No.1 輝く海を前にして、巌は決意した。 「神も仏も無いと云うなら、俺はやる事が有る...。」 巌は19才になっていた。 ...祖父の源一郎が亡くなり今日で49日になる。巌は、誰一人頼るものも無い天涯孤独となった。 4年程前に、両親と、一つ下の妹を相次いで亡くし、巌は、神も仏も信じていなかった。 残された巌を引き取り、保護者となってくれてた祖父も、とうとう今、急ぐように旅立った。 その、祖父の骨を、海に撒きに来たのだった。 巌は、勢いよくその骨を海に突き出た突端からまき散らした。 軽いはずの灰は、まるで、ひとりの命がその一粒一粒に乗ったように、わっと広がると、海の重力に捕らえられ、一瞬で水中に消え果てた。 死の二日前、祖父は死の予感がしたのか、巌に言った。 「巌、お前は、人と違う星の下に生まれた。...苦労に満ちた星だ。 しかし、それは誰にも、なし得ない力も持っている...。 お前の行く末が心配だ。運命を恨むな、...くれぐれも人を恨んではならんぞ。」 |
No,2 洞門巌は、祖父の遺言に従ってその骨を、今日、海に散骨した。 その遺言書には、祖父の財産すべてを巌に残す事が記されていたのだ。 しかし、財産はその、朽ち果てそうな二階建ての家のみであった。 巌は、その家に一人ぽっちになった。 だが、しばらくしても、肉体のすべてが消滅したはずなのに、何処かに祖父が居る気配がある...。 朝などに、誰かが階下でカタコトと動き回る音がして、呼び起こされ目覚めるのだ。 縁側の丸テーブルにそのままにしてある、祖父愛用の赤い灰皿、其処に乗る象牙の吸い口パイプから、一筋の煙りが登ってる事もしばしばだった。 巌は、人は死んだら終わりだという考えは、間違っているような気がしてきた。 また、こんな事も在った。 祖父が亡くなると、借金取りが来て、金めの電化製品や家具は全て持っていかれ、家は何も無くなった。 巌は、いくらアルバイトをしていても、大学の学費の支払いにも困った。 ところが、祖父はまったく清貧の学者であったが、 天文のレンズ研摩に関しての幾つかの金にならないような特許を持っていた。 それが、祖父が亡くなると、しばらくして、イギリスの会社から、突然の手紙が来て、 その特許料だけで、相当な金額になることが分かったのだ。 |
No.3 巌は、明らかに何かの意志を感じたのだ。このようにせっぱつまると、どこからともなく恵まれる偶然というものをいぶかしく思うようになっていた。...何者かが...、自分のことを心配しているのだ! それに、死んだ祖父は、明らかに家に霊としてまだいる。 しかし、 何故それでは、両親も妹も、先に逝ってしまったのか...。ひとり自分だけが残された孤独。 巌が15才の時には、こんな事が自分にだけ起った悲しみの不公平を神仏に叫びたかった。 だが、その時も自分も死んでしまおう、とは思わなかった。 心が潰れるような悲しくつらい思いはしたが、不思議に、やけを起こし気持ちがねじくれた事はなかった。 それは、突然にやってきた!? JR吉祥寺南口を出た丸井の前の横断歩道でのことだ。 巌は信号が青になり駅に向かおうと歩き出した、と、向いの雑踏から肩まで抜きん出た身体が巌の目の前に立ちふさがった。 それは死神だった。 |
No.4 巌はぎょっとして、身体がすくんだ。 見上げたその黒い中世風の頭巾の中には、深い闇をたたえていた。 骨ばった手には大鎌を持ち、巌にはまったく目もくれず悠然としてすれ違ったのだ。 巌は、家に戻ると高熱で意識を無くしたように臥せった。 飲まず食わずで3日が過ぎた。 朦朧とした頭の中で、巌は自分にもとうとう死が訪れてきたと思ったが気持ちは冷静であった。 「キリル!キリルルル!キルルルル!」 3日目の朝、すぐ窓の側で鳥が聞いたことも無いような美しい声で鳴いているのがリアルに聞こえ目覚めた。 目覚めると身体の胸の位置に鎖で縛られていたような痕があった。 しかし、意識がはっきりしてくるに従って、その痕は消え、何故か生まれ変わったように身体が軽くなっている気がした。 その時から、巌の世界が一変した。 神も仏もないと思っていた者が、いきなり死神を見るとは...!? それも、あまりにもまがまがしい中世風の死神だ、巌は何かしらユーモアを感じて微笑んでしまった。 そして巌は、自分の悲しみや、不幸から、この世に“神も仏も無い”と云う勝手な判断をしていた自分を恥じた。 考えてみれば、死なない人はいない。誰でも、どんな人でも、いつか必ずこの世を去る時が来るのだ...。 ...死神というのは誰にも確実にやって来るのだった。 そう思うと、巌は気持ちがとても楽になった。そして自分が孤独だとは思えなくなった。 |
No.5 それにくわえ、亡くなったはずの祖父がいまだに其処に居るように感じられるのは、 自分の気のせいや、感覚が懐かしんでるだけじゃ無い事が自分にとって驚きだった。 生前、祖父は籐の背もたれのある椅子に深くもたれ掛かり、 象牙のパイプにピースの両切り煙草を着け燻らせていた。 祖父の死後も、午前のひととき、毎日きまったようにそのパイプから紫煙がスルリと立ち上るのだ。 ...死んだら終わりじゃ無いのだ!? しかし、自分の手であの海に撒いた灰は確かに祖父だった。 ...霊は、...霊界というものが在るのか? 存在というものが、自分の考えを遥かに超えてある事を思い、 巌は神妙な思いになった。 巌は声に出して聞いてみた。 「じいちゃん!?居るの!?」 声だけが、日溜まりの紫煙をくっきりさせた...。 返事はなかった。 |
No.6 祖父には研究の成果としての特許が幾つか在った。 その中の天文用レンズの研摩法についての研究がイギリスの カンパニーから引き合いがあり、祖父の死後、 その特許料で巌の当分の学費と生活費は賄われる事となった。 ...しかし、それだけではなかった...。 雑然と積み重ねられた資料やレンズなどの品々から、 あるレンズを巌はなにげなしに覗いた。 すると、驚くべき事を発見したのだ。 そのレンズは5、6センチ程の透明な、見かけは普通のものと何ら変わらない丸いレンズだった。 しかし、自分の手の周りには幾重にも光のスペクトルの層が見えるのだ。 掌の一番表面からは、ガスが吹き出すように実際にうごめいてるのが見えるのだ。 巌は急いで、窓からそのレンズを透して外の公園を覗いてみた、 すると立ち木には樹の種別ごとに違う光の束で溢れ、 森はそれらが統合されて生き物のように周囲が揺らめいている。 それはまるで、ゴッホの晩年作の絵の中の世界に居るようだった...。 「オーラ...レンズだ...。!?」 |
No.7 レンズを透して遠景の人物を眺めると、人の上にもう一段何やら人のかたちをしたようなものが見えるのだ...。 ちょうど、大人を肩車した程の頭の位置に近いのだが、そこに玉のようなものが浮いている人もいる。 それが、それぞれに形や色合いが違うのだ。 凹んだり、ピカピカ透明のアクリル面のようになっていたり、 またブチになっていたりするのもあれば、焼け焦げた様に穴があいてしまったようなのもありさまざまなのだ! なかでも、内容は分からないがお喋りしながら歩く二人の婦人の頭上に、 赤やオレンジ色のネオンサインが賑やかに走るのが見えたりした。 また、手をつなぎあう中年夫婦が歩いてきたが、頭上でもX型に交差する湯気のようなものが見える...。 巌は今の今まで、人の見かけの大きさなど気を配った事が無かったが、 ほぼほとんどの人が、人のかたちのような非実体を身体の上に積み重ねており、 人の動きと連動しているのが実に不思議で、公園を通る人々を飽く事なく見続けた。 |
