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No.1
第一章
ザイロフォン・ジョロボの演奏を聴いた者は、ほとんどの者が例外なしに見る光景がある。
想像を逞しくしての事ではない。そこに投げ込まれると言うのが正確かもしれない。
彼は、ガーナでもとりわけ貧しい人々が暮らす町、マンボビあたりでよく木琴を弾いていた。
ときおりスピーカーから流れるコーランに混ざり、何ともいえない、アフリカ特有のリアルな生活感をかもし出す風物でもあった。
此処にあるのは、高尚な音楽でも、宗教でも、経済でも、科学でも無かった。
生きて、死んでいく。その他は余分だ!
誰も判っていた。
町の人々の目を見開いた明るさは、そこから来ていた。
ジェームス爺さんは、数年前から百五歳であった、いやいや自称である。
「そう、このあいだの戦争に、ワシは参戦して銃を撃ったのじゃよ。」
というのである、まあ百五はどうだか分からぬが、スローモーな動きから、八十五歳ぐらいは間違いない年齢だろう。
ジェームス爺さんは、通りに出された縁台に座り、正午の涼しい木陰で木彫りの彫像のように動かない。
眠っているのか、起きているのか、さえも定かでない。
通りの向かいの木陰では、あのザイロフォン・ジョロボが、一心不乱に木琴を演奏していた。 |
No.2
その光景を先ほどから眺めているものが或る…。
ジョロボの演奏ときたら、見てくれの音楽じゃないのだ。何かを動かしている。
はるかに観念の世界、イメージの世界を凌駕している、だが、正確には分析というものが通用しない。これはまったく表現を超えたものだ。
一つ言えることは、行動が自分一人の判断から自由になったような気にさえなる。
これはいったい何なのか?
このようなものが、平気で流れ、誰も気にさえかけないのだ。
そのまま、まったくの貧困の中にある!死は目の前だが、生も目の前だ!
物乞いやら、葬式、頭に山のような果物を籠に載せて悠々と歩く女、路地に小便をする子供、チンチンと鉦を打ち、何某かを売り歩く若い痩せた男、
木琴の音など日常茶飯事という風に、それぞれの生活を忙しく生きる。
「何という中世!」
名人というものにも限度がある、ジョロボのようになると、もはや名人ではない。
そこに木陰を作る大樹と変わりない。生きる一服の清涼剤なのだ。
驚きの光景をカメラに収めたイワオは、木陰の縁台に座り、しばし、茫然と木琴を聴いた。
洞門巌は、初めてアフリカの地に立った。 |
No.3
「僕は、気なんか狂ってなんかいなかったよ…。」
イワオは、テスラ博士の死から、突然数年間、東京のM精神病院に入院させられていたのである。
それは、訳の判らないまま、まったく強制的に行われた。
M精神病院隔離患者病棟、そこは、鉄格子の向こう、恐ろしいほどの無気力な場の力が支配していた。薄ら笑いで天をにらむ男、目の奥に殺意をみなぎらせる女、意識の混濁したまま歌う老人、みずからの糞をこねまわす動物のような男、死んだようにうずくまるのは、鉈で一家皆殺しの無理心中を計ったという中小企業の元経営者だった男。
魂を失った者が、この世から隔離されていた…。
そのまま、もう、外の世界に出られることは、イワオには金輪際無いと思われた。
「僕はおかしくなんかない!」
看護人に、どのように訴えても無駄であった。
泣き叫んでも、懇願しても、ますます他の患者と区別のつかない状況になっていった。
腹を立てて騒げば、数人がかりで取り押さえられ、拘束服でぐるぐる巻きのまま、眠らされた…。
涙と鼻汁と、みずからの汚物で、どろどろになって目覚めた…。強烈なむなしさが襲う。目を開けたまま、天井だけがクールに存在した。死んでしまおうか…。
しかし、その時、…それを通り越して、遠くの遠くに、風が行き渡る大樹がイワオには幽かに見えた…。
一年半を過ぎると、すべての希望と、可能性が、イワオから遠ざかり、早い死を願う以外に、この地獄を抜け出す方法が見つからなくなった。イワオは絶望した。着ている浴衣を引き裂き、布をつなげて撚り、格子から首を吊ったのだが、看護人に発見され失敗に終わった。
イワオはガリガリに痩せて、顔は青白く、いよいよ顔に死相のようなものが浮き上がってきた。
納得の行かぬ死は、不条理さだけを生の感覚として残し、すべての感情と、物の色を奪いとろうとしていた。
そんな時、ある朝早く、天井から降りてきた一筋の銀の蜘蛛を見たときに、イワオは腹の底から込み上げてくる感情が爆発した。イワオの髪が、叫びとともに一瞬にして銀色に変わった。
それからの記憶が抜け落ちている…。
新しい院長の赴任とともに、イワオは半年ほど前に解放されたのだ。
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No.4
イワオは、自分の経験を振り返り、自分が今、ここに生存しているのが奇跡に思えた。
あの病棟で、自分の寿命は尽きたと思えた。
しかし、今も自分は生きている、いや、生かされている…。
「自分にはやることがある」という、あの二十歳の誓いの出発は、M精神病院の隔離病棟をも生きのびた。しかし、今、大いなる幻想とともに、…ここに終焉を向かえたのだ。
イワオには、自分がなすことをはるかに超えて、生というものがあると思えてきたのである。
イワオは正直思った。今、このアフリカの貧民街に立ち、自分のなせることなど何事も無かったのだ。
イワオを、ここガーナに誘ったのは、「チョコレート」であった。
M精神病院の隔離病棟で、ある約束をした。…「チョコレート」の国に行くことを。
隔離病棟での事だ。
イワオは何か予感に溢れた日、そら恐ろしい恐怖を感じて暴れたのだ。看護人に取り押さえられ強い電気ショックを受けた。
その時、黒い老人が現われ、優しい目で言った。
「イワオ、ここを出たらチョコレートの国へ来い。そこがお前の約束の地だぞ。忘れるな!わしの名はオセイ・ガーナだ。」
なんの気負いもない謙虚な気持ちに、ザイロフォン・ジョロボの木琴が、水のごとくイワオに流れ込んできた。 |
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No.5
「ジャパン?」
ジョロボの演奏に聴き入るイワオに、男が声を掛けてきた。
男は破けたYシャツで、妙に人懐っこい笑顔だった。
日本では、がらりと人間不信になっていたイワオは、自分でも不思議に気軽に返事を返した。
「イエス!君がこの国に来て初めて、僕に声を掛けてきてくれた人だ。」
「そうか、ジャパニーズ、いくらか恵んでくれないか。」
そういって出した手は、両手とも手首から無かった!
イワオは、男に十ドル札をやった。
男は、目の色を変えると、道の向こうの方に居た数人の仲間に大声で合図した。
あっという間に、我も我もとやって来たのは、すべて、片足だったり、目くらだったり、イザリだったりの青年や、子供や、少女だった。それらが争ってイワオの前に手を出した。
「俺の他にも、父ちゃんが、脚が無いんだ。父ちゃんの分もくれ!」
「僕の妹は、寝たきりだ!妹の分も!」
「俺のいとこと、かみさんと、おじきの分もだ!」
イワオの前を、ドル紙幣が、飢えた魚に蒔いた餌のように飛び交い無くなった。
そんな事で、貧民街の通に、大きな人だかりが出来、ちょっとした騒ぎになった。その混乱状態に分けて入った男がいた。
「やい、皆止めないか!」
蜘蛛の子を散らすように、物乞いの集団はいなくなった。
イワオは胸がどきどきした。
「ひどい目に合わせて、すまないなジャパニーズ。だが、そんな大金恵むあんたも罪だ。」
イワオは、その一言で、事情も判らずに金を出した自分をえらく恥じた。
自分の懐は、あろうことかすってんてんになっていた。 |
No.6
割って入った男は、無一文になってしまったイワオの心配までしてくれて、その男の家にしばらく逗留することとなった。
長屋住まいの侘しい家だが、無一文になったイワオにとっては、涙の出るほどうれしい親切が身に沁みた。只で住まわせてもらうのは、気が退けたので火おこしやら、掃除、仕事の手伝いをした。その間も、毎日夜になるとザイロフォン・ジョロボの演奏を聞きに来た。
昼は大きな木の木陰だったが、夜になると、狭い路地が錯綜する通り端で弾くのだ。
何某かを売る露店の闇をほんのりと照らす電球の陰影が、ますます謎めいて、得もいわれぬ気持ちになった。
その演奏は、イワオの知る「音楽」というものでは無かった…。
毎夜のこと、聴き入る自分と重なるもの…、イワオは何故か「耳なし芳一」の話を思い出した。
どこかでむしょうに繰り返される光景がある…。
意味は解らずともその語りになると、興味深々となり、どっと涙が溢れることもあった。
イワオは、何度か通ううち、その語りが、ストロング・ウォーリアの物語であることを知った!
