の脇に走り寄った娘に当たる老婆は、握られた仏に手を合わせて頭を深々下げた。
近くに寄らなければ、仏と分からない程の黒光りした木っ端だった。ほとんど、目鼻も有るという程度にしか分からぬが、親しみの中に威厳の光を放っているように感じられる。
これを見て、厳象も思わず合掌した。
「..その仏様をわしに預けて下さりはせぬか。」
或男が、これを見て申し出たのだ。今、十数人で必死になって瓦礫を掘り起こしている男衆の長であった。「こうして、災難に遭った人々は今し方、ほとんど全て掘り出したものの、皆、一様にひどく恐ろしい顔をして、死んでいる...。
突然に引き起った災難のこと、死者の霊は皆、無念の思いでいるに違いない...。
しかし、このお婆さんの母親だけは、仏様に守られて無傷で助かられた。何とかこの仏様におすがりし、ここにおられる厳象様に成仏の道を開いていただいたらどうであろうか。」
その男が言った。
「うむ、確かに...侍も、商人も皆、己が死んだ事に気づかずにおる...。苦しみ、助けを待ち、そのままに在るのがありありと見える。...このままではこの場の、悪霊、呪縛と化すやも知れん。この霊験あらたかな仏のことだ、おすがりすれば、必ずや、亡くなった人たちに引導を渡されるだろう。」
老婆の母が男に手渡すや、仏像は、煌々と目も眩むような輝きを放ちはじめた。
十方の空間が明るさを増し、皆、目を明けている事が出来ない程であった。
事の始終を見ていた者たちには、そのまばゆい空間を、応天門の下敷きになって死んだ者の霊どもが、滑るように昇っていくのが見えた。
その後、この、老婆の黒い粗末な仏様は、今でも応天門の在った見越の松近くの祠に祀られた。
一時、その霊験で引きも切らぬ人々が詰掛け、祠はかなりの賑わいをみせた。
だが、後に母娘の老婆がばたばたと後を追うように亡くなると、どうした訳か、その活気も影をひそめるように無くなり、いつの間にか、ひっそりと誰にも忘れさられてしまった。
後に、深夜に厳象は其処を通りかかった。厳象は驚きに足を止めた。
あの突如として無くなった応天門が、其処に以前と変わらぬように在るではないか!?
それも、見上げる全体は、何故かゆらゆらと浮遊しているように見える。
厳象は、足早に其処を立ち去った。
「恐ろしい事だ。」
厳象がつぶやいた。
「あれは応天門の幽霊じゃ...。門として、己が自滅して、其処にもう無い事を知らんのじゃろう...。」
しばらく沈黙して、厳象は怒鳴った。
「なんと!!...これはいかん!門は、...すでに、幽界の門と化しておるかもしれんぞ!?
さすがの、あの老婆の木仏の霊験も、すっかり消え失せたのじゃ。あの幽霊の門から、得体の知れんモノが通り出てるかも知れん。」
厳象は、ふたたびその足を、あの門の在った場所に返した。
門は在った...。
黒い固まりが幻のように漂い、其処に在るかと思うと無い...。地面に近い部分はゆらゆらと揺れてる。門を通して見る向こう側は、何か気味の悪いほどに真っ暗であった。
厳象は、応天門の亡霊に向かって呼び掛けた。
「応天門よ、お主はもうこの世には存在しておらん。...分かるか!?わしの言う事を、よく聞け。
お主は、先に、わしの目の前で突如倒壊しておるのだ。分からんか!?もはや、お主の実体は無い。」
厳象の言葉は、闇に吸い込まれるように消えていった。
「お主の気づかぬ内に、応天門の扉は、幽界をこの世に開いておるぞ!それを、とくと分かられよ!お主の迷いから、ありがたい仏の霊験も失せておるのじゃ!」
すると、しばらくして暗い門の内から、一人の翁が現れた。
白髪を小さく髷に結い、頬からとがった顎にかけ長い白鬚をたらし、こざっぱりした裃を着けた小柄な爺が、厳象に向かってうやうやしく一礼した。
「いましがたの事は、本当ですか?」
「わしはこの方、この応天門の造営を任され、白鷺翁と申す者です。
...そのお言葉は本当ですか?突然の倒壊とは...、まこと、信じられません。
この門が、何ごともないまま倒壊するはずはありません。」
翁は門の中央に立ち、こちらを向いてはいるが、何処を見るという事のない目で言った。
「足下を、しかとごらんなされ。もはや、この応天門は、この世のモノではござりますまい。白鷺翁殿、まことに、忍びない事とは存ずるが、もはや此処には何も無いのです。門は、ある夏の強烈な日差しの中、日が天中昇り切った時、何事の兆しもなく、突如として崩壊したのです。きっと、これは、遥かな因果に根ざした事であろう...。