No.8 祖父の残した資料の中に、メモ書き風に書かれたノートが十数冊有った。 そこに、例のレンズを透して見た図とよく似てる絵のページがあった。 「オーラ」が見えるままに描かれたものの古文献の写しようであった。 ページをめくると、それはまるで世界の精霊や、聖なる像のオンパレードであった。 それに続いて、西アフリカの仮面と美術に伴う精霊とオーラの解説のようなページが続いた。 またその中で、とくに注目すべきは、「聖なる呪術師」と書かれているページで 人物の頭上に星のようなものが描かれている。 そこには“天頂の星”と書き込みが記されてあった。 以下は訳の分からない図像と書き込みでいっぱいだった。 その横の書き込みに、 「この星を持つ人物は稀である。天頂に宵の明星の輝きを有する。 ...その輝きのあらゆる移動とコントロールを行えるのが聖なる呪術師である。」 と赤字で書き込みが在った。 また別のノートには、人体の径絡とツボの図解、解剖図など、 それに呼応する人体型のオーラがびっしりと書き込まれたものも在った。 別ノートには天体と惑星運行図、他に歴史上の人物のホロスコープなどが処狭しと描かれ、 それぞれにオーラの特徴が細かく記されているようで、 その場で見ただけではとても巌にも分かるものではなかった。 |
No.9 巌は興味にまかせて、そのレンズであらゆるものを見続けた。 それは普通に“見える”事柄の理解を根底から揺るがすものであった。 人の身体内部にも、身体に重なるように光のスペクトル状の塊が在るのが見え、 色の具合や亀裂や形の畏縮などで、はっきりと身体の具合の悪い部分が変調しているのが分かるのだ。 しかし、...それより何より恐ろしい事が巌の目に見え始めた。 ...それは病院だった。 レンズを透して建物自体が朦朧とした状態にあるようなような、歪んだ湯気の中に在るのだ。 ある場所では、何も無い処に黒い影や、巨大な霧のようなものが其処此処にうごめき、 その暗黒の影が人のオーラを変型させたり締め上げたりして干渉するのだ。 その影に襲われた人は、苦痛を受けたり、不安に苦しんだり、痛みをおぼえたり、はては病状が急変したりしている。 巌ははじめ、自分の気のせいに思えた。 黒いマイナスの存在のように、朦朧とした其処だけ無い影のように見えるのだった。 巌にはそれが何であるか分からなかった。 しかし病状が急変した患者の上に、その影が二三体見えた時に突如として患者の首を締め上げる「そいつ」と目が合ったのだ。 |
No.10 小柄で餓鬼のような風体だが目つきは鋭く、 ギュウギュウと患者の首の辺を締め上げていたが、巌を見るや何処かに消え去った。 レンズを透して見ると、病状に苦しむ人は赤や黒のヘドロのような塊が周囲に噴出していた。 また、湯気のようにそのベットのある空間を歪ませるのは、 不安を抱え苦しんで亡くなった人の残留思念のようであった。 それらの負のエネルギー場に、首を括り死んだ自殺者の浮かばれぬ魂や、 何百年も前の落武者の姿をした餓鬼のような者、防空頭巾の女の顔が、 瞬時にかわるがわる顔を出してはかき消えていくのだ。 巌は病気と言うものの原因を直接覗いてしまったような気がした。 |
No.11 巌は気持ちが悪くなった。 「このレンズで見える世界はいったい何事なのだろう...。 ...オーラがこうして見えると言う事は、異次元の波動も見えてしまっている事なのだろうか...? ...じつは現実の世界は異次元が積み重なっているのではないのか...?」 この事で巌は、若者らしい素朴な自分の世界観を、根底から揺すられ続けた。 好奇心が止められない反面、気楽にラーメン屋すら行けなくなってしまった。 レンズを覗いて確かめない事には、外を歩く事もできない始末となってしまった。 祖父が、レンズの事を自分には一言も言わなかったのが理解できる気がした。 その後まもなく巌は、見掛けの物事がそのままにはどうしても受け取れず、 目の前に今見えているものすらまったく信用できなくなり、 果ては家に引きこもってしまった。 |
No.12 巌はこのままでは自分はダメになってしまうと思った。 ある夕方、ふと閉め切った二階の窓から公園の方を眺めると、 こちらの方に強烈に照射される紫色と金色の光線が感じられた。 それはもちろん、肉眼での事であった。 巌は勇気をふりしぼって外に出た。レンズはその場に残した。 すぐその光が見えた場所に行ってみたが、何事も無かった。 巌は、やはりレンズを持ってくればよかったと後悔した。 振り返りざま、金髪の長身の若者がにこやかに其処に立っていた。 男のようだが、ユニセックス風で目の覚める程の美しさだった。 巌はしばらく茫然と突っ立ったままになった。 |
No.13 「私の合図は届いたようですね、イワオ...。 必ず来ると思いました。 私の名はオルグです。 あなたのことは、ずっと以前から知ってます。」 この声...。コントラバスを奏でているような滑らかでハスキーな声...。 何処かで遭ったことがある、...懐かしさに巌の心はあふれた。 ...しかし、よくよく思いを廻らせても今までに遭った記憶が無いのだ!? 「オルグ...さん。 あなたは、...僕のことをご存知のようですが、 僕はあなたと遭ったことがどうしても思い出せません...。 とっても懐かしい気持ちがするのですが...。 ...いったいどうなってるんだろう...。 オドロキですが、十九にして早くも脳の老化が始まっているのでしょうか?! ...ごめんなさい。」 |
No.14 「ふふ、イワオ、それは無理も無いことです。 今生では、あなたに初めて遭うのですから...。 通常では理解不能でしょうが、 私は、あなたとはあなたの前世で一緒に仕事をしてきました。 私達は太陽系を離れること230万光年の、M31のある星で出会いました。 “メデューサ”との戦いであなたは殺され、ここに転生したのです。 私はあなたが再び“戦士”として戦えるまで待っていました。 今、その時が来たのです。」 |
No.15 オルグは、暮れてゆく西の空間に合図を送るように目配せをした。 すると、遥か上空から金色に光り輝く物体が現れると、一瞬ゆらぐように見えて飛行したかどうか分からぬうちに、 目の前にその乗り物は入り口を開けていた。 「きっとこれの方がイワオには馴染みやすい...。」そう言うとオルグはいたずらっぽく微笑んだ。 全体が眩く金色に輝く物体は、軽自動車の車体になった。 グリーンとクリーム色のツートンカラーのクラシカルなワンボックスカーが、 ドアをいっぱいに開けていた。 「うわ!?...ほんとですか?」 オルグと巌は、そそくさとその「クラシック」に乗込んだ。 運転する長身を屈めたオルグのシルエットは美しいと同時に滑稽だった。 その深いウルトラマリン色の背景に金星が輝いていた。 「ドライブしながら話そう。」 |
No.16 車は、桜並木の続くまっすぐの街道を金星を追いながら走った。 「この星は美しい...。 僕らの居たアンドロメダにもこんなに美しい星はなかったよ。 それに液体の水は得難いものだ、...それがこの星にはこれほど溢れている...。 この星の人間は、ほんとうには気づいてないが、...次元を超えて“水”は大切なものだ、 どんな地下資源や鉱物資源にもまして、自然に作り出された“水”には途方もない価値が在る。 そのために、この星の生とし生きるものすべてがそのサイクルに在って、全存在的、霊的な価値が在る。 異次元に在る者にもそれは言える...。 「メデューサ」はその霊的なパワーの根源として、“水”の霊的なパワーを狂おしいほど欲しがっている。 水に渇く者の様に、手段を選ばないのだ...。」オルグは前を見たまま顔を動かさず、淡々と言った。 巌は「メデューサ」と言う響きに、何故か身体の芯が震えた。 |
No.17 巌は、ふと気が付くと、ひとり明け方のゲームセンターに居た。 うすら青い亡霊のようにビルや並木が立つのがドアごしに見え始めていた。 夜のマリーナに車を止めて、なにかオルグと話をしていた事がぼぅっと思い出されたが、 その後の記憶がはっきりしない...。 「ガシャーン」、手許に残った一枚のコインを入れてスロットルを引くと、 そこに“黄金の杯”が横一線にきれいに並んだ。 ゲームセンターの外に出ると、そこは渋谷に近い青山の246沿いだったことが知れた。 |