意味内容はここの老人も判らないそうだが、勇者の死の物語であるらしい。
このダルペンという木琴の楽曲と語りは、その死を弔うためにあるらしかった。 |
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No.7
イワオは、会う人に、オセイ・ガーナの名を尋ねた。
しかし、確たる心当たりも無いまま、ここで二十日あまりが過ぎていた。
このままでは、世話になっている男にも申し訳がなかった。
ニマの橋の傍でぼんやりたたずんでいると、木琴が聞こえてきた。
近づいてみると若い男が弾いていた。その音色はザイロフォン・ジョロボとは違うが、そうとうな熟練を要する曲を弾いているようであった。
その演奏は、どこか息詰まるほどの緊迫感が有り、その男の運命を左右する事態が迫っている気がした。
「何か、ぞっとするほどの演奏ですね。」
一休み入れたところをイワオは声を掛けた。
「毎日、マンボビでジョロボも聴いているんです。あなたの演奏もなんだか凄いですね。こう言っては失礼かもしれませんが、鬼気迫る感じがあります。それにそうとうに難しい曲のようですね、…。」
木琴の男は、額の玉の汗を拭いながら答えた。
「判りますか?そうなんです。伝統曲を僕がアレンジをしているのですが、うまくゆきません。長老の占いによれば、これを失敗すると僕の命は無いそうです。」
「それは、また飛んでもない事態ですね。何か手伝う事でもあればいいのですが…。」
「私事の話で恐縮ですが、ブラックスタアという曲の対になる曲を必要とされているのです。このブラックスタアという曲も、大変な難曲ですが、要求されてるのは、似て非なるものです。」
そのとき、大粒の雨がボツ、ボツ、と来ると、物凄い勢いで雨が降ってきた。
二人は、橋を渡り大樹まで駆けた。 |
No.8
木琴を弾いていた男は、自己紹介をした。
「俺の名は、ココだ。」
イワオは、オセイ・ガーナの名を彼にも聞いた。
「ああ、知っているよ。オセイ・ガーナ!この難曲を望むメデスンマン(霊媒師)だ。
普段はみんなただ、メデスンマンって呼んでるよ。」
このアレンジはオセイ・ガーナからの依頼なんだ!」
「…!僕を、会わせてくれないか!オセイ・ガーナに。」
雨は上がっていた。
ドシャ降りの上がった川は濁流が押し寄せ、ゴミというゴミを押し流して、橋すれすれを溢れんばかり、狂ったようになった。すべての汚わいとゴミが、猛烈な水流でごちゃまぜに暴れて流れ去ってる。
そこを二人は渡ると、メデスンマンの居る家を目差した。
つるつると滑りながら貧民街の細い路地から路地をすり抜けて、十五分ほど歩くとぽっかりと空いた広場に出た。
家の脇に大きな木が一本在り、その下に老人が深々と腰を下ろして、煙草を吸っていた。
「やあ!ココ、曲は出来たか?」
この男が、オセイ・ガーナだった。
「おや、お前さんは、イワオか?よく来たな。遠かったろう?」
メデスンマンは立ち上がり、イワオを抱きしめた。 |
No.9
初めて会うのに、オセイ・ガーナにほとんど何の違和感も感じることが無かった。
「ははは、とうとう来たか。よく分かったな、此処が。ココも一緒か、…まだ曲が完成しておらんのだな。
君があの病院を出れたのは奇跡だ。あれは、わしの力じゃないぞ、君がほんとうに回復の兆しを見せたからだろう。
それにしても、会いたかったよ、イワオ!アクワーバ!(いらしゃいの意)」
再びオセイ・ガーナは、イワオを大きく抱きしめた。
「メデスンマン、ジャパニーズのイワオとどこでどう出会ったの?。」ココが、木琴を肩から下ろすと笑って言った。
「ぐわはは、それは内緒だ。」
メデスンマンは煙草を燻らせ、言った。
「ボープラ様が動いた時から、このアフリカは、絶望的で暗黒の呪縛の眠りから目覚め始めたよ。その力がイワオを此処に呼んだ…。ココ、君の賢さなら解るだろう?」
「アフリカの解放は、肉体の自由とともに、霊魂の自由も指すのだ。この世界での、むちゃくちゃな大国の非道の支配を終わらせねばならぬ。この搾取と非道と汚わいのアフリカを見ろ!このままでいいわけが無い!人類発祥の土地だ。」
メデスンマンは紫煙で輪を作り、吹き消した。
「もっとも無力に見えるものこそ、真に変革の力を授かっている…、
これは、真理だ。しかも、難易度が高い!分かるか?…でな、ココ、君の木琴こそが、私は待っている! 」
メデスンマンはもう一つ大きな輪を作ると、それはそこに停止した。
「暗黒界から、ボーリを召喚するために。
ボーリとは、いうなれば、このアフリカの搾取者から暗黒に葬られた、魔なる力とされたるものの総称だ。
ブラックスタアもその一つだった。」
その輪は裏返り、まぶしい光を発した。 |
No.10
「コーヒーでもどうだ。」
メデスンマンはなみなみ入ったカップを、そーっとよこした。
カップの側面にはレリーフ状になった木琴の絵柄があった。
イワオは、長い旅から帰還した人のようにゆっくりゆっくりとすべて一気に飲み干した。
イワオは、あることを思い出した。
それはM精神病院に入院中に出会った、Mさんの事だった。
Mさんの絵は奇妙だった。記憶にあるコーヒーというコーヒーを描くのだ。
正確に言えば、コーヒーカップと飲む人の横顔が、順番に、幾千という数、細密に描かれている。
その中の一つを指差して、
「これは、君だ。」
と言った。
マグカップからコーヒーを飲む人が描かれていた。
そのカップは、レリーフの木琴であったが、顔は黒人だった。
「黒人だ?」そう言うと、Mさんは真近で僕の顔をまじまじと見て言った。
「間違いない。」
さらに奇妙だったのは、Mさんは僕を見ながら額に十字をなぞる様に丁寧に書き加えた。
横から見ていた患者のSさんが、
「でたらめだ。」
と大声を出した。
気にも留めないでいた事が、奔流のように思い起こされた。
確かなことには、まったくこのカップはそのカップだった。 |
No.11
イワオは、疑念を持った。
「自分にはやることがある」と思うことが、雲を沸かせM精神病院隔離病棟まで来させた。
テスラ博士の亡き後、雲は急激に冷え、イワオの考えは百八十度変わった。
恐怖と支離滅裂が、暗雲のように押し寄せたのを思い出した。
入院直前には、「することなど何も無い」という開放された気持ちに進化したことも。自分が生かされている事を感じ取れるまでになっていたことも。
しかし、隔離病棟はそのようなものを一切認めるものではない。
今はといえば、土砂降りがすべての雲を払い、深山幽谷の気を湛えた心境であった。
生還した探検家のような瞳孔の色だけがその深さを知っていた。
この期に及んでこの符合は何なのか?
それが疑念であった。
木琴のレリーフのカップを空にしたメデスンマンは、何事も無く紫煙を燻らせ、空を見ていた。
ふた筋の輝く飛行体が、遥か高空を横切って行くのが見えた。 |
No.12
「本当のはじまりかも知れんな。」
メデスンマンが言った。
ココは、何かが執りついたような目つきをした。ビーターを取ると木琴の前に脱魂したように座り、弾き始めた。
ココのアレンジ、そのあらましはこうだ…。
まず、ブラックスタアの対となる骨格は変わらずに別れ、2拍と3拍の原型を保ちながら、リズムは、無相となり、あらゆるものに変化し始めた。
あるときは歩行の2拍を意識しながら、3,6,9、の数が動きに加わった。
全体が喋りの概念を維持しながら、リズムは骨格にしばられず軽やかに滑降した。
その中でも、フレーズの頭を抜くような遊びが何度もジグザグにみずからを遊んだ。
あらゆるものがそのフォルムを流水のように変えると、意味までもがするりと変わった、
たった一つで。
色彩に溢れつつ色彩が消えた。まったく無相と呼ぶに相応しかった…。
何か意味の深い読経のような喋りが言葉を開放されたかに思えた。
…このように言い出したらきりの無い事でもあるが…。
メデスンマンは、だまって聞いていたが、やがて顔色を変えた。
「ココ、そのまま続けてくれ!」
何か急いで家に取りに戻ると、慌てて戻ってきた。 |
No.13
帽子に靴にジンだった。大急ぎに靴を履き、帽子を被って正装すると、
メデスンマンは、木琴のレリーフのあるカップに手早くジンを注いだ。
何やら真剣に呪文を唱え、ココの弾く木琴と、地面に、ジンを少量振り撒いた。
イワオは半分は信じていないが、半分は何か起こる予感に興奮した。
何事も変わらないようで、気持ちは、やっぱり変わらないという事に安堵していた。
ところが、ところがだ!自分の身体に、みるみるうちに力が満ちてくるのが感じられた?
指の先から肌が真っ黒に変化して、黒人のがっしりした体躯となった。
牙のような真っ白な歯が口からはみ出すように生えた。
「ザジズゼゾ!」
メデスンマンがイワオを振り返り、声を上げた。
「ザジズゼゾが帰ってきた!亡き勇者が、今、戻ったぞ!」
メデスンマンは大声で叫んだ。
イワオは言葉の無い世界に居た。意識は通常の千倍をもハッキリしていた。
魂そのものが意識なのかも知れなかった。行動がそのまま己でもあった。
いや、…原始の精霊そのものが個の肉体を持ち顕現した、と言えば分かりやすい。
イワオは、といえば、すこぶる爽快であった。 |
No.14
ここにザジズゼゾが四百二十年ぶりに再来した!