門を守護する白鷺翁には納得の行かぬ事ではあろうが、そのために、幽界の出入り口となりおおせたこの門を、放っておく事はできませぬ。どうか、門共々に成仏なされい。」
厳象は、白鷺翁を見据えて言った。
しばらくの間、沈黙が流れて、白鷺翁が言った。
「泡沫の時に、栄華の極みにある事のみを思い描いて、いつの間に時が過ぎさり、己が亡霊と化している事も気づかぬとは。すでに、其処に己が無いとも知らずに、何を守護いたしておったのか...。大いに恥ずかしい姿をお見せいたしました。」
「たしかに、このような事のこころあたりが、今となってござりまする。
今、この白鷺翁の舞う舞いに、真実をご覧になられよ。」
そこまで言うと、両の手を脇から膨らませ、くるりと体を返し、いぶしたような声色と小柄な後ろ姿が、暗闇に飛ぶ白鷺のように美しい姿に見え、白鷺翁の物語りと一緒になった。
やがて、白鷺の舞う姿に重なるように、黒漆を塗り込めたかの暗い門の内に、螺鈿に象眼されたように、異様な光りを帯びた桜が幽かに見えた。
と、思うや、突如として現実の風に揺らぐ桜となって、厳象の目の前に、まったく突然に枝を揺らし実在した。何処からともなく、心にしみいる声で朗々と物語られるのが聞こえる。
漆黒の闇に舞う白鷺。その、舞いと物語りはこのような事を伝えていた。
今は昔、応天門の場所に、思い出しても分からない程の前から、大きな桜が在った。
少なくも樹齢先年は超えるであろうと思える程に、いつとも知れぬぐらい古くから人々に慈しまれてきた、名のある桜であった。皆に惜しまれ、切ってはならぬという人々の意見が相次いだが、
都の完成は応天門を残すのみとなり、ついには惜し気も無く切り倒して、門の内に桜の精を、形ばかりお祀り致したのです。
しかし、切り倒された後、その材は痛々しくも長らく門の脇に放置され、いつの間にか朽ちたゴミの山となってしまいました。それというのも、完成をまたずに応天門には妖気が漂い、無惨にも桜を切ってしまった祟りだと、都の人は恐れおののきました。
白鷺翁は、精進潔斎して形ばかりの祠をお祀りすると、美しい女が湧き出るように現れて、こう言った。
「命には限り或事、古来からこの地に在りながら、其処が都の門となり、切らてしまうも、某かの因縁。...しかし、地霊を祀るものがもはや無くなったからには、鬼、悪霊の自由を許す事となり、このように荒れ果てたのです。白鷺翁殿、...どうにも、見苦しき有り様、せめて、切り倒された材を片付けて、土に埋めて下され。」
白鷺翁は、門の中央で舞いをぴたりと止めると、うやうやしく一礼した。
「このような因果にある門でござる。大いなる奉養をして、悪霊、鬼どもは、一時にも鎮める事が出来、切り倒された材も集め、土に埋め、祀り、門の完成を見る事が出来た次第です。しかし、この、不本意に切ってしまった桜を思うと、この白鷺翁、因果とは云え、取り返せぬ事をした思いに、苦渋が未だに溢れるのでござる。その、悲願の末の門が、もはや、この世に無いとは...。...なんと云う巡り合わせであろうか。」
満開の桜が、門の闇の向こうに揺れていた。
突然、あたりを揺るがす程の恐ろしい地鳴りとともに、何者かが、黒く揺らぐ門の上からバラバラと飛び下りてきた!?身の丈は人間の倍は有ろうという恐ろしい姿をし、どす黒い土気色と、赤銅色をした二匹の鬼であった。モッコリと土の中からも真っ黒な鬼が現れ出た。
厳象は、白鷺翁に怒鳴った。
「地霊の封印が解かれましたな...。かくなる上は、すみやかに成仏なされよ。鬼どもは、その慚愧の念を寄りしろにおるのです。」
土気色の鬼が、物凄い鼻息で、厳象に向かって来た。
「何だ、貴様、僧か!?けっ!俺は坊主だけは、まずくてよう喰わん。お主に任せる。」
「何?!俺も、坊主は喰いたくねえ。ラッキーだな。」
赤銅色の鬼が、そっぽを向いた。
真っ黒な鬼が、蛮刀を片手に低く構え、厳象に、にじり寄って来て吠える様に言った。
「...かといって、助かった訳では無いぞ。俺様が貴様を、八つ裂きにしてやる。...どんな経を唱えても無駄だ。しかし...、まずそうな坊主だ。」
「ふざけるのも、たいがいにしろ!此処は貴様達の出て来る処じゃ無い!草々に退散せい!たとえ、八つ裂きにされようとも、此処は一歩も退くまいぞ!」