No.18 巌は、ひとり水底を泳ぐ魚のようにふらふらと歩いた。 歩きながら、今までのすべてをやり直さなければと思った。 自分が平凡に生きて、自分の生を全うすればそれでイイと自分の暗黙の了解をしていた、 そう思うその自分が、今「ふっ」と歩みをふいに遅めたため、 フェイントをくらって何処かに居なくなったのに気付いたのだ。 自分とは何なのだ!?その個人意識とは何なのだろう!? 自然の中に“一”を切り出す事がどれほどの意味が有るのだろうか? ...そのような事が、みるみると渦を巻いて巌に押し寄せて来た。 突然として、巌の概念は融解して色と形とスピードを持った。 あのレンズを透して見た世界は、巌に強いショックを与えたが、 今は、もっと感覚的な変革が巌のすべてにやってきた。 本来のやさしさに包まれた感じで、あらゆる感応を可能にする感じだ。 記号は統合され、フレーズがつながり、そのままが感覚になり、触覚になり、景色になった。 |
No.19 「...自分を超えて行動する。」 巌には、これこそが今やるべきことに思えた。 明るくなりかけた渋谷の街のケバケバしいネオンサインが、 その決意を知り、狂ったように笑った。 |
No.20 巌は駅に渡る歩道の寸前に、突然二人の女子高生風なガングロ少女に挟まれた。 「ちょっと兄さん待ちな。私ら困ってるんだよ。かえりの電車賃かしてよ。」 ビニール人形のような顔がガムをくちゃくちゃさせながら言った。 「...何処まで帰るの?」巌は聞いた。 「あのさ、関係ないよ!、...黙ってさ、ここに出しなよ。出さないと騒ぐよ! あんた、私らと援助交際したこと、喚き散らすよ。」 「え?そんなことしてないでしょ!?僕は...。」 巌はどうしたものか、おどおどした。 すると、一人がスカートのポケットからアーミーナイフを取り出し、こっそり開いた。 「るすぇんだよ!黙って早くだしな。」 |
No.21 今までの巌なら、言われるままに金を渡していたかもしれなかった...。 しかし、突然として巌の胸の内から勇気が涌いてきた。 「き、君らに上げる金など無い!」 巌は一転してきっぱりと言い放った。 「みそしるでそのふざけた顔洗って出直してきたらどうだ!」 自分で不思議なほど言葉が出た。 「!...るせえ!」 少女のナイフがサッと空を切った。 巌の頬をかすめて血が飛び散った。 と、同時に、少女らは、咄嗟に脇の赤信号を無視して走って逃げた。 |
No.22 田之宮テスラ博士は巌の祖父の古い友人だった。 以前に巌は、母が日本人で、父がスロバキア人だと聞いた事があった。 小柄だが背筋がぴんと伸び、一歩一歩しっかり踏みしめるようなゆっくりした足取りで、 祖父の亡くなった後も、ときどき巌の家にやってきた。 巌の祖父よりも二つばかり上であった。 その風貌はと言えば、鶏を思わせる赤ら顔に、青いつるりとした眉毛は人間離れしていた。 それは、若い頃に入れ墨を入れた後だと聞いたことが有る。 また、ときに気分によっっては、音程の外れたバイオリンでモーツアルトを弾き、 祖父も巌もそれを楽しんだものだ。 田之宮テスラ博士は、時間と次元に関する研究に没頭していたが、 具体的に何の研究をしているのかはさっぱり分からず、 若者の興味本位から巌が聞いても、いつもはぐらかされた。 その田之宮テスラ博士が、この昼に突然やってきて、不思議な事を巌に告げた。 「やあ!まもなく、まもなくだ!ワシのバイオリンも聞けなくなるとは寂しいね、イワオ君よ!」 |
No.23 「きみはもう直、出発らしいなあ...。 何ね、昨日の晩、ラジオが喋ったんだ。 ちょうど昨日の晩にカザルスのバッハの無伴奏やっててね、 それで腕枕でうつらうつらして聞いていたんだ。...最初は空耳かと思ったよ...。 すると、ワシのラジオがこんな事を喋りおったのだ。 “イワオ君はそろそろ出発の時刻になりました。テスラ博士、どうぞイワオ君に伝えて下さい。 明日の昼12時半きっかりにイワオ君ちに迎えの者が伺います、どうかレンズは持たないで下さい。 ...JOQR、今日の放送はこれで終わりです。”...とね。」 テスラ博士は、バイオリンを少し破れのあるケースからゆっくりと出し、 そして、息を思いきり吸い込んで“別れの曲”を、感情を込めてものすごくゆっくりと弾き始めた。 |
No.24 12時半きっかり、玄関のドアが叩かれた。 巌が開けてみると、そこに一枚の黒い板が立っていた!? 「おお、イワオ、驚かないで下さい! イワオを迎えに来ました者です。オレはただの黒塀です。... テスラ博士もご一緒にとのことです。」 立て板に水のごとく、とは行かないが、板が言葉を喋ったのだ。 「...うええっ!?」巌は黒塀を見上げるように言った。 「げはははは、おもしろい、ワシも同行か!?」テスラ博士がつるつるの眉毛を釣り上げて言った。 その時開いたドアの間から、どうっ、と恐ろしく強い風が吹き抜けた。 |
No.25 その途端に、巌とテスラ博士は、脚をすくわれたように前方に倒れ込んだ。 すかさず、黒塀はにょにょっと伸びて二人を救い取り、すいっーと舞い上がった。 巌とテスラ博士は、ぐるんと一回転したかっこうで、黒塀に乗った。 「ひょう!これは愉快だ!イワオ君、君の家が真下に見えるぞ。」 テスラ博士が燕尾服の裾をはためかせ、言った。 じょじょに、よく知った町並みの上を擦るように上昇し、 樹々の頂上を、まるで風の塊になったように勢い良く吹き抜けた。 それからも、黒塀は、低空をグライダーように風の道に乗り飛行し、 一路、富士の樹海まで飛行してきた。 |
No.26 いつの間にか、真正面にドーンと富士山が現れた! 「おお、!なんとリッパな富士山だ!」テスラ博士が怒鳴った。 「でやんしょう!?...いつ見てもほれぼれしますです。」 巌の目が何かを探した。さいしょ黒塀が言ったのか、風が喋ったのか分からなかったのだ。 黒々とした樹海の絨毯の中に富士五湖の一つがキラキラと見えた。 「これから、私どもの世界に入りまするです!」黒塀が早口に言った。 二人を乗せた黒塀は、みるみる樹海すれすれに高度を落とし、樹木の梢を滑るように、 ポッカリと空いた明るい空間にするりと降りた。 |
No.27 そこは異界への入り口であった。 黒塀が、するするすると伸びると、なんとその上を歩かずとも進む事が出来た。 「ほうー!、まるで動く歩道だね。こりゃ年寄りに親切だ。 らくちん、らくちん。」テスラ博士が言った。 うまく邪魔物を避け、その伸びる木道は、樹海の中を難無く奥へ進んだ。 しばらくして、比較的大きな風穴の一つにするするっと入った。 ひんやりした空気を浴びた途端、地の底から響くような咆哮に洗礼を受け、 二人は度胆を抜かれた。 「何の声でしょう!?」巌が言った。 暗闇に何か大きな猛獣がいる気配だ!? その闇には、5つの眼が光っていた。 「わからんが、凄いな!、...気をつけろ!イワオくん。」テスラ博士は背を低くして身構えた。 怖じけづいた気配に、再び猛烈にこちらに向かって3つの声が吠えかかった。 黒塀も怖じけづいて、固着したままだ。 「...頭が3つ在るのか?」巌は素早くレンズでそこを見た。 そこには鎖で繋がれてこそはいるが、上半身が3つに割れた小山程もある猛獣が、威嚇していた。 美しい毛並みを揺らして威嚇する姿は圧巻だった。 「虎、...か?」 レンズはその美しい光の流れの首筋に、紫色の凹みのようなポイントが有るのをはっきり見せた。 「...あそこの凹みを押せ!」 何者かの声が、巌の背後からした!? |