すべての人々が嘆き悲しんだストロングウォーリア・ザジズゼゾの殉死から、
はるかに人も時間も代わったが、その再来は語り継がれていたのだ。
これは、インディゴなどと呼ばれる新種の人類の事ではない。
人間を生み出した魂そのものが、人間の不可知の知恵により、吹き上がる溶岩のように露出した、と、見るのが正しい。
イワオは憑依されたわけではない。ザジズゼゾとはイワオ自身でもある。
意識というものは、個人の顕在意識だけを指すものではないのである。
無意識の領域は、未曾有といえる。
イワオのどこかに在った無力感はまったく消えた。
数千倍に研ぎ澄まされ、活用された意識というものは、何事が起こりうるかも見当のつかない能力を持つ。
ココのほとんど体当たりの前代未聞のアレンジが生み出した反ブラックスタアの本質は、メデスンマンの当意を得た儀礼で、今やザジズゼゾを現前させたのである!
いったいザジズゼゾとは何か?
それは、不可知の魂とも言えるかもしれない。
精悍な黒い獣のような存在に変わったイワオだが、
イワオの人格が変わった訳ではない。
存在のそのまた深くに存在したものが、突然に現われ出たにすぎないのだ。
ただ、その意識統合と速さは、獣の一体感に似ていた。
ザジズゼゾは、空気をビビらすほどの咆哮を空中に吐いて、何者かを威嚇した?
イワオには、“ボイド”が見えていた。 |
No.15
ボイドとは正体不明の空のことだ。
これにつけ入られると、むなしい気持ちになり、己の失敗にも鈍くなる。
ボイドがこれほど蔓延しているからには、ザジズゼゾは戦いを決意せざるを得ない。
その発生は不明だが、集中と意識の糸から心が解放されると、すぐさま人間の心はボイドに捕獲されてしまう。ザジズゼゾには、ボイドそのものは空間に大きなクラゲが浮遊しているように見える。
メデスンマンの家の中庭に、突然男が入ってきた。
後には、薄汚い数十人の取り巻きやら野次馬を引き連れていた。
その不思議な気配から只者で無いのが分かる。男は、上半身裸で渋い緑縞に赤の伝統服をゆったり履き、頭は剃っていた。
「わはは、来た、来た。待っていた待っていたぞ、ザジズゼゾ!」
男は遠慮も無く大声で叫んだ。
ずかずかと、ココの木琴の前に来ると、脇に挟んだ汚い袋から弓矢のようなものを取り出した。
ココは一瞬ギョッとしたが、それを機にますます曲に没入していった。
男はニヤリとして弓の弦の一部を口に含むみ、短い棒で、たたき合わせながら呪文の歌を唄い始めた。
「アイオオー、オゥオゥオゥー♪
ニィニャガンゼオン
ニィニャガンゼオン
アイオオー、オゥオゥオゥー、♪アオ!」
言葉とも歌ともつかぬ声と弦の響きが一つになり、そこにいた一同には何かの形が見えるような錯覚があった。
「貴様も、メデスンマンだな?」
男に向かって、オセイ・ガーナが言った。 |
No.16
「俺の名は、ダリ。この際そんなことはどうでもよい!凄い凄い!ザジズゼゾを見ろ、一吼えで、このクラゲの化け物をすでに数百匹も打ち落としたぞ、早くもだ!」
ダリは、仰け反るように高空を見上げた。
「ダリ?ふーむ、聞かん名だが、ほほう、貴様にも見えるか。」
オセイ・ガーナが、ダリのつるつるの頭を後ろで目前にして言った。
「俺様でも、どのようにしても払うことの出来なかった化け物がな!それにこの木琴は感度がず抜けておる。クラゲの内臓まで見えるようだ。これなら見込みがある。」
ダリはしばらく天空を凝視し続けた。
一緒にくっ付いて来た取り巻きまで、手をかざしながら、うなずき見上げているのが滑稽であった。
「…うむ、俺にもそこまでは今まで見えなかったぞ!あのような高空までクラゲの化け物がうじゃうじゃと流れているのは…。本体の母船のようなものの口から、凄い数のクラゲが出入りしているのが知れた!これほどの数とは仰天だ!」
ダリは、振り返りざまザジズゼゾの目の前に立つと、袋から何物か取り出して渡した。
銀紙のようなものが日光で反射して強く光った |
No.17
イワオは不思議だった。
ザジズゼゾに変身した実感はほとんど無かった。
自分自身の変革はどこか遠いところに感じられるが、何事も変わっていないというのが正直なところだった。しかし、一吼え後に異様な空腹感を覚えたのは何なのか?
その空腹感が、自分の中の安定感を磐石に増したような気がした。
ぐぅー、と腹が大きく鳴った。
ダリから手渡されたものを開くと、チョコレートであった。
「ザジズゼゾ、それをカジれ!貴様の能力は奇跡のものだが、使うエネルギーも半端じゃねえはずだ!しかもしかもだ、腹が減っているときの方が途方も無い力が出るはず。
…しかしだ、
食わないわけにはゆかんのよ。
俺が調合したメデスンフーズのチョコだ!甘さはひかえめだ!」
ぐぐぅー。
再び、こちらからも腹の鳴る音がした。
「ダリ、貴様メデスンフーズに精通しているようだな! ところで、俺にもくれんか、そのチョコ!」
オセイ・ガーナは、振り返ったダリの目と鼻の先に突っ立っていた。 |
No.18
ザジズゼゾがチョコを食べた途端一吼えすると、化け物クラゲはあれだけの数がまったく消えた!
「わあ、なんてこった!」
目を細めて眺めていたオセイ・ガーナも、その威力に舌を巻いた。
「すごいにも程がある…。」
ダリがつぶやいた。
「一体どれだけの力を発揮するのやら、見当がつかんな。腹が減れば減るほど強力になるということか?」
頭を並べて二人は空を仰ぎ見た。
「ただ、ザジズゼゾとはいえイワオでもある。腹が減りすぎると死ぬこともあるし、凶暴になって理性を失いかねん。」
ダリが言った。
「なあダリ、これ、うまいぞ。貴様才能がある。」
オセイ・ガーナはチョコを真剣な顔でじっと見つめた。
「がはは、照れるぞ。」
木琴をたたいていたココも、こちらに大口を開けて目をギョロギョロさせ合図した。
ダリは残ったチョコの欠片を放り込んだ。
そして、ダリは、つるつるの頭を撫でながら向き直り、話し始めた。
「俺の話は難しくない。どう言う訳か俺たちは道を踏み外した。怒りの神々が俺たち全員殺そうとしている、それに対しての決戦だ。ザジズゼゾの力が欲しい。」 |
No.19
そこまで話すとダリは、取り巻いていた野次馬に向き戻り、大声で怒鳴った。
「ザジズゼゾ様の御成りだ!われらを神々の惨殺から救って下さるのは、このザジズゼゾ様よりおらぬ!いよいよ神々と決別するときが来たぞ!人間は弱いが一人ではない。ザジズゼゾ様は人間の“不可知”そのものだ!我ら“生き物”であり人間だ。」
イワオは、なんとも照れくさくいかがわしい思いをしてその人々を一望した。
「おお、ザジズゼゾ様、ありがたい!俺たちにご加護を!」
「わしらは先祖からの神々に見放されたどころか、家の中で、つぎつぎと家族を殺されている。」
「我らを守るはずの神々が、祖父を、長老を、子供を、他愛もなく惨殺した!」
「神々は、俺たちを道連れに、この世界から破滅しようというのか?」
「何かが狂っている、何かが狂ってしまっているんだよ!」
「神々と戦うしかない!」
「俺たちは、何も悪いことはしてない。」
「都合が悪くなったら、虫けらのように皆殺し、こんなことが、まかり通っていいのか?
神さまにだって、おめおめと遣られてたまるけー!」
それぞれの口々に叫ばれた事実は、信じられないことばかりだった。
「ボイドの蔓延もそこに原因があるな。」
オセイ・ガーナがチョコの口を動かしながら、上目遣いで空を見上げた。
耳をつんざく轟音でザジズゼゾがもう一吼えすると、薄ら青いレーザーのような火柱が、壮絶に大地から立ち上がった? |
No.20
「神と人間はいよいよ袂を分かつか…。」
オセイ・ガーナの青白く光った顔は物凄かった。
「この世が、創造者の思うとおりになぞゆく訳が無い!ズ、ズ」
口の中のチョコレートを溶かしながらぽつりと独り言を付け加えた。
天候は気が違ったように荒れ狂い、まるで地球の心臓に青いレーザーの杭が打ち込まれたかの様相だ。その場の人間は嵐に放り込まれたごとくに何かにしがみついた。
すべての人が、放心状態でその光の柱をしばし眺めてた。
「とんでもない予感だ!」
ダリがつぶやいた。
大音響とともに放電する根元から、何か巨大なヒトダマのを思わせるものがカチ現われた!?