厳象が言った。鬼は、厳象に、恐ろしい勢いで切り掛かってきた。
そのとき、闇を貫くようなビーン、ビーンという弓を鳴らす音とともに、武者姿の男が、厳象の後ろの暗闇から現れた。何を思ったか、門の中の白鷺翁めがけて、強弓から弓を放った。
闇に一筋の航跡をえがいて、弓は白鷺翁の心の臓を貫いた。
「...よきかな。」
一言発して、白鷺翁はゆっくり後ろに崩れ落ちた。
不思議にも、厳象に切り掛かった黒鬼は、間髪あわや、と言うところで消え去った。
「私は、五位鷺丸と申す者です。白鷺翁は私の叔父にございます。
実は、昨夜の夢に春日権現が立ち現れ、“白鷺翁の亡霊が浮かばれずにおるので、明日の夜中に、応天門の在った場所に行き、現れた白鷺翁を、一矢で心の臓を射よ。”とのご神命がありました。こうして来てみると、すでに、間髪を入れぬ有り様、すぐさま射た次第であります。」
武者が、大声で言った。
「五位鷺丸どのとやら、春日権現様の御霊力か、確かに鬼どもはすんでのとこで消え去り、私もこうして無事であった。しかし、...門はまだこうして浮遊しておる。白鷺翁どのは、今のおぬしの一つ矢にて、間違い無く迷いを抜けられたが、いったいこの門はどうしたことだ!?...在るとも無いとも言えん。すでに、有る無しの念の域に無いのか...?これはいったい何なのか、...わしにも分からん。」
厳象が放心したように言った。そのとき、五位鷺丸の現れた方向とは真反対、正面の浮遊する門の向こうの方角から、沈黙の闇を開くように、打ち鐘の音とともに男がこちらにやってきた。
三者は、そこで偶然出会うかのような形となった。
頭はつるつる、上半身は裸、異様な程背筋がピンと立った男だ。
その男が、ガンガンと鐘を打鳴らし、みるみる門の在った場の前にやって来ると、遠慮も無しに厳象に言った。
「其処に、在るとも無しとも言えず、浮いている門は、貴様の半端な修行の賜物だ。貴様が造り出したバケモノだ!この邪魔を、すぐに惜しみも無く打ち壊すがいいぞ!...此の輝く漆黒は元々何も無い、また、何事をもゆるさん!!」
男が怒鳴った。
「あんたは誰だ?」
厳象が問い返した。男は笑みを浮かべ振り向いた。
「俺の名は普化だ。」
「この浮遊する門は、わしが造り出しておると言われるのか...!?」
厳象が言った。
「貴様の心が、門の倒壊を許さないからだ。それが全てだ。」
普化が言った。
「お言葉ながら、この五位鷺丸には、眼前に浮遊する門がはっきり見えまする。
叔父の妄念は成仏致したようですが、桜と白鷺翁への強い憐れみからか門の因果を全うさせたい、という気持ちが、厳象どのの心に強く在るように思われてなりません。」
五位鷺丸が、弓を手挟んで、厳象に言った。
普化は打鐘の手を止め、厳象に向き直ると、見開いた目玉で爛々と問いかけてきた。
「門は無い!其処に門は無いぞ!在るのは貴様のアラヤシキが造り出した門だ!貴様の無意識の我が、因果の不条理に“怒り”、其処に門を存在させている。貴様、そんな生でよいのか!?」
「されど、普化どの、わしは因果の不条理に、“怒り”などは持っておりませぬ...。
ただ、門の倒壊に至る因果のままに、そこはかとない哀れと、侘びしさ、やり場のない憤りの心を有した...。...只々、そこに、壊れ行くものの美しさを観た...。」
門を仰いで、厳象が己の言葉を呑込むように言った。
「五位鷺丸!あの門の中心を射よ!」
普化が、低く響く声で命じた。
五位鷺丸は気持ちを整え、一本の鏑矢を上空に放った。その矢は大きな弧を描いて闇に吸い込まれた。すると、厳象は、「ぶおーっ。」と、大きく息を吹き、その場に座り込んでしまった。
「分かるか...。貴様の法力に涌いた、バケモノの正体が...。」
普化は、そう言い放つや、やれ鐘をガンガン打鳴らし、みるみる見えなくなった。
門は消え、冴えざえと中天に半月が昇って来た。一人の法師が、よろよろと月明かりをやって来た。法師は、犬の遠吠えに何気なく空を見上げた。ぎょっとして立ち止まり、そのまま逃げ出した。其処には紛れも無く、門が浮遊していた。
より肥大化し、くろぐろとした其れは、まるで戦艦のような堅固さを備え、空間に浮かんでいる...。
その楼閣に人の姿があった。
「この闇の深さは、唯事ではない...。」
その人物は独り言を口にした。