No.28 「じいちゃんだ...。」巌は一瞬にして理解した。 「あそこが、特異集合点なんじゃ。そこを叩いて点を移動させると、ネコのように大人しくなる...。 ...あの紫の点じゃ!」声で無い声が心の中で響いた。 紫色の凹みは、肉眼では見えない。 3つの虎の頭の、真中、...その虎は右の片目が無かった。 その隻眼の虎の、右顎のすぐ横下あたり、肩から首筋にかけてのポイントを叩く...!? ...巌にはほとんど無理のように思えた。 しかし、それ以外に、この先の生存はおろか、逃げる事も出来ないかも知れない。 ...見極められたのはレンズのおかげだった...。 咄嗟に閃いたが、...でも、確かに出かける時には、レンズはポケットに無かったはずだ!? ...やっぱり、じいちゃんだ!?...。 そう思った時、あの渋谷での事件が心をよぎった! 胸に何かが充填されて、突然とてつもない勇気が爆発するように涌いてきた。 その時、テスラ博士は思いもよらない行動に出ていた!? |
No.29 持っていたケースをおもむろに開け、バイオリンを弾き始めたのだ。 それも極東アジア風な流麗なメロディだった。 何故かそれは「江差追分」を彷佛とさせる節回しで、不思議な違和感だったが、 いきなり場面を切り替えられた役者のように、虎は沈静化して、何か音楽に聞き入る仕種をした。 「今しか無い!」巌は覚悟を決めた。 巌は、音と同体になり、ごくゆっくりと虎に近づいた。 間近で見る虎の右目は、えぐれるように潰れていた...。 ますます近づくと、虎の顔は想像を絶する大きさで、 テスラ博士のバイオリンに集中して、強く鼻息を出していた。 その勢いを顔じゅうに浴び、巌の手が、深々と美しい毛並みを超えて首筋のポイントをゆっくりと押した...。 |
No.30 「拙者、雁笠剣四郎と申す者でござる。 今、このように元の人間の姿に戻る事が出来、真にかたじけない次第にござる。」 虎は消え、凛々しい隻眼の若侍が其処に立っていた。 浅い紫色の袴に薄黄色の着物、黒の羽織りには飛ぶ雁と菅笠が美しく抜きで入っていた。 「いったいどのような因果で、虎となってしまわれたのだ?」テスラ博士が聞いた。 「実は、私は剣の道をこころざし、諸国を修行行脚いたしておりました。 しかし、著名な剣士、師範も、実際に手合せ致してみると、 私に一つの負けもありませんでした。 さらなるあらゆる強者、剣豪を探し求めるうちに、 はずかしながら、己にかなう者が無い事に慢心、自惚れてしまいました。 この地に及び、桜の大樹の下に、通りかかる者をつぎぎに襲い、己の腕を試しているうちに、 気づくと己の全身が虎の姿に変わり、 己のからだが、“勝ち負け”と、“慢心”と“疑心”との、 三つに割れてしまったのです。 |
No.31 「なるほど、虎となってしまわれた訳じゃな...。 無敵となればなるほど、人のこころを失う事となったのか...。 ...雁笠どの。」テスラ博士が言った。 「はい、して、あなたの妙なる音楽に、急にこころがほぐれ、うつらうつらといたしました。 そのとき、首筋に何か一撃を感じました。 すると不思議にも、その一瞬間に、自分が蝶になり、 はたはたと舞飛びながらの蝶の一生を過ごしたのです...。」 「ほほう..。」テスラ博士が返した。 「初夏の、かがやく清明の野山を、上に下にはたはたと舞う飛行は、 それはそれは、楽しく、なんとも驚くほどの優雅な気分でありました。 味わったことの無い、命の輝きに満ちた気持ちがしました。 私はそこで、すべて果てても、悔いはありませんでした。」 「そんな短い間に...!?」巌が言った。 「はい。 明日をも知れない蝶の身、またすぐにも死を迎える弱々しくあわれな生にせよ、 それは何か、まことに真実の一撃でありました。 はっ、と我に戻った途端、一瞬のうちに“勝ち負け”に始終する己がはずかしく思えました。 まことに巌どのの一撃で、正悟した次第です。」 |
No.32 稀しくも雁笠剣四郎を加えた、テスラ博士、巌、の三人を乗せた黒塀は、 富士樹海風穴の、異界への入り口を後にし、さらにその奥へと向かった。 鬱蒼とした原始の森の中を、板は、にょ、にょ、にょっ、と、地を這うように自在に走った。 突如、見なれぬ巨大な半透明な物体が浮遊する見たこともない空間をも、 突き抜けるように滑り抜けて行った。 「あ、!?まもなく、インセクトラインですよ!?ここは気をつけて下さい!」黒塀が言った。 「インセクトライン!?」巌が叫んだ。 「..そうですね、...決まった固有のリズムを持つ、いろんな虫達の棲息する処です。 ?!、うわ!?」 |
No.33 巌達の頭上を、何かが高速でホバリングしていた。 3メートルもある銀ヤンマだ! クロームメッキの様に磨き抜かれた二つの複眼に、 周囲の景色が正確に映し込まれている。 目玉がゆっくりと、巌の顔の前まで接近してきた。 好奇心のかたまりのように見つめ、そこでホバリングしていたかとおもうと、 サッと上空に遠のいていった。 「やつらは、心のリズムに敏感だよ。」テスラ博士が言った。 「心の、...リズム!?」巌が言った。 「いわば振動数だね。固有の振動数で、高い周波数には興味はない。 低い波動のリズムを、餌として感知するのじゃ。」 |
No.34 「やつらそのものも、ワシらが知ってる昆虫というよりも、どうも振動とリズムで出来ているようじゃな。 話は、難しくなるが、ワシは、先ほどの巨大銀ヤンマは基本的には4の倍数に感知しておるよう思う。 が、...きっと、もっとも好きなのは、3で作られた4じゃ。」テスラ博士が言った。 「何です?その3で作られた4って?博士。」巌が言った。 「つまり、3連符のことだ。 4枚の羽根は実際、ブブブ、と3連符の動きを1単位にして動いておるようじゃぞ! その組み合わせが、自在な飛行を可能にしておる。」テスラ博士が、眉を大きく釣り上げ言った。 「あ、!?そうしてみると、こちらにやってくる、化け物のように大きいカミキリムシ、 あの歩きは6ですね、...それもきっと3+2...。」 「うむ、?足の数は6本じゃ。 しかし...それでは5だぞ?」 「いえ、最初の3は、3連符として見なします。 後の2は、3連符の裏拍で、あたまの無い3、 つまりは2です。」 「むっ、...おもしろい...。」 カミキリムシの動きに注視していた雁笠剣四郎が、すらりと太刀を抜いた。 「私は、その6に好まれたようだ...。」 |
No.35 カミキリムシの歩行の動きは、ゆっくりに見えて速く、 表現しようのないダイナミックさで、あっという間に雁笠剣四郎のすぐ目の前までやってきた。 鋭い牙のような口で、剣四郎を捕食しようとした巨大なカミキリムシの頭が、 いきなり転げ落ちた!? キラリ、と何かが輝いた...。 剣四郎の太刀は、すでに背負った太刀の鞘に収まろうとしていた。 巌には、その間の、時間が消失した気がした。 頭のないままのカミキリムシは、ゆうゆうと走り去ろうとして、 しばらく走ると、今やっと、己の何事かを悟ったようにその場に崩れ落ちた...。 |
No.36 「む、なるほど、みごとなお手並みじゃ!しかし、ここは長居は無用のようじゃ...。」テスラ博士が言った。 カミキリムシの頭が転がる周囲には、早くも無数の兵隊蟻の伝令達が走っていた。 「もうしばらくもすると、蟻の大軍がおしよせ、大変なことになるかも知れん。」テスラ博士は指で青い眉をこすり上げ言った。 「...何か、...得体の知れない殺気がいたします...。」剣四郎は上空の気をうかがうように言った。 「うわ、見て!?...黒い流れがこっちに!?...蟻の大軍だ!?」巌が振り向くと、もう逃げ場がないほどに蟻が迫っていた。 「撤収します!」 巌たちをすばやく乗せると、 黒塀は、間一髪、ニョニョっと伸びきりスピードを増した。 |
No.37 「アーアー、聞こえますか!?聞こえますか!?こちらはラジオブルキナ放送です。 蟻というのは昆虫の意識のフォーカススペクトルエリアでは、“3”です。 フォーカススペクトルエリア3と言うのは、 “個の意識は持たないが、集団の意識のみがある”状況です。 私達からのコントロールはぜんぜん利きませんよ。 なので全国的に注意が必要です! 巌さん...、聞いていたら、このバンドのチューニングを維持するようお願いします。 ...以上ラジオブルキナのシサラがお伝えしました。....」 ...巌の懐のレンズが突然喋り始めたのだ!? |