「うおおう?何事だ!」
ダリは仰け反り見上げ言った。
それは、人のかたちをとりはじめた。
飴細工のようにどろりと曲がりながら膨らみ、ゆっくりと巨大な人のかたちになった。
「キルミーはママの味…。こいつはキルミーマンだ!みんな伏せろー。」
オセイ・ガーナが怒鳴った。
「甘いモノは、身体を弱くする。骨なしにするつもりだ!甘い物の霊魂化で神をがたがたにするつもりだぞ。ザジズゼゾは!」ダリも尋常でない声で叫んだ。
「もとはといえば、創造者の意志と、その鋳型が五十六億年かけてこの世に人間までを作りえた。しかし、神は失敗した。意に反するということを人間は覚えたのだ、もはや創造者の筋書き通りには行かんぞ!」ダリとオセイ・ガーナは、急を告げる場でおかしな叫び合いをしていた。
「意志を持った人間は鋳型を嫌う!」
「そのとおり!」
「産みの親であろうが、いつまでもおっぱいにしがみついているのは呆け者のすることだ。ましてや、親の思惑どおりの道など誰が歩けるというのだ?へそが茶を沸かすぞ。」
「反抗期に入った人間は、本気で不可知の領域に捨てさられたのだよ。」
オセイ・ガーナは弱まりもしない風に立ち上がって言った。 |
No.21
「人間の偉いところは死ぬところだ。俺は神にほとほと嫌気がさした。」
キルミーマンが突然口を開いて、地鳴りの様な言葉が響いてきた。
「俺が、ひとたび息を吹けば、サイクロンで数万の人間が家を無くし家族を無くし、死ぬ。
地面を押しやれば、家は倒れ山は崩れ都市は壊滅し、数千万の人間が苦しみ死ぬ。
俺はそれが、神の、身勝手な人間への導きと思っていた。」
イワオの口をついて、思いもかけずザジズゼゾの言葉がその後を続けるように喋り始めた。
「この世に有りながら、人間はほんの短い命に翻弄されるが死ねばその生は終わる。
ところが、神は死なない。意識と記憶を持ち続け、死ぬと云う事は出来ない。
だから甘味は是非とも神に必要なのだ。
それも普通じゃない!神は人間のドラマチックな死に最高の甘味をおぼえるのだ!」
「何と云う論理だ!」
それを聞いた向い風にやっと立つオセイ・ガーナは目玉を丸くした。
なおザジズゼゾは続けた。それは静けさを帯びて聞こえた。
「このキルミーマンは、その神の甘味のエッセンスで出来てる。
彼は私の兄だ。私が今し方その本当の真実を明かしたのだ。
神は、甘味こそが本質なのだ!
さすが、妖怪族の異端の主だ、キルミーマンはここに神を封じ込め自爆するつもりだ…。
不良仲間のように、彼は人間を放っておけない。
キルミーマンの人間への無償の行為を無駄には出来ない!
人間は新たな機会を迎えている。神から自立して、
命の可能性に開かれた自らを諦めてはいけない!」
「…創造者と、命は、別なのか?」
オセイ・ガーナはますます目玉を丸くした。
「ドラマチックな死は甘味だ、本来の人間の在り方などでは無い。ましてや導きなどではない。」
ザジズゼゾがつぶやく。
「何と云う事だ!貧困と、餓えと、災害と、悲惨なドラマを造り為していたのは神なのか?」
オセイ・ガーナの気持ちがガソリンが引火したごとくに燃え上がった。
同時にダリは、二つ居並ぶドラムの前につっ立った。
鉄仮面の様な無相で鳥の脚のように奇妙に曲がったスティックを取ると、
何かを操るごとく慎重にアペンティマというトーキングドラムを叩きだした。 |
No.22
心の底に有る気持ちをそのままに、太鼓は人々の心を軽くした。
その音色は、ダリの取り巻き達が口火を切って言いだしたように聞こえた。
タン、トンタン、タン、トタン、タン、トタン、
スタタタ、タン、トトタトトタ、タン、テテ
喋るよりも明らかに、こう聞こえた。
「おらは、政治家が悪いのかと思っていただ。」
「俺は、俺達人間が、間違いを犯して、天罰じゃないかと思ってるよ、ああ、今も。」
「こんなに地上に増えちまった人間が悪かろう。」
「神様は私達の味方じゃないですか?」
「いやいや、こんな愚かな人間に見せしめの鉄槌ざましょ。」
「人間ってろくなこと考えて無いからねー。」
「運命なんだ、しょうがねいやい。」
「温暖化させたバチでしょ、神様のね。」
「人間なんて所詮どうしょうもねえ。」
「神様を悪く言わないで。」
「どうでもいいけど、のんきに暮らしたいね。」
「悪いのは、人間なんでしょう?」
吹き荒れる風の中にハッキリこのように聞き取れたのだ。
ザジズザゾは涙が溢れてきた。
人間の天性の明るさだ。心臓を貫くほどのくったくのなさが身に沁みた。
自分達の存在をここまで明るく放り出す存在があっただろうか?
宇宙は神の計画どおりすべて自分本位に造られていた。
人間はと言えば、出来そこないなくらいの明解さで自ずからが何も無いのだ。
そこには、必ず来る死があるからだ。
神の甘味の素である人間…。
それと同時に、ザジズゼゾの心には神への恐ろしいほどの憎悪が込み上げてきた。
青いレーザー閃光が遠くまで爆発するように走った。
「待て!ザジズゼゾ。俺に任せろ!」
無音の中をキルミーマンが鳴動した。
しばらくして恐ろしい爆風とともに、キルミーマンが壮絶に宇宙に吹き上がった。
「さよなら、ザジズゼゾ!」 |
No.23
キルミーマンの消失は、嵐の後の様な風音を大樹に残していた。
「いったい人間は神様無しでやっていけるのか?」
こんな思いが誰の腹の中にも詰まっているのが、太鼓を叩くダリには感じられた。
大樹を揺らす風の音が吹き抜け、しばらくの無音が続いた…。
アペンティマの音色は、そのような疑問符から徐々に、不思議な進行を叩き出していた。
ン、チギタン、ンチギタン、ンチギタン、ンチギタン、
ダリは無相のまま、自分自身には何も無いまま太鼓を叩いている…。
チギタン、ンチギタン、ンチギタン、ンチギタン、
びっこをひく様な感じから何かがか弱くはあるが、確実に歩き始めた感じになった。
このように聞こえる音色が、やがて腹の中の何かが言葉となって立ち上がってきた?!
自由、自由、自由、自由!
祝祭の祝いのように言葉が溢れ出した。
これを聞いた後には、もはや、太鼓はこの様にしか聞こえてこない!
人間、自由、人間、自由!
人々の腹の底にあるものが言葉となって今叩かれた!
…大きく其処に立つバオバブは、数百年ぶりで再びこの“人間”の言葉を聞いた。 |
No.24
第二章「イスマエル」
その年を境に天空に二つの星が突如出現した。
それは、あるときは日没すると金星のような明るさでコバルトブルーの夜空に輝いた。
ちょうど差し出した指一本分の間隔をもって、青みを帯びた星を乳白色の星が追うように見える。
青い方が長い尾を引き、一筋あざやかに、片側に繋がるのが見え、
それがあるとき細い三日月に重なると、ちょうど矢をつがえた振り絞った弓の形になるのが天空に見えた。
その矢は、地上に向かって今にも放たれようとしているように見えるのだ…。
イワオの中のザジズゼゾも、あれ以来影を潜めたままであった。
ガーナのテジャンのところで、テルが亡くなった。
テルが亡くなるのを前後してイワオには息子が誕生していた。
そう、ガーナの地で二人は出会う事が無かったので関係は無いのだが、運命は不思議に展開していた。
その名はイスマエル、ガーナ女性との間に出来た私生児で、イワオにすべてが託された。
きしくもその夕暮れに、その矢は放たれた。
みるみるうちに地上に突き刺さるのが、大勢の人々に目撃されたのである。
*テル 天頂の惑星「ブラックスター」巻 参照 (行方不明であったイワオの父) |
No.25
イスマエルは、オセイ・ガーナが作った、いっぷう変わった手製の乳母車から瞳をくりくりさせてイワオの顔を見上げていた。
そこに、無心の笑いがあった。
イワオは、以前とは何処に出かけてもまるで状況が変わった。
何処にいても、ガーナのママたちがイスマエルを放っておかなかった。
イスマエルの無邪気さが何から何まで味方にしてしまう。
すすんで、マーケットなどのママたちばかりの中にも入って行った。
イワオにしてもまさかこのようにして、日々、ママ達から乳を貰い受ける事になろうとは、
想像できたであろうか?
天空には、朦朧とした空間を抜け出た月が現れた。輪郭はぼやけ、肥大し、海の上を大きく漂うように現れ出た…。
そのとき、イワオは海辺に乳母車を止めてぼんやりと、その月を見ていた。
イスマエルも眠りから覚めると、長い時間その月を見つめていた。
そこには何事かが満期を迎えた予感が充満していた。
イワオの後頭部から人魂の形をしたザジズゼゾの霊魂が煙のように音も無く頭上に抜け出た。
一度大きく膨らむと、みるみるとイスマエルの吸い込む息と共に小さな鼻から、
巨大な人魂は、イスマエルの体内へと吸い込まれた。
いやはやこれらは、いったい目撃したらどのような事として理解したら良いか不能だった。
イスマエルは、乳母車の中で明るく昇り始めた月に無心の笑いを浮かべていた。
|
No.26
神の嫉妬はここに始まった。
「私は、人間の無知な明るさがゆるせない!
人間には死がやってくる…、すべてにだ。朝に生きて、夕暮れにはもう死がやってくるのに…。
人間のこの脳天気な明るさを、私はゆるせんのだ。
全能の私の力を持ってすれば、人間など粉々にするのはまったくワケは無い。
脳天気な明るさも、一瞬にかき消されるのが存在というものの醍醐味なのだ。
どうしようもない運命に嘆き悲しむのが人間という存在なのだ。
その真摯な重みを知れ、人間よ。
悲惨な死は、何が大切なのかを教える、そしてそれは、今や私の楽しみにもなった…。
存在の重みを思い知れ、人間よ。
死を担え!