五位鷺丸であった。五位鷺丸の話し
私は言われるままに、この門の中心を射て、門は消えた...。それですべてが終わったのだと思ったのです..。私はその場を去ろうとしました。
しかし、どうした事か、周囲は見た事も無い景色になっており、厳象どのは其処に、眠るように倒れておりました。...振り返り見ると、焚かれた篝火に大きな桜が、それは、息をのむ程の艶やかさで映え、咲き誇っております。その樹の廻りには、人々が歌舞などを楽しみ、春の宵は、今を盛りの様子でございます。
その楽しさ、美しさは、そのまま私の心に伝わってまいりました。あまりの美しさとともに、胸が痛くなるような切なさが込み上げ、怪しまずにはおれません。
私は用心を怠らずに何時でも弓を射る心構えでおりました。すると、何と、娘達の輪踊りの中に...、私の愛しかった初恋のおなごを見たのです!?その娘は、悲しい事に、何者かに殺され、幾年も経った今でも、犯人が分からずじまいのままです。
...私は、その事を誰にも話さず、固く胸にしまってありました。
突然、今、それを見かけて、胸の奥がキナ臭くなる思いとともに、涙が滲んでまいりました。私は名を呼び、夢中で走り寄りました。
「小夜!!」
その瞬間、「五位鷺丸!?」小夜が叫びました。
私は手を握りしめて、呆然と抱き締めました。
小夜の止め処ない涙に、私の袂はぐっしょりと濡れ、その重みは、そこはかとなく増し、深く哀れを感じずにはおれませんでした。
あまりの事の怪しさに、私は、咲き乱れる桜の樹を見上げると、そこに、私の放った鏑矢が深く刺さっておりました。ふと我に帰り、私はそっと弓を引き寄せ、小夜から引き放れました。
すると、厳象どのが目を開き、伏したままに言ったのです。
「このような事が在る訳が無い...。何か怪かしの仕業...、と、思われるか?五位鷺丸どの。さもあろう...。しかし、これは紛れも無い本当の事だ。お主の閉じられた心の世界が開いたのじゃ。
最も隠された闇の中に、花が咲く...、もう一つの世界じゃ。」
その時、何者かが、私の背後からやおら、足首を掴みかかりました。一歩の動きもままなりません。私は、渾身の力を込めて弓を絞り、今一度、桜の樹の上、闇の天空に放ちました。
目も覚めるような閃光とともに、何かが降下してくると、そこに降り積りはじめました。
...それは雪でした。
みるみるうちに雪は、すべてを覆い、あっという間に辺り一面、白銀の世界となりました。
我に帰り見回すと、もはや厳象どのも、小夜も無く、誰もいない静寂だけの雪景色となっていました。そのとき何か、恐ろしい程の淋しさが私を捕らえました。同時に私は、小夜の浮かばれぬ心を偲び、その思いで、いたたまれなくなりました。あらゆる起った事も、私の心の他は、誰も知るものが無いという思いが広がったのです。すべてを覆い尽くす雪を見て、私は起った出来事が本当に在ったのかどうかも怪しく思えてきました...。
しかしよく見ると、桜も雪に覆われましたが、桜だけは、雪の中に何か薄ら色が在るように見えるのです...。私は何もかも怪しくぼんやりしてきた記憶の中で、最後に残る矢をもって、その薄らした色の中心を射ました。
私の腕は、手ごたえに震えました。すべての花に降り積もっていた雪どもが崩れ落ちて、咲き誇る桜が白一色の中に凛と現れました。
それは、まるで、私に小夜が見せてくれた、もののように思えました。
その、雪の中に咲く桜の美しさは、この世のものとは思えぬほどの美しさであったからです。
私の心から、すべての悔しさ、口惜しさが、すーっと消えていくのが分かりました。私は、亡くなった小夜の成仏を一心に願いました。
今まで私を押さえ込んでいた力が、急に緩み、身体がらくになりました。
私は、自分の頬を打ちました。...いったい、...これは真実の出来事なのか?
私は勇気を奮い起こして、手挟んだ弓を、力を込めてビューンビューンと鳴らしました。
突然に、はっと我に帰ると、雪も桜も無く、私一人、門の在った処に倒れておるのです。こうこうと冲天に在る月が、明るく輝いておりました。ふと、身を起こすと、そこはあの木っ端で出来た仏の粗末な祠の前でありました。
これは、果たして、...厳象どのの怪かしの世界なのか...?
PIRE おわり
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