No.38 巌は、考え込んでしまった。 何よりも不思議なのは、レンズからラジオ放送が聞こえる事だった?! ...いったい、このラジオ放送は何なのだろう? 自分の出来事を逐次把握している、ラジオ放送とは? しかも、ブルキナとは、ブルキナファソの事か?...アフリカの内陸の国だ。 それに、巌は、そんな地方にまったく心当たりが無かった。 「とにかく、シサラ、...さん?、 ...分かりました、このバンドは維持します。 でも、何故こんな事が可能なのでしょう? 今、ここの何処から生放送をされてるのですか? 」 すると、突然レンズの奥深いところから、木琴の不気味な響きが空間に充ちてきた。 |
No.39 「...助けて...。」 アフリカ木琴の音に混じって、何か違う、声のようなものが聞こえて来る? 「ん!? 別のバンドが混線してきたのかな? ...あ、うっかりしてた!? ...チューニングはどうやって維持したらいいのだろう?...このままでいいのだろうか?」 巌は不安になった。すると、またレンズから別の声が聞こえてきた。 「誰か、助けて...。わたしを助けて...。」 その声は、今度ははっきりと聞き取れた。 巌は、握っていたレンズを掌に開いて、おそるおそる覗き込んだ。 「...あっ!?」 |
No.40 レンズの暗い空間の広がりに、十字架が在った!? ...そこには何者かが磔にされていた...。 こちらに顔を上げて見るようなそぶりをした。 振り乱した髪の間から、おおきな眼がのぞいた...。 その顔は、青白いが美しく整った若い男だった。 ところが!?...見る間に、 髪の中から半分覗く美しい横顔が、痩せ細って白くミイラ化していった。 肉体は身をよじりかけて止まり、衣服もボロ布のように風化し、 もうずっと以前にこのまま放置されたかの様であった。 それにダブるように白い半透明の彼の霊体が、抜け出てこちらに語りかけているのだった。 「助けて...。」 思わず、巌はかたずを呑んだ。 「助けて下さい...。わたしを此処から助けて。」 男の霊体がレンズの中から訴えた。 「おきのどくに、直ぐに下ろしてあげたいけど、そこは何処ですか?」 「刑場です。鈴が森の刑場です...。」 「...これは大変だぞ、イワオくん。われわれは、どうやら飛んでもない所に来てしまったかも知れんぞ。」 テスラ博士が言った。 |
No.41 「鈴が森の刑場!?」 その言葉が終わらぬうちに、巌は自分の眼をきつく擦った? ...巌の直前に、磔のミイラ化した男が崩れ落ちてきたのだ。 「うわ!?」 “鈴が森の刑場”というターゲットに、現実が瞬時に到着してしまったのだ...!? 「こ、これは...、どうした事だ!?場所のへだたりというものが、まったく無視されておるぞ!?」 テスラ博士が大声で言った。 「...つぎつぎと、まるで、チューニングが壊れたラジオのようだぞ...。 これは我々の持つ意識バンドが、変質し始めた証拠だ。」テスラ博士が続けた。 「...意識バンドが変質すると、どうなります?」剣四郎が、眼を、ある一点に据えて言った。 「あっ?...あの黒い穴は何!?」巌が同時に言った。 突然、目の前の空間がほころび裂けると、渦がグルリと回り、其処に穴がのぞいた。 |
No.42 「ボンジュール!イワオ。わたしはシサラです、 皆さん、お会いしたかったデス!」 穴から、ストライプの背広をおしゃれに着こなした黒人が、 元気に手を振りながらこちらに脚を大きく振り上げて出てきた。 「ハイハイ、“ラジオブルキナが、どうして?”と思ってる? ...とーっても不思議ですが、 この際、気にしーないで下さい。このような事も、有り得るのデス。」 シサラは流暢な言葉で喋った。 「現在、鈴が森の刑場に、得体の知れない連中が集まっている...。 ...意識バンドが変質すると、...このとおりじゃ...。剣四郎どの。」 テスラ博士が、わざと眉をそびやかして言った。 「イワオ、あなたの事は放送で知ってますよ。」シサラが言った。 「え?...放送!?」巌は思ってもいない事に驚いた。 「そう、ラジオブルキナでの人気番組ですよ、イワオは。」 シサラは、妙にポーズを付け、振り返って言った。 |
No.43 鈴が森刑場では、訳の分からぬ同士の突然のはち合わせに、 事態は、騒然となっていた。 巌らは、それぞれ手に鉄棒や鎖を持った十人ばかりの男達に、グルリと取り囲まれていた。 その中でもとりわけ、命などいらないという風な男が、剣四郎の胸ぐらを掴んで言った。 「何じゃ!?てめえらは?...そこに曝された磔者の知り合いか? そいつは、世直しを叫んで、お上からお仕置を食らったバカな聖人様だよ。 みせしめにカンピンタンになっても、埋葬もをゆるされねえ。 ...おめえは何者だ?」 剣四郎は無言で腕を払いのけた。 |
No.44 その直後、刑場前は予想外の大乱闘となった。 二十人近い男が、まるでバカバカしい程のどたばたで、土煙にまみれた。 剣四郎の強さに負けず劣らず、シサラの空手チョップに、バックドロップ。 巌の空気投げ。 黒塀のテンプルパンチ テスラ博士のヘッドロックと吹き矢。 その大乱闘もしばらくすると、先が見えてきた。 そこに一人の男が仲裁に入ってきた。 「おうおう!お若けえの!お待ちやせーやし!」 その気に乗じて形勢を欠いた男達は、蜘蛛の子を散らすように、へっぴり腰で逃げ去った。 「へ!久々の喧嘩で、こう、なんてゆうか、すっきりしたぞ!」 テスラ博士が、その背中どもに向かって怒鳴った。 |
No.45 「わははは、おいおい、負け犬がしっぽ巻いて逃げたな! 強いね!独眼流のお侍、あんたは、六尺はある狂犬のような男どもを、あっと、続け技に投げ飛ばした。 しかし、吹き矢とは!そこの御老体もしゃれてる...。 オレが、駕篭の隙から見てて数奇で仲裁に入らなきゃ、やつら、どーなっていたもんだか分かりゃしねえ...。 もっともオレも、あまりの見事さに黙っておれなくなって、つい、うきうき出てきちまったが...。 オレかい?オレは、品川は万松院東海寺の、通称、“梅干茶頭家”っ云う喧嘩坊主だ。 ああ、あの沢庵和尚は、俺の師匠だよ。」 |
No.46 剣四郎は梅干茶頭家和尚に、一黙礼した。 「沢庵に梅干茶漬け...、これは、おいしい!!おいしい!!なかなかです。」シサラが言った。 「おや、バテレンの黒い人、あんたもすみにおけないね。オレの家来て飯でも食うか?」和尚が言った。 巌は、十字架からそのミイラ化した身体を、丁寧に抱き起こして言った。 「...僕に助けを求めていたのは、この彼です。」 「して、梅干茶頭家殿、ここに処刑され、曝されておるのは、何者です?」テスラ博士が言った。 |
No.47 「天草四郎だよ。実は島原の乱で死んじゃいないのさ。 ...ここ江戸まで永い逃亡生活の上逃げ延びたのよ。 オレのところでも、最後の半年ほど、匿ったよ。 イイ男というのはいるが、こう、スッとした立ち姿だ! それに、真直に顔を見れば歌舞伎役者もかなわねえほどの 器量は噂どうりだったよ。怪しく、坊主のオレでも、見とれてしまうような始末だあな。 それに増してどうだ!心根はやさしいくピュア!ときている...。 ところが、つまらぬ喧嘩から正体をつかまれお縄になった。 自ら“天草四郎”を名乗ったのだがね...。 島原は...もはや、反抗する民は誰もいねえ...、ひでえことに島原はすべて皆殺しだあな...。 そんな訳で、お上ではすでに“天草四郎”は島原の乱で獄門に付しておる、...と。 そんな分けさ。 まったく素性をつまびらかにせずに、こうして逆賊として秘密裏に磔の上、四十九日も曝されておる...。」 |