おまえたちの明るく生き延びる道など無い!
苦悩の救いは死だ。
ああ、私はなんとも慈悲深いのだ。ところが、死を前にして有ろう事か、その明るい眼差しはなぜだ!?
あの脳天気の明るさは何だ?
そう、慈悲心に満ちた私だが、この無知の明るさを思うだけで腹立たしい。
運命を恐れろ!悲惨な死こそ存在の深層を見せてくれるのだ。そこに宇宙の真理が在るのだ。
そうだ、この、赤子の無心の笑いにしても夕暮れには早くも穢れる。
人間ほど罪深き者は無い…。私の創った人間は、真摯で悲しいものなのだ。
私は、人間の究極の明るさをゆるせない。」
イスマエルに入ったザジズゼゾは、放たれた神の言葉をことごとく見破った。 |
No.27
月は、不安な色から、自ずからを抜け出ると、明るい大きさを取り戻した。
何処からか、三人の楽士がやってきた。
瓢箪のシェケレを器用に三角に振る男、ゴンジェという擦弦楽器で尻を突出してひょうきんに擦り弾く男、
奇妙な声で謡い甲高い拍子をとる男は、指にウドゥドゥンプという鉄のカスタネットを逆さに嵌めてる。
イスマエルの乳母車を前にして三人は、なぜかそのひょうきんな演奏が奇妙に熱を帯びていた。
どうやら、イスマエルを讃えて即興で歌っている。
それぞれの着ている北部の民族衣装は、長い放浪をものがたり、臭うようないい味になっていた。
放浪の音楽家、グリオだ。
何かユーモアを伴う人間的な空気が、其処の場に強烈な安らぎをもたらしている。
ひとしきり歌い終わると、周囲に人が集まり笑いが起った。
グリオからはイスマエルを祝福して長い守護する言葉が溢れた。
イスマエルの存在は、人間的な温もりの高貴さを帯びたオーラに強烈に輝いていた。
浜辺に大きな庇のように葉を広げる巨樹は、久々に人間の温もりの空気を懐かしんだ。
イワオは何となく気がつき始めていた。
存在するものにやどる非存在の者をだ…!
これが、何とも存在を懐かしむのだ。
神の悲劇に対してさえ、ユーモアを持ちかける非存在の者。
自惚れと嫉妬の神には決して理解出来ぬ、非存在の者を湛える “人間”と云うものを! |
No.28
ザジズゼゾが脱した後のイワオは、強烈な腹痛と吐き気に襲われた。
身体が裏返るほどの吐き気が去った後には、何かの重荷を下ろしたかの感覚と、爽快感も同時にあった。
「自分」と言う強い台風の眼の様なものを、まったく外側から意識出来た瞬間であった。
今まであった「自分」という存在を客観視出来る俯瞰図のような視点だ。
あらゆるところに自分が遍在しながらも、統一感は失われずにあった。
この宇宙の俯瞰図からの台風の進路は歴然としていた。
あれほど分からず悩んだ「己の為す事」は自明の現象のように思えた。
一つの現象としての台風の意味などを問うほうが可笑しかった。
波の上の月はますます煌々と明るさを増していった。
すべては己の阿頼耶識に帰依する問題であった。
百人百様、あらゆるものが好きなように展開されながら、それぞれが微細な芥子粒をかたどり、幾百万の宇宙を内包していた。
何か、頭の中に大輪の華がゆっくり開くような感覚とともに、その波は留まるところを知らず全自分に広がり、一瞬にショートするように真っ白になった。
イワオは海を望むその場に崩れ落ちるように倒れた。 |
No.29
どんどんと時間が飛んでゆくのが見える!?
イワオの両脇を、ページがつぎつぎと裂かれて場面が飛んでゆく?
すべてが覚えのある出来事だ。
まったく忘れていた、出来事と呼べない子供の頃のある夏の日盛りとか、
雪の日の窓ガラスから見た光景とか、
無数の珠のような経験がつぶとなって昇華していく。
何故このように鮮明で、この上なく克明に明るいのであろうか?
自分はこのまま死ぬのだろうか?
それはどんどんと速度を上げて、液状のひと連なりの長い長い透明な凝縮されたレンズ状となった…。
…オリーブオイル、…エクストラオーガニックバージンプレミアムオイル、と言えばよいのか…?
そのようなどろりとした、ひと連なりの香りのよいオイルだ!
太陽の光を燦々と浴びて育った果実に収穫の時期がやって来たのか?
ひとつひとつの果実が無数に集まり、自然に流れ出るままに抽出された液状のもの…。
そこには、二度とない出来事と燦々と降る太陽光線で、明るく結実したエキスが一杯に詰まっていた。幻覚なのか?いや、リアルだ。これ程のリアルさは、現実も持ち合わせていないであろう。
このようなものこそ『私』なのだ!
もはやあの実に戻る事は無い。
めしあがれ!
捻れてこの上なく古い一本のオリーブの木は、その芳醇なオリーブオイルを今食卓に提供する! |
No.30
海は陸を洗っていた。
海辺に倒れ込んでいた男の耳もとを波が洗った。
月は冲天に掛かり珠のごとく光り輝いていた。
たまたま浜に出てそれを発見した漁師は、イワオを大声で引き起こした。
事は新たなステージへと展開しつつあった。
その呼び声とともにイワオの意識に突如として思い起こされた連鎖があった。
ブラックスタアに連なる連鎖が…、イワオの輝き、そしてそれはイスマエルへと連なるコンボロイであった。
コンボロイとは、ギリシャに伝わる数珠のようなもので、石を奇数個繋げただけの昔からの遊具だ。
遥かな記憶としてそのコンボロイが手中にある錯覚を受けた。
遥かな懐かしさは、ありありとその粒を際立たせた。
競技場一杯の観客は、もうもうとした熱さの中、興奮は頂点に達していた。
私は、試合に勝った。そう思った瞬間に心臓が痛んだ…。
勝利の瞬間、卑怯な男の卑劣な行為に私は死んだのだ。
私は、身体ごと崩れ落ちる時に、コンボロイの一粒を握りしめ、復活を誓ったのだった…。
私の名は、クロメダカス…。
イスマエルの意識が、ザジズゼゾにより目覚めた瞬間であった。
イスマエルは小さな掌に固く固く一粒の石を握っていた。 |
No.32
試合は、静まり返る大空間を切り裂く笛の合図で始まった。
イスマエルは史上最年少のプレーヤーとして、オリンピックのサッカーコートに立っていた。
緑の芝生は夜間照明を浴びて、強烈なグリーンとなって目に飛び込んできた。
イスマエルは13歳になっていた。
時も時、ガーナは奇跡的なプレーの数々でアフリカを勝ち進み、この21世紀の東京オリンピックのスタジアムでオリンピックの決勝戦を迎えていた。相手は無敵の王者ブラジルだ!
イスマエルは、今始まったばかりのこの怒濤の歓声の中、見た事も無いものを思い出した!
紫色の光線を発する塔のようなものだ。
それに…顔だ。鼻の曲がった、ある男の顔。
それに、…そうだ!思い出したぞ!このスタジアムに入場する時に地下の通路に描かれた巨大な松の絵、あの何とも巨大な松は、…見た事があった…!
すべてが冷静なイスマエルの血を沸騰させ騒がせた。
何か心臓が熱くなって、大きく異様に波打つのが感じられた。 |
No.33
先年よりオリンピックサッカーの規定が、FIFAの規定より完全解放されまったく新しいものとなった。
もちろん出場年令の制限などから完全解放され、すべてがフリールールになったのである。
サッカーは、オリンピックの最高の注目される競技となったのだ。
やはり、強者はそのままに勝ち進んで来た。
ここに本来のサッカーの苛烈が戻って来たのである…。
イスマエルは、物凄い歓声の中を、軽く踊る様な足取りで身体を慣らしながら、相手チーム側を流すように走っていた。
ブラジルの応援は、まるでサンバカーニバルの直中での試合かと思わせた。
そんな中、大統領、富豪、王族などの居並ぶ貴賓席から、この試合を瞬きもせず注視する老紳士がいた。
パナマ帽の下の顔は濃い影で見えないが、深い皺の入った両手を杖に乗せていた。
ミスター・老杉…。
何もかもが正体不明、世界の黒幕、フィクサー、めったに公の場などには姿は見せず、面識の有る者もまれであった、が、ここだけは例外だった。
オリンピックだけは必ず姿を見せたのである。
その老紳士は表情はほとんど分からぬが、数世紀の時間をも射抜くような視線で先ほどから試合を凝視していた。 |
No.34
サッカーは個人技ではない。しかしここでその個人の身体能力が問われる事も確かなのだ。
イスマエルの動きといえば、ごく楽に動いているように見えるが、恐ろしく速い…。
相手の選手が必死にブロックしようとするが、軽く左右に振れて楽々と抜け切ってしまう。
ランニングするにしても初速やターンが異常に速い、
が、まったくそうは感じさせず、むしろ優雅ささえ感じさせるプレーだ。
何かしら根本から動きの質が違うのだ。
隠れた見どころといえば、
そのような動きをするものが、ガーナチームには3人も居るのだ!