No.48 「ひえー。ほんとうですか!?」巌が叫んだ。 見る間にミイラ化した骸から霊魂が抜け出て、若く凛々しいバテレン姿が晴天の中空に止まった。 その見上げる、穢れない天使のような顔立ちは息をのむ美しさであった。 巌は“天草四郎殉教”の虜になりそうになった。 「わたしを磔悌から下ろしていただき呪縛が解け、どんなにか楽になりました。 どなたか存ぜぬがこのたびはありがとうございました。この御恩は忘れませぬ。 ...和尚、これでわたしも思いを残さずにあちらに行く事ができます。」 紫の衣装をゆるくはためかせ、天草四郎は微笑みを浮かべた。 序々に金色の輝きがいや増し、まぶしさに、誰からも見えなくなっていった。 |
No.49 「ちょっと、待って!」シサラが大声で引き止めた。 「これは放送されてます。ライブ放送です!すごい!すごい! 天草四郎さん!あなたは何処に行かれるのです!? とても美しい場面です! OK!行く先は天国ですか!?」 「おいオメエ!シサラさんとやら、だまって見守りな!野暮はよしだ。 外国のお人はこれだから、かなわねえ! 何処に行こうが、今、昇天してるじゃねえか! 言うなりゃ、最高のイイとこなんだからな!」梅干茶頭家和尚がシサラを怒鳴りつけた。 「はい、すみません!しかしこんな凄い...!ブロードキャストの使命も捨て切れません!」 「...おや、言うね、この男も。」和尚が、にんまりシサラを見た。 |
No.50 完全にテスラ博士は、“天草四郎殉教”の虜となっていた。 科学から、宗旨替えの勢いだった。 「イワオくん!僕は七十数歳の人生の終盤に入ろうとする辺りに於いて、 何とも感動的な場面に居合わせる事となったぞ。 いや!ホントーに感動的だ! 魂は、やはり永遠だ! ...どのような非情の苦しみも、残酷な刑死も、この良き魂を葬り去る事は出来ない! 真理をひた隠し、無きものとすることは、人間には出来ないのだ。 真実を生きる心には、必ずや大きな救済が来るぞ!! 大いなる正義と自由は、葬り去られる事はない!」 テスラ博士は骸の前にひざまずき、“天草四郎殉教”の天空をのけ反るように仰ぎ、 ほとんど独り言のように、つぶやくように言ったのだ。 |
No.51 「俺はヤツの最後をかくまった。 天草四郎も、元は一人の男さ。 ...ああ、このキレイな顔立ちは、スタアさ! その上、凛々しい立ち姿、頭も切れる。 いつも周りはパーっと華が咲いたようだった...。 スタアってのは、自分でどうだとか、ああだとかのものじゃねえ...。 周りがそうやって、嫌がおうでも祭り上げるんだ...。 最後にヤツは分かって自分を捨てたんだよ...。 島原の乱は、...、一代の立ち回りだった。 待ち焦がれていたんだ、みんな。 踏みにじられて蹴散らされて、 徹底して搾取された弱い者らは一丸になったよ、島原は熱狂の叛旗さ。 そうやって狂乱は、やがて多勢に無勢の皆殺しの狂気に変わっていったよ。 やればやるほど、やられればやられるほど、救世主を待ち焦がれたんだ、誰も喜んで死に加わった。 そのとき、ヤツには死の花道しか残されてなかった。 ...もうスタアには悲劇の殉教しかねえ...。 ...みんな喜んで死んで天国に行くんだ...。 ...しかし、そうは問屋が降ろさねえや。 ヤツは島原で、ここは最後という土壇場に、 おのれも思いもかけずこの“スタア殉教”を踏みとどまった...。 間際、死の顔を深々と覗き込み、死に見放されちまった。 其処で死ねば、そのまま完全なスタアだが、 心の何処かが、己に納得出来ずに、敢然と頭を擡げたんだよ。 煌々と昇り上がる、怪しいほどの大きさの十三夜の月に、 突然、“生きたい”と思ったのさ。 喜んで命を投げ出す民百姓たちを裏切ってまでも、生きたい、と思った。 ...命のほとばしりが、己を貫いた瞬間さ。 己自身の命が、裸に帰って、ものを云ったのだ! ...何ものにも囚われぬ、 それは、...「本来無一物」と云うものだ...。 きっと、ヤツも、その時ほど命の不思議さを感じた事はないだろう...。 ...己自身で決めた筋が通用するほど、“生”と云うようなものはなまやさしくはない、...とな。 そうして、天草四郎は、土壇場で命からがら、江戸まで落ち延びた。 これが、俺が知る天草四郎のいきさつだ。」 |
No.52 剣四郎は静かに身を沈めると、後ろに倒れ込むかのごとくに抜刀した。 瞬間何かを両断した...。 ゆっくり二つに割れたのは、身の丈九尺程の鬼だった!? 遅れて、荒まじい地響きが巻き起った。 「こりゃあ、...鬼だよ!?」 「また、えれえもの切ったね。」茶頭家和尚が目玉を丸くして云った。 「...先程より、この骸を狙っていました。」剣四郎が辺りの気配を窺いながら云った。 「...本人の希望です。天草四郎殿の霊魂は昇天いたしましたが、 この骸は、“幽玄の亡者”には、花の蜜のように官能のもの、 地獄に落ちる事も覚悟、己の醜悪も忘れ、快楽心に藁をも掴みたい一心で、幽玄の世界よりやって来たのです。 天草四郎殿への、ただ事ならぬ異常な未練が、鬼となって現れたのだと思われます。 天草四郎殿を知る若道者の亡霊でしょう。」 「若道って、何ですか?」巌が云った。 「元服前の男色、つまりは少年愛じゃな。」 「凄まじいかぎりは、人の愛への未練だ...。ハンニャ、ギャーテー」茶頭家和尚が、向き直ると鼻くそをほじってピンと弾いた。 |
天頂の惑星 No.53 巌は、困惑した。 ...歴史上で知る人物が、あまりにも目の前に人間的な生でリアルな形で登場したからだろうか...? ...いや、歴史とは違い、その真実の真相は意外なものであったからか...!? それにしても...何ということだろう!! 巌自身が人生に於いて迷うように、聖人天草四郎も人として苦悩したのか...!? ...いやいや、愛と正義を貫いた聖なる人を、そのように卑下するように見てはバチが当たる....。 信仰と民衆の為に、最後まで戦いながら、 ...土壇場で、何故、生きようと思ったのか...!? 人々への期待をこれほど裏切ってのち、天草四郎の心の芯は一体どうだったのだろう...? そして、 ...“本来無一物”というものは..?「人の生のスケールの大きさは、ニュースからだけじゃ分からんぞ...。」 突然レンズが喋りだした。 |
No.54 「世界のあっちこっちで、こうしている間にも落ち度のない者が殺され、奪われ、犯され、生活を踏みにじられている...。その大義名分は、“正義”だ。 真の正義こそは、“活”にある...、あらゆるものを無謀に殺りくなどせんぞ! ...一体いつになったら分かるんだ....。 ...この星はまもなく、人間自らの手によって大きな混迷に陥るであろう...。 ...自分らだけを正義にしてはならない。 ...簡単な事だ、 他をも敬い、“活”を見い出すことこそが、すべての共存を可能にするのだ...。」 威厳を持った老人の声は、何処かで聞いた事のある懐かしい声であった。 また、別の低い、なんとも美しい声が、巌に呼びかけた。 「...イワオくん、詳しく話をすると、 その意識の混乱を助長して、己の利を得ているのが、...“ゴルゴーン”の意識バンドだ...。 ...つまりメデューサだ。 この星を取り巻くように騒音意識帯を形成させて、その意識の混乱から生じる莫大なエネルギーを、 自らのものとして摂取しているのだ...。 ...その手口は巧妙だぞ! 人間の情動から起る膨大なエネルギーを、無知に導き、その愚鈍になった状態を、ぶつけ合わせて、 騒音意識帯にコンデンサーの様に蓄電させてエネルギーを貯えている。 ...だから、ここから、すべての無知の闘争と地獄の情念が沸き上がってくるのだ。」 金色の光が、巌の周りを粒子のようにビュンビュンと飛び回った。 「...メデューサとの戦いとは、“ひとりひとりの無知”との戦いになるのだ...。 イワオくん、人間は、...目を覚まさねばならない...。」 レンズが一気に喋った。 |