イスマエルの兄貴分となるイサクとビスマルクだ。
イサクは36歳、ビスマルクはなんと51歳だ。
この二人は去年までプランテーンの農場で農業をやっていた。
そこの草サッカーから、そのまま世界のひのき舞台に登場したのが三人だ。
まったく世の中にはトンでもないやつらが眠っているものなのだ。
けしてフロッグでガーナは登場してきたのではないのである。
王者ブラジルはガーナをなめきっていた。こんな田舎者に負ける訳がなかった…。
華麗なプレーを見せようと、初戦からよたよたとゆっくりなステップを踏む動き、ジンガをディフェンス陣はしたのだ。
イスマエルにフェイントは通用しなかった。
あっという間もなくイスマエルは走り込んでゴールを決めてしまった。
総立ちのガーナ応援団、反対にブラジル側からは、
何かブーイングともため息ともつかないものがスタジアム全体に波及した。
思いもよらぬ開始直後のガーナ得点に、過激に鳴りモノを入れる私設応援団の中には、
サングラス、ソフト帽と背広で渋くきめたオセイ・ガーナの姿もあった。 |
No.35
先取点を取られたブラジルにエンジンがかかった。
どよめく中を稲妻の様な速攻でボールが渡り、ゴール前センターにボールが出た瞬間、
そこに居た、ブラジルの“鐘突き鳥”とうたわれた天才プレーヤー、モカ・マタリの神業のようなヘディングに、たちまちに1点を戻された。
戦略の勝利に、ガーナ勢は己の目を疑うしかなかった。
選手のひとりひとりに内心の疑惑が浮かんで来た、
「やはり俺たちは田舎チームでしかないのか…?」
そして、前半、残り時間5分を切ってブラジルの巨砲ペテロの猛烈なキックのロングシュートが2点目を決めて、
たちまちに形勢は逆転して前半終了間際となった。
ガーナの監督がここでタイムをかけた。
物凄い声援と応援の嵐が怒濤のようにスタジアムに巻き起こった。
この男は?左掌に盆栽を乗せている!?
何故だ?
ガーナのコーンパイン監督…。
!この男は、かのブリストル・コーンパインのメスーゼラの盟友ノンモの後裔のお世話係、留松のその人だった!?
コーンパイン監督は、円陣にその盆栽を差し出した…。
「いいか、自信を持ちなさい。勝ち負けにこだわってはいけない、
焦る事はないのだよ。考えより速い自分を信じなさい。」
掌の盆栽が喋った!いや、ハートに直接話しかけてくる。
強烈な照明で浮き上がる、スタジアムの怒濤の擂り鉢状の中にハッキリと聞こえた!
「君たちは足で走るんじゃない。心のままに動けばいいのだ。」 |
No.36
われわれもここで少し休憩を入れよう。
読者は、「天頂の惑星」第三部を思い出していただきたい。
原爆投下後の世界の方向性を危惧して、
第2次世界大戦終了後、古代そのままのスタディオンにオリンピックが開催され事は、人類の記憶にはもはや無い。
太古より地球に寄宿する宇宙生命メスーゼラの気魂は、人間的な始源の古代オリンピックに人類存続の最後の期待を賭け、完全に裏切られたのだ。
それから60年あまり過ぎていた…。
以降、物凄い速度の発展が始まった。
大規模な有無を言わせぬ資源開発は大地を根こそぎ削り、
経済は思うがままのコンピューターによる先物投資で、顔の無い投資家が掌握して
自家中毒を起し、誰のコントロールも利かなくなった。
世の中は、未だかってない程の崩壊の予兆に溢れ、自然環境の破壊は恐ろしいまでとなっていた…。
じわじわと海水温は上昇しており、いよいよ気象は激変し始めていた。
無策のまま人類は未曾有の崖っぷちに立たされていたのだ。
これは、…すべてが一人の人間の不正を機にしていた。
以降の発展型はまったく不思議な程、あらゆるものがナチス・ドイツの遺産そのままに科学技術の世界となった…。
民主主義という旗とともに人間的なものは力を失い、科学技術と兵器が度を越して国を恐怖の面から容赦なく支配していた。
これは間違っている!
人間の戦いは、身体の本質にのっとり行なわれなければならなかった…。
ミスター・老杉
メスーゼラの手紙をたずさえて、敗戦後のある日、イスマエルの曾祖父にあたる、若き日の源一郎の前に現れたのがこの物語への初出である。
この謎の紳士こそ人類の分水嶺であったのかも知れない…。
彼こそ、莫大な資産を投じてオリンピックにサッカーを生き返らせたのだ。
そのフリールール化への資金面は、天文学的な金が動いたと噂された。
“戦いはオリンピックで行なわれるべきである”というミスター・老杉氏の信念のもと、
各国は世界戦争からの免罪符を手に入れる可能性がでてきたのだ。
国家間紛争に武力を用いた国への制裁は、出場権のはく奪である。
世界の主なる国が参加してきている以上、
その国の平和はオリンピック参加により維持される可能性が出て来たのである。
試合がすべての争いを調停する可能性まで出て来たのだ。
武力制裁は、もはや国家すべての破滅を意味し始めていたのである…。
それだけに、オリンピックサッカーはとんでもない競技になりつつあった…。
試合は、残り時間わずか35秒の再開の笛が吹かれた。
|
No.37
ゲーム再開と同時のスローイングから、ボールはビスマルクと、ブラジルの俊足サンチョとの足の競り合いになった。
草サッカー上がり51歳の元農業の男と、国際記録陸上400Mの記録まで持つ24歳のバリバリ、サンチョの体力差は歴然とするはずだったが、ビスマルクが速い…、速いのだ!生え際の多少後退した頭に愛嬌の有る目がきょろきょろとしたビスマルク。走るキリンを思わせるスローなストライドなのに…。
なんと、そのビスマルクが競り抜け、イサクにつないだ。サンチョは信じられないという表情で肩をすくめた。
その間に逆サイドから獲物を追うチーターの速さで走り込んで来るものがあった、イスマエルだ!ブラジルゴール前にイサクのボールを捉え、即座にゴール?と思いきや、ポールにリバウンド!同時に数人がヘディングで、ドドドッとブラジルゴールになだれ込んだ!
前半終了0秒前!ほとんど同時に笛が鳴った。
時間切れなのか?!
ぐちゃぐちゃの怒号!怒鳴り合い!選手同士も折り重なって何が何だか判らない状況だ!
ノーゴールの判定とともに、審判団は即座に集団防御の体勢に入った。
コーンパイン監督は猛然と抗議に走り出た。
ガーナのノン得点をめぐり、誰もが熱くなり怒鳴り叫び立ち上がった。
スタジアム全体がとんでもない喧噪の渦と化して、一触即発の空気を孕んだ。 どうも、始まりからブラジル寄りのジャッジを下す審判、コチニール氏に、サポーター達のみならず観客の不満が溜りに溜まっていたようであった。
|
No.38
不正はこれだけの人々が見ている前でも、公然と行なわれる。
ジャッジは、ビデオの判定があろうが、覆る事はまったく無かった。
主審コチニール氏はコーンパイン監督のゼスチャーを交えたもったいを付けた紳士的な抗議にも、まったく受け付けぬという風であった。何か少しでも非が有れば即刻退場を宣告する構えで応戦した。
公平を欠いたジャッジにますます観衆はエスカレートして、夜間照明に映えるコート上のみならずスタジアムの上部までが、ぐらぐらと煮立つたような鍋の湯のようでこぼれかかっていた。
ついに怒りが心頭に達したコーンパイン監督は、冷静な怒りの顔でガーナ勢全員の引き上げを命じた!
ブラジル勢もこれで火が着いた。ブラジルの観衆がガーナの旗を引き摺り下ろしにかかったのだ。
ここまでになるには訳があった…。
コチニール氏はドイツ系ユダヤ人であった…。
終戦後も、ヒトラーユーゲントの中でも親衛隊に属した程ヒトラーの近くにいたと噂された。
戦後、A級戦犯の疑いが起り、ある時期からまったく姿を消した…。
ある日、ブラジルに突如として現れ莫大な資金を背景に世界のサッカー界に影響を及ぼすようになるや、オリンピックサッカー審判団委員長となったのである…。
ある場所でコチニール氏は、ブラジルに逃げ延びたと噂されたヒトラーが帰って来る日…、これを真しやかに述べたとも噂されている。
しかし、これはあくまで噂の域を出ない事である。
しかし、しかしである、何にも増して不思議なのは、コチニール氏の容貌のりりしさだろう。50代にしか見えないそのいぶし銀の立ち姿、ランニングにも息を切らせた事など無いのである。
そのうえ静かな喋りの中にも人をいぬく目、グレーのポマードの利いた髪、すらりと伸びたその背筋が、女性ファンを虜にしていた。
どうみても、とても1930年代のヒトラーの時代の人とは思われない…。
審判にさえ強力なサポーターが居る、と云えばこのコチニール氏のことなのだ。 |
No.39
余分な事はとにかく、オリンピックサッカーは、今や予断をゆるさない緊迫の事態に直面してしまった。
両チームの退場したコートに、火の着いた新聞紙が幾つも投げ込まれた。
貴賓席では、国家元首や王族までがジャッジに極度の不満の色をみせ、取り返しのつかない事になりかけていた。
このまま決勝戦は両国の紛争へと急転する可能性も出て来た。
いや、この新たな紛争への解決策への切り札と思われたオリンピックは、
審判団を含めた、委員会への不信、オリンピックを政治的な決着として代用する事への不信そのものと共に、
各国大統領、指導者レベルに、軍事力のリアルさを痛感させる事態へとなってしまった。
ジャッジ、しいては人間への不信が一斉にある方向に動き始めようとしていた…。
ミスター老杉は貴賓席の窓際まで進み出たまま、火の手の上がる空虚な闇につぶやいた。
「コチニール?やつは誰だ…?
人間の争いは、…オリンピックで決めるはずじゃないの?」
混乱の最中、一部始終を執念深く追い続ける男がいた、いや、正確には老人だ。
傷だらけの顔に埋まるサングラス、その中の鋭い眼光が、コートの威厳を放つコチニール氏に執拗に向けられていた。
最後のナチハンターの異名をとる男、ジンクルーパーだった。
「判らなかった訳だ…、別人だ!
うまいものだぞ、実にうまくバケている、コチニール…。ナチ野郎!
その野望は砕かれていない…。
やつは第三帝国復活を賭けている…、ふざけるなよ!待っていろ、俺が今タタキ潰してやる。」
革手袋にステッキをギユッと握りしめ、巨漢が階段を降りた…。 |
No.40
女の取り巻き共を脇にかき分けると、ジンクルーパーはコチニール氏の目前に出た。
「アドルフ!うまくバケやがったな、その若さの秘けつは何だ?ヘヘヘ、俺にも教えてくれないか?」
「何の事だ…。わたしはコチニール・バガボンドだ。人違いだ。」
「へへ、それはその肉体の名だろう…、あんた本当の名前はアドルフ・ヒトラーだよ。忘れたか?」
「調べはついてるさ、液体窒素で冷凍保存された肉体に入り込み、生き延びた!…信じられない荒技だ。
あのガラス玉のおかげだろう?」
「これはこれは、ジンクルーパー氏か、おみそれした…。そこまでよく調べ上げたね。ブラボーブラボー!
いつも犬のようにわたしを嗅ぎ廻った…。
しかし、残念だ。あなたももうお歳だ、認知症も疑われるお歳だろうに?
わたしは確かにドイツ人だが、ユダヤの血も入っている!DNA鑑定でもしてみるかね?
わたしが、ナチな訳が無い!まして、ヒトラーではありえない。それにあなたには何も物的証拠というものが無い!
もうろくはしたくない、悲しむべきは老だね。ジンクルーパー氏!
このどさくさにさっさと消えたまえ!」
「へへ、言う事はそれだけかい、アドルフ。」
ジンクルーパーは四つ切りサイズの写真をおもむろに取り出した。
「この男を知っているだろう?」
コチニール氏は写真を覗き込んだ。
無造作に引き伸ばしたモノクロームの写真…。
そこには二人の若い男が並んで写っていた。 |
No.41
そこには、若き日のジンクルーパーとコチニール氏が肩を並べていた。
「俺のいとこなんだよ。バカボンドは…。」
「ガキの頃は、ほんとに仲がよかった。
バカボンドの方が歳が上だった、音楽家を目ざしていたよ…。
だが、怪しい時代になって、
優秀だったやつは、よりによってあんたのヒトラーユーゲントに入ったよ。
…ユダヤ人の血が入る事をひた隠しに隠してな。
…俺達はそれから今まで長い絶交をしたままだ…。
お袋も、親父も、叔父貴も、姉も、甥っ子も、みんなあんたのガス室にいったまま帰って来なかった…。
俺だけ、俺だけが、何の因果か助かった…。
絶望と不信とを、たらふく味わったのさ!
戦後のバカボンドは行方が知れなくなった。
俺は必死でバカボンドを探した。
ナチを追う仲間から、ついにブラジルに渡った噂を聞いた。
だが、その後は、まったく何もつかめず数十年たってしまった。
俺はサッカーが好きでね…。ある日TVでサッカーを見ていてな、目立つ審判がいるんだ、
あんただ。…歳は違うがそっくりだ!
あんたを探るうちに、判って来た。
確信したね、本人だ、バカボンド本人だとね。
しかし中身が違ってた!
アドルフ・ヒトラー!
何てこった!
あんたが乗っ取ったのは、俺のいとこだ!
なので、殺すわけにはいかねえが、殴らせてもらう!」
ジンクルーパーの鉄拳がうなりをあげた。 |
No.42
コチニール氏は、巨漢のパンチで吹っ飛んで起きあがれずにいた。
「待てよ、ポパイ。」
ジンクルーパーの頭の中で声がした。
「ポパイって、俺のあだ名を…。バカボンド!まだお前の人格は有るのか?この肉体に?」
「ああ、僅かだがね。アドルフがこうやって気を失っている間だけ…だ。
会いたかったよ!ポパイ!歳をとったね。」
「ああ、バカボンド…本当に戻ったのか?」
「手短に言う、ポパイ、時間が無い、この男を葬り去るには、この男の頭蓋骨をボールに、試合を再開するしかない!
ゴールしなければすべてが終わる。そのボールがこれだ!」
「何だと!?」
どこかから玉が蹴り込まれて来た!?
弾んだボールの透明なクリスタルの中には髑髏が一つ浮いていた…。
「勝ち負けじゃない、ゴールだ…」
その時、コチニール氏が意識を戻し頭を振りながら立ち上がった。
口から流れた血を拭いながら、一言、周囲に告げた。
「試合再開だ。」 |
No.43
大混乱のスタジアムは、試合再開のニュースと共に、ワンゴールかノーゴールかの、審判コチニール氏との“サドンデス”のニュースが巡り、割れんばかりの応援合戦の上に、さらに輪をかけた異常な燃え上がりをみせた。
コチニール氏の進退も勿論ここにあったが、それが人間の歴史に何を指し示すかは、観客も、該当チームガーナもブラジルも預り知らぬ事であった。
…試合再開を待ち、コート中央に安置されたクリスタルボールの中の髑髏が無気味な光を帯びていた。
いったい、このようなことは何処で起る葛藤なのかは誰も知らなかった。
貴賓席では国賓、元首、王族の、活発な会話が交わされ、莫大な賭けも公然と行なわれたと聞き及ぶ。
ミスター老杉といえば、クールなサングラスに会場全体を映し込んで静かに眺望し、国賓達とは別格の底なしの凄みを帯びていた。
オリンピックサッカー、しいては、これまでの全サッカーの試合で、これ程の盛り上がり
を見せた事はかって無い試合となった。
東京オリンピックのサッカーTV中継は、延長放送を続行し、全世界が固唾を飲む結果となった。
もはや、これはただのゲームでは無い!異様な熱気がスタジアムに渦巻き、鬼神夜叉までもが姿を見せそうであった。
もう、誰もここから目を離す事が出来ない!
無気味なクリスタル髑髏ボールとともに、
深夜0時にゲームが再開された。 |
No.44
さて、見るもよし、目を瞑るもよしだ。
髑髏ボールは、イスマエルの強烈なロングキックで、ブラジルコート中央を突破した。
しかし、モカ・マタリのヘディングはそれを半分まで跳ね返してきた。
まるで、髑髏が宙を飛び交い笑っているように見えた。
それを腹で落とし、一気にブラジルが攻め込んできた。
折り重なる中、ガーナのゴールキーパー、コシザンが死守して髑髏をグローブで抱き込んで止めた。
物凄い歓声が上がった。
どの顔も必死だが、好プレーにふっと、瞬間笑いが洩れる!
又、ある時はゲームの深みに触れた思いに、不思議なため息の様な声がスタジアム全体から起るのである。
左右をついてビスマルクとイサクの間を髑髏が稲妻のようにすすむと、イスマエルがゴール前に出た、競り合ってシュートだ!ブラジルのキーパーが髑髏に向かってジェット機のように跳んで撥ねた。
髑髏がバウンドして入りそうな瞬間、笛が吹かれた。イエローカードだ。
スタジアム全体から怒濤の様な歓声とも野次ともつかぬ響きが巻き起こった…。
反則行為か?コチニール氏は薄ら笑いで、イスマエルを差した。
どうやらイスマエルを、まったくマークしていると思える…。
彼等には、文句無しにゴールする以外に道はなかった。 |
No.45
この試合だが、現在のスポーツの概念を根底から変える要素がある。
身体能力を正々堂々と競う態度よりも、戦略的なものが加味され優先されてきたサッカーだが、
ここでは、それはいよいよリアルさを増していた。
ルールは存在するが、ジャッジは公正ではない…。
コーンパイン監督は、タイムに円陣の皆に告げた。
「俺の話を聞け。
信頼されるべきは、“見抜く力と精神力”だぞ。
意外だが、極限状況下では正道に帰してくる!
こだわらない心が、“見抜く力と精神力”の下支えだ。
不思議だよ!
怒りや奢りは、余計なダメージを己に返してくる。
クールと云うもエゴを中心にした力は、
フルに出し切ったとしてもたかが知れているさ。
オーケー!どんな過酷な条件下でも、人間のびやかさや、素直さや、正直さが、決定してくるよ。
それが大事!Don't Mind.」
これこそ、かってメスーゼラが期待したものに他ならなかった…。
正道!真直ぐだ!
このことで、あらゆる予見する理性と感情よりもまっ先に身体が動いて行くのだ!
しかも、爽快感は並みなものでは無い!
いったい、身体とはナニモノであろうか?
試合再開直後、
イスマエルの顔面に髑髏が襲いかかってきた。
ヘディングで突き落とすつもりが、イスマエルはボールに大きく弾き飛ばされるかっこうとなった?