No.55 「...オルグさん!? その声は、オルグさんでしょう!?」巌はレンズを覗き込んだ。 「ハイ、分かった?私の横にもうひとり居るのだけど...、誰だと思う? ...アインシュタイン博士さ。 どうしてかって? まあ、友だちなんだけど...、 それと云うのも、博士は、日本に対して特別の哀惜の念があるんだ...。 ...ラフカディオ・ハーンの著した日本がとても好きだったのさ...。 憧憬の念を持っていたんだ。 ...その日本に、原爆が落とされて...。 僕がアインシュタイン博士の事を弁護すると、 博士は、当時、うかつにも核兵器の開発の可能性を提言した書類にサインしてしまった...。 しかし原爆開発には一切関わらなかった。... が、高名な博士が影響力を持ったのは確かだ...。 ...そして、あろうことか、...広島、長崎、への原爆投下は、日本人を無差別に殺りくした...。 国土は焦土と化し、見るも無惨な光景だけが残って戦争は終わった...。 知恵を持つ生き物として、なんと不幸な事だろう...。 その、核兵器による無差別殺りくに、博士はずいぶんと自責の念を持っておられるようだ...。 博士は、こんな事も言ってるよ。 ラフカディオ・ハーンの描いた桃源郷のような美しくも稀な日本...。 ...そこには日本の霊性が在った。 霊性というのは、宇宙でも稀なものなのだ...。 原爆の投下により、霊性を破壊され何もかも変化したのは、日本だけじゃない... ...原爆は、宇宙空間に何か途方もない騒音意識バンドを可能にしてしまった様なのだ。 この空間全体が、ゴルゴーンの騒音意識に占拠され始めている!!」 |
No.56 「すべては、意識バンドの変容から起っておるかもしれん...。 それはそうと、そこにアインシュタイン博士が居るのか!? ヴァイオリンは負けませんぞ!いざ勝負!」テスラ博士が、巌の脇からレンズを覗き込んで云った。 「イワオ、そのレンズ何ですか?私にも見せて下さい。」シサラが黒い顔を寄せ、割り込んできた。 「ああ、やっぱりラジオですねー。レンズが喋る放送ですね。 ...しかし、ああ、ニュースがレトロですよ、インタビュー内容が、20世紀半ば位までの科学至上主義で、とても古いですねえ。 コレ、...再再放送じゃないの? イワオ、今の時代で、何かをコントロールできる科学者も、文学者も、芸術家ももうとっくにイマセンよ。 そう!何もコントロール出来ないのです。 唯一、ニュースの報道、私達のブロードキャストこそが、世の中をリード出来るのですね。 コレがアタリマエです!」 得意げに、シサラは大きな目玉を白黒させレンズから顔を上げた。 |
No.57 巌はぽつりと云った。 「...何か、とても心配な世の中ですね..。」 すると、レンズが淡くピンク色に瞬きながら光った。 「私のイメージでは、まもなくブロードキャストも急速に衰えると思うよ...。 なぜなら、報道と云うものが必要では無くなるから...。 ...ある一部の人でも、騒音意識バンドに気づくようになる、 すると不思議にも、人間という種全体に、魂の覚醒が起ってくるのです! ...意識バンドの昇華が始まるのです。 驚くべき事に、霊的な意味での“魂と存在”、というものの秘密が解かれ始めるのです。 魂に執拗に懸かっていた覆いが外れて、 いろいろなもの、...すべてが、“直接”理解されてくるのです。 徐々にですがね...。死が終わりでは無い事に、科学も追付いてきますよ...。 あ、そうそう、報道の話でしたね。 ...つまり、“嘘”というのがまったく必要無くなるからです。 “隠す”ということの意味が無くなってしまうのです。 もちろん“嘘”という概念も失われますが...。 何かそれでは、堅苦しく思われるでしょう? ...おもしろいことに、ユーモアのエッセンスはより洗練されるのです。 芸術的なまでのセンスに磨かれてきます...。 ある意味、その“名人”“達人”“天才”が多数出現してきます。 なにしろ、誰でも、見ようと思えば、魂の部分ですべて理解されるのですから...。」 「...オルグさん?、...ちがう!、...あなたは誰ですか?」巌がレンズを覗き込んだ。 |
No.58 「...私ですか?私は、....あなた方の考えられない様な者です。 “紅水晶”という鉱物です。 正確には、その“紅水晶”を通して産み出だされる“光りそのもの”ですがね...。 ...いやいや、ややっこしいので、“クオーツ”で結構です。」 「えっ!!“光りそのもの”!? 今云われた事は本当なんですか?ええと、...クオーツさん。」巌は、掌の淡くピンクの輝きを放つレンズに聞き返した。 「そう。 ですから、巌さん!そんなに人間存在そのものを根底から悲観するのも間違っていますよ。 人類で無い私のイメージですが、人類はすべて、視界の利かない状態からそろそろ抜け出る事が出来ます。 まだ、有視界飛行には変わりはないのですが、まもなく自身の存在自体を不安にさせる雲海を出ます。 そこからが、私たちと同等の世界です。」 「国、政治、経済、民族など、どの国も誰も自己を主張し、今のように人間のクロックを速めてゆくと、自然の破壊がどんどん進みます...。 ...破壊も一つの自然の顔です。 ...救いようのない破滅と同時に、ある人達は、この自然の調和というものが偶然では無い事に気づいてきます。 ところで巌さん、あなたは、...プリズムを通した光の美しい分散スペクトルをどう見ます? “これは科学的には光の屈折だ”と思いますか? それとも“なんて綺麗なんだろう”と思いますか? その両方? 人間は“謎と美”にはひどく弱いですね、 私ども鉱物はそれをよく知っています。 ...しかし、人間は物質の波動域をなかなか抜け出られません。 ...やがてそれがとても欲しくて、自分だけのものにしたくなり、どうしても手に入られずにはいられなくなる...。 でも、肝心の“謎と美”は、そのまま少女の微笑のようにするりと通り抜けてしまう...。 また、追い掛ける、...それが人間の歴史です。 ...“光りそのもの”とは、そういう“捕らえようの無いもの”の意味です。 そして、光は現存します! 整然とスペクトルをも展開します! なぜこういう事が自然のうちに在るのでしょう!? このシンプルな美しい調和...。 ...すべてが最初からこの様なのです...!! 光りそのものは、開示そのものなのです!」 「...クオーツさん、よく分かった様な感じがします...。 ...きっと、じいちゃんのレンズ研究は、間違い無くこういう意味があったんだ...。」レンズを覗き込んだまま、巌は密かにつぶやいた。 |
No.59 何処からともなく太鼓を打ち鳴らす音が聞こえてきた。 行者のような男がゆっくりこちらにやってくる。 ゆっくりとした足取りだが、太鼓はぜんぜん力みの無いリズムをきざむ。 皮をゆるく張ってあるのか、すごみのあるうなりを随分と遠くまで響かせている?! 巌たちがいる処に向かって、広場の道も群集も無視し、寸分の狂いも無く真直ぐにやってくる。 上半身裸の贅肉のない筋肉、 そこに片側から襷がけに両面筒太鼓を掛け、蛇の鎌首のように曲がったバチでたたく。 ときおり声高に、何か分けの分からぬ唄を歌っては、にんまりとするのが気味が悪い。 皆はあっけにとられそのまま眺めて居た。 「ふんぱぱ、おーいおいけにま、ん、めらにゃ...。ふんぱぱ!!すべてお見通しだ。」 デーン、デデンガデン、パラッタ。 巌の顔と顔、すぐ目の前で立ち止まった...。 その男は盲目であった。 |
No60 「おい、小僧。 俺は、何も見えんが、...何でも、...この太鼓の音で、何でも手に取るように分かる...。」 デーン、デーン、パッ、デデ 男は軽くフレーズを入れた。 「ふんぱぱ!...お前の、その凄いものを見せろ!」 デン、デン、デデーン 「抜いても無駄だ..。争いは無しだ。」 パッティン 「それは、“ゴルゴンの目玉”だな...。」 |
No61 男は白目をむき、差し出されたレンズに顔をかざした。 すると、打っていた太鼓の音は、不思議にも宙に連なると、 一陣の風となって生き物のように天空を吹き抜けた。 “グルタッ、グルタッ、ポ、 グルタグルタ、 デングルグッデングルグッ、プッタ” 「見えないけど、...何かが生き物のように飛んで行きましたよ!?」巌は思いきり天を見上げて云った。 「...見えたか?」男は無気味な程、にんまりとした。 「あれは何です!?」巌が云った。 「知らん!」男はゆっくり振り返ると、また太鼓を打ならしながら、ずんずんと立ち去ってしまった。 |