ここをブラジルの鐘突き鳥、モカ・マタリは、バウンドボールをさばいて速攻に転じた。
ガーナゴール前に出たボールは、またもや巨砲ペテロによって近距離からガーナゴールに猛烈に打ち込まれた。
キーパー、コシザンはまともにそのアッパーを喰らい、弾き飛ぶ瞬間失神した?しかし、グローブにはしっかりと髑髏は受け止められていた。…彼の肋骨はにぶい音がして折れた。
何かがおかしい…!?
原因も判らず、ノーゴールのまま後半が終わった…。ガーナチームは半数近くの者が骨折、または退場してボロボロの状態になっていた…。
髑髏がシビアに笑った。 |
No.46
残るは1分05秒、ロスタイムのみとなった…。
コーンパイン監督は、そっと何かを掌からコートに置いた。
かのブリストル・コーンパインのメスーゼラの盟友ノンモの後裔が、初めてグリーンのフィールドに置かれたのだ。
以前と変わらぬ相変わらずの小さな盆栽だった…。
かのノンモに比べ、数百分の一の大きさであろう。
…しかし、ここに事実が明らかになりつつあった。
何とノンモの後裔と思われていた盆栽は、推定でも数十億年は生きている、メスーゼラ、ノンモら、気魂のご先祖“五葉の松”であった…。
松がテレパシーで語り始めた。
「いよいよ試合時間も少なくなってきたね。わたしの希望を叶えてくれた、ミスター老杉に感謝するよ。
イスマエル、君のザジズゼゾにもね、そしてクリスタル髑髏の主、アドルフ、君にも敬意を表する事とする。
…わたしは、この地球が出来て、最も古い気魂だが、
わたしの祝祭もフィナーレを迎えた。
正真正銘
これはすべてわたしの真実だ…。
変容の時が来たのだ、
天頂の惑星達よ!
小さな盆栽に着いた虹色の朝露の数々。
もはや日は高々と中空を渡り、正午に至ろうとしている。
…機は満ちた。
すべては偉大な正午を迎える。 |
No.47
瞬間、イスマエルとザジズゼゾは区別されるものではなかった。
ザジズゼゾとは、人間というチャレンジに満ちた生命形態そのもの、進化のエッセンスそのものなのか?
…すると、アドルフのナニュニョとは?荒々しい破壊の理性形態エッセンスそのものを差すのか?
イスマエルのキックした髑髏は、信じられない程の物凄い勢いで、コチニール氏の後頭部をかすめブラジルゴールに向かった。
誰もがこのような球を見た事が無かった。摩擦熱なのか、猛烈に輝き、ソニックブームとともにゴールを突き抜けた!同時に、恐ろしい程の閃光が走った!
黒焦げとなった髑髏ボールの中から幾つかのどろりとしたガラス状の物体が溶け出し、それは、みるみるうちに空間に昇華していった…。
ナニュニョの前に五つの球が揃えば、事はまったく変わっていたかも知れなかった…。
「ナニュニョ…、ここに会うことは無いだろう…。」五葉の松は、静かにつぶやいた。
深夜に、輝くばかりのスタジアム。
人工灯に照らし出されたグリーンのフィールドは、天空から見ると一つの盆栽のように見えた…。
…そこに育つ気魂は、記憶に無い程古い古い生命形態を、そのまま維持していた…。 |
No.48
今の今まで居た、スタジアムの上空を急旋回した小型自家用ジェット機は、滑るように高度を上げた。
操縦桿を握るのは、コチニール氏本人であった?
「本当の真実というものは、いつも隠されているものなのだよ…。」
明るい丸窓にはミスター老杉の顔が見え隠れした。
すでに、機体は遥か雲海に達していた。
「まだ試合は行なわれているだろうが、私にはすでに試合は意味がない。
ついにここに、ナニュニョの五つの珠が揃ったからだ。
私の手の内に浮かぶこのミニチユアの星、実にきれいなものだ…。」コチニール氏は放心したような口調で言った。
「ナチス・ドイツの超科学力の結晶だな。」雲海を見ていたミスター老杉が、ため息まじりに口を開いた。
「冷凍保存されたアドルフ・ヒトラーの結界を破れるものは、ザジズゼゾの力を於いて他には無かった。
しかし、古い古いアフリカの呪術を用いてザジズゼゾを造り、ここまでに育て上げたのは私ではない、それはメスーゼラ、しいては五葉の松の気魂だ。
彼等と、目的は途中までは同じでも、わたしは正直この惑星の救済などにはまるで興味が無い、」
「まさに正午だよ。それも真夜中のね!
いったい、あの原爆投下の戦後から今日までどれだけの時間を費やしてきたのか…。」
ジェット機の機体が揺れた?
ジェット機の窓に突然何かが被さったのだ? |
No.49
「ポパイ!?お、ま、え、って、やつは…!」
そこには、巨漢ジンクルーパー氏が、操縦席の窓に逆さに張り付いていた。
持っていたステッキで窓を撃ち破ろうとしている。
ガツン、ガツン、という音とともに機体に振動が伝わってきた。
「何だ?信じられん、なんていう男なんだ…。」サングラスを跳ね上げて、窓越しにコチニール氏は真直に見た。
「やめろ!やめないか、ポパイ!」
「とんでもないヤツめ!今振り落としてやるぞ!」
コチニール氏はジェットの速度を上げた。
信じられない事に、窓ガラスの一部に穴が空いて割れた?
そこからジンクルーパー氏は、踵を回し蹴りのようにして室内に飛び込んできた。
「小僧!ポパイを甘く見たらイタイ目に逢うぞ。」
雲海真直中の空の一角、煌々とした満月が静かに機体を照らしている。
もちろん機内では大乱闘になった。
風圧で目も明けていられない程だが、ジンクルーパー氏はゴーグルと、革手袋をしていた。
「バカボンド、ぼこぼこにしてやる!貴様の性根は直って無い。」
コチニールは持っていた手の内のミニュチアの珠が気になり、思うように応戦できないでいた。
「ヤッホーいいぞ!ポパイ、いいジャブだ。」
ミスター老杉は座席シートベルトをつけたまま、乱闘を観戦し、エアージャブを決めたりした。
「ミスター?、いったいどちらの味方なのです!」コチニールが叫んだ。
「理由はともかく、年寄りを応援したい気持ちだ、ははは。」老杉は、大口で笑ったとたん、風圧で頬がカエルのように膨らんだ。
数分後、ジェット機は雲海をすべりながら突き抜け急降下していった。 |
No.50
「俺は勘違いしていたのが判ったぜ。バカボンド。お前は根っからのナチ野郎だ!
アドルフが消えても変わらねえ!」ジンクルーパーがコチニールの胸ぐらを掴んで締め上げた。
「総統の遺産は、私が引き継ぐのだ…。」コチニールはジンクルーパーの股ぐらを蹴り上げた。
一度は後部座席の側に吹っ飛んだが、座席に掴まりながら、ジンクルーパーは再び間合いを詰めた。
「相変わらず、卑怯な手を使うな、バカボンド。
やっぱり、俺達の家族をナチに売ったのは、お前か?」
「関係ない話だ。ポパイ、あなたは総統の壮大なビジョンを髪の毛ほども知るまい…。」
「親父やお袋よりも大事なのか?ふざけるな!」
「ふふふ、何十年待った超科学の力がここに結集したのだぞ。なんなら、その古い石頭から毛を生やす事も可能だぞ。」
「ふん、毛はえ薬なら最初にあの髑髏ボールに振り掛けるんだな。」
「おいおい、悲しい事だが親戚のつまらない言い合いはともかく、パンチを決めたらどうだ?」ミスター老杉が口を挟んだ。
「あんた、いいこと言うね。」ニッカリしたジンクルーパーの、ボディブローがコチニールの腹にドカドカと入った。
風圧でか、ジェット機はオープンカーのように屋根が吹き飛んでいた。
気を失ったコチニール氏の他にジェットを操縦出来るものはいない…。
「…はは、まずかったな。」
ジンクルーパーは頭を掻いた。
無操縦のままジェット機は、ますます高度を下げて下界に突っ込んで行った。 |
No.51
旋回しながら高度を落とし、高度300m程になり、真正面にハッキリ見えてきたのはサッカースタジアムであった!?
何と云う事だ?サッカーコートでは、勝敗を賭けて、ブラジル側鐘突き鳥モカ・マタリのサドンデスのボールが蹴られようとしていた!
不時着寸前、意識を戻したコチニール氏は、逆噴射を掛けた!
超低空で進入したジェット機は、観客席フェンスをかすめ、ガーナゴールへと突進していた。
爆音と大歓声に、モカ・マタリは振り向いた…。
そこに信じられない光景が迫っていた。
物凄い猛煙を上げ、ジェット機がガーナゴールめがけスライディングしてきたのだ!
イスマエルらガーナ陣は、何が何だか判らないどさくさに、反射的に数個の小振りな光を弾き返した!
光の球はキックされると異様に加速して乱反射を繰り返し、急激に深夜の空間に解き放たれていった。
…ジェット機はゴールを突き破り、鼻先に乗せたままフェンス直前で止まった。
コチニール氏は操縦席から放心状態でその拡散する光りを仰いだままだった。
機内に伏せていたジンクルーパー氏は、ミスター老杉のシートベルトを外すと、老人二人して、ドアを開け、開いてしまった歪んだタラップを降りてきた。
そこに残る唯一の緑色に光るボールをステッキで外に転がした。
オーレ、オレオレオレー、we get the goale. we have the chance!
スタンディングウェーブの波とともに、避難が始まった。
おわり |