No62 しばらくすると、 一点の雲も無くみごとに晴れていた空が、俄に真っ暗になった...。 ポツリポツリと来るや、 物凄い豪雨になった...。 うわっ、と叫び 尻はしょりで駆け出す男ども、大樹の下に急いで逃げ込む子どもと女たち、 巌らも、端に在る小さな東屋に走り込んだ。 軒の下は突然の大雨で人がすずなりとなった。 あっという間にあたりには、誰も居なくなった。 ...しばしの間、大雨の音だけの世界となった。 「あれは、麒麟ではないか!?」 「いや、雲龍だ!?」 暗い雲をかき分けて、何かが天に昇って行く!? 凄まじい程の大きさの何物かだ!!? |
No63 皆のものがあっけにとられて眺めていると、轟音と共に物凄い地響きで近くの地面が割れ、 もうひとつ、見えない巨大な何物かが、すぐそこから立ち昇った。 立ちこめる水蒸気で、こちらは真っ白に見えた。 「うわっ!!真っ白の龍神様だ!?」 「一体、何だ!?これは?!」 「黒い龍神様と白い龍神様がどでかい渦になっとるぞ!」 「あれは麒麟だって!」 「いや、大天狗だぞい」 「こうなると、人間がまったくちっぽけに見えてくるのお...。」 「なまんだ、なまんだ、なまんだ...」 |
No64 「巨大な雲龍のように見えるが、向こうが透けて見えるぞい!? 只の風にしては、生き物の様で、とてもとても合点がいかんぞい! わしは今年で百歳になるが、これは、見た事も無い。 よい冥土のみやげが出来た。 はて、途方もない怪物じゃ!!」腰の折れた年寄りが云った。 「きっと、あの...将来行者様の仕業じゃ! 将来行者様が解き放たれた、言葉の霊魂に違い無いのじゃ! わしは見ていた!あのギヤマンに将来行者様が、太鼓で呪文を打ち何かを吹き込むのを...!」 横に居た、背丈の有るよぼよぼの年寄りが、目玉をぎょろつかせ大きな声でわめいた。 「太鼓を打鳴らし、乞食のようなお姿、目はよう見えん、...きっと、将来行者に相違あるまい。 神出鬼没の行者様じゃ!」別の、顔がくしゃくしゃの年寄りが云った。 「よう分からんが、...南無、有難い、有難い!」 年寄りらのさらに歳を帯びた幾人かの連れも、行者の消えた方角に、一斉に手を合わせた。 「ところで、将来行者様が申しておった、その“ゴルゴンの目玉”と云うのはなんじゃいな?」 「お若いの、そのギヤマンのことであろう!?隠さず見せろ。」 「不思議な風合じゃな...。」 「何かとてつもなく、有難いものじゃろうて。どれ、わしらにも見せてやってくれ...。」 一斉に顔を近づけ、年寄り連中が一遍にレンズを覗き込んだ。 |
No65 そこで起っているトンでもない事変も、年寄りには関係が無いのか!? 年輩者の興味は、ギヤマン一点に集中してる。 「なるほど!言葉の霊魂か...!!! このギヤマンが、わしらの希望を叶えてくれるかも知れんのう...。 そうじゃ!、...ここに齢八十歳から九十歳、百歳に至まで十二人居る! おのおの大声で、望みを叫んでみようかのう!」 「わしからいくぞい、百歳にもなると、どうもこうも、身体が利かん。 二十歳の身体に若返りたいものだ!」 「わしにも言わせてくりゃれ。ホンマ、この足腰の痛みはどうにかならんかのう!」 「死ねば孫と別れにゃいかん、...死を無くしてくれい!」 「毎日病気の事ばかりじゃよ!元気が欲しいんじゃい!」 「死んだばあさんに会いたいよお...。」 「金、金、金が欲しいんぞい!金!わし、身寄りも無い、頼りは金ぞい。」 「ああ、鮨を思う存分食ってみたいもんだよ!」 「うまい酒!これですよ!」 「生きて苦労ばかりだ!もっと楽したいよ!」 「人間の一生なんてなんて短けえんだ、やり残してる事をやるんでえ!もっともっと時間をおくれ!」 「待ってくれや!ええと、...頼み事は沢山有るんだよ!...お願えだ。」 「あたしゃ皺だらけな顔はもうイヤだよ!顔をつるつるにして欲しいね!」 一人ずつ声を発し終わると、 不思議にも、年寄り連中は肉体が透けるようにレンズに吸い込まれてしまった...。 しばしの間を於いて、突然レンズから香の匂いとともに紫煙が立ち昇った。 黄金で金ぴかの、ありがたそうな“ロボット”が其処に現れたのだ。 「うわ!?お年寄り十二人が突然消えて、代わりに金のロボットが笑ってる!?」巌がかたわらで叫んだ。 「ありゃりゃ?こりゃすばらしい!?身体が何だか楽だぞ!? ...あわわ?わしら十二人が合体して真新しい人となってしもうたぞい?」 「皆、喋りは順番だ順番だ!...とは申しても、争いもなく不思議と快適に喋れるね? たましいも解け合ったのか? 足腰の痛みなども無くなった!頭も冴えとる!」 「死ぬ感じがしないぞ?死は何処へ行ったのだ?わしらはどうなったんじゃ?仏になったのか!? ははは!...わしらは自分が無くなって、生まれ変わったのか?」 「たましいが混ざって、一つの身体じゃ! 合わせて千歳の赤子じゃな。」 |
No66 「幾ら救済が在るといっても、これはなんとも人間をばかにしておるな! この精神の軽薄さは何だ!?...最も年寄りを愚ろうしておる。 あきれてものも言えん!」テスラ博士が金ぴかのロボットに向かって云った。 「わはは!金むくの赤子か!わはははは!! 人も齢を重ねてくると、このぐれー冗談がゆるされるじゃろうて。 何だか知らねーが、さすがにゴルゴンの目玉だ...。」茶頭家和尚が哄笑した。 「それよりこのばかでかい騒ぎは、あの太鼓坊主の仕業だ。一体どういうつもりなんだ? これほど人騒がせをしおって、まったく、なんてヤツだ!?」和尚が空を見上げて怒鳴った。 すると、天のどこかから大声の笑いが起った。 「あれ?だんだん鎮まって来ましたよ?」巌が空を仰いで云った。 急激に雲は萎え、青空が覗いてきた。 まだ地面の白い湯気だけが地を這っている。 ...白い湯気の下には、深々と湯をたたえた温泉が出現していた。 「おお、やるな、悪党めが!これは早速一風呂浴びてゆかねばなるまい...。」 ドボーン! すぐさま茶頭家和尚は素っ裸になると、湯に飛び込んだ。 |
No67 「♪梅はー、咲いたか、さくらはまだかいなあー♪」 すっかり一風呂浴びて、いい気持ちの茶頭家和尚の粋な鼻歌を聴いた途端、 巌らも、金のロボットも、どうもこうもなく、みんなザブーンと飛び込んだ。 「ああ、まったく命の洗濯ですわ。温泉より極楽は無いわい。」「まったくだぞい。」 「おんや!?あのギヤマンが湯の中で光っておるぞい!?」 「...あわわ!?...あれは何じゃ?」 ドデーン!! ちぎれちぎれの雲の中かから徐々に現れた恐るべき風景!? 湯に浸かった一同の正面には、度胆を抜くような大きさの、富士山が悠々と鎮座していた。 見渡す限りの裾野まで、すっきり晴れ渡り、 ...富士までも、ゆうゆうと、湯に浸かる様な素振りだ? 「...雄大にも程がある。」巌がつぶやいた。 |
No68 巌は、あまりの出来事に、自分の目をしばつかせた。 これはきっとレンズのせいだと云う事は分かっていたが、 自分の頭が、おかしくなったのかも知れないとも思った。 ...しかし、これは、夢では無かった!幻覚でも無い! 事実だと云う根拠は無い....。 だが、一連のこの荒唐無稽な出来事は、すべてが実体験である確信が、巌には有った。 何故なら...! 今も、...富士は、目の前で裾野まで温泉に浸かっているからだ!! 「これがレンズの云う、人類の意識の変革なのだろうか!? ...しかし、どうも、...ユーモアのセンスからしたら、B級だ?」 「だけども、これが、その始りだとすれば、人間の常識などは、風に揺らぐ瓢箪のようなものだ...。 どんな事も起こりえる!」 「そうなれば...、そうなれば、僕にはやることが有る。」巌は目を輝かせて、その不思議な光景を眺めた。 |