No.97
巌の祖父、源一郎は、戦時中、広島の、ある寺に併設されてた光学研究所に居た。
戦争も本土決戦を叫ばれる、昭和二十年五月に、ある極秘の依頼が海軍軍部からあった。
それは、なんとも言えない、奇妙なガラスの石の解析であった。
石は四個。
それぞれが、干渉しないように、鉛のぶ厚い箱に、
厳重に一つずつ入れられて居た。
軍部より、これらを一度に開ける事は厳禁された。
宝石のようだが、それは一様にガラス質で、すべて、結晶では無かった。
しかし、ダイヤモンドのように、見事にカットされているものも、中にはあった。
一見普通の宝石、または、透過性の石に見えるも、
その成分は、謎の組成で成り立ち、屈折率も一定では無く、奇妙な光を帯びていた。
源一郎にとって不思議なのは、硬度が、ダイヤモンドをはるかに超え、
想像を絶する固さを備えながらも、
すべて、ガラスの仲間の“液体”である事だった。
とてつもない強度を持つ、素材である事から、
軍部からの指令で、まもなく、四つのうち、二つが、
長崎の、海軍の鋼鈑素材硬度関係の研究施設に渡された...。
祖父は、この石の解析と屈折率の研究を進めるうちに、不思議な事が起り始めた。
自分にだけ、妙な事が起るようになってきたのだ。
霊が見えるようになったり、誰かが、石から浮き出て、危機を知らせてきたりするのだ!?
...これも、寺の、和尚などには、見えないのだ...。
一つの石の屈折率等が変動すると、もう一方も、同調するように変わってくるのが分かった...。
とくに、箱のまま隣り合わせに置いた時など、
どうかすると、多種多様な景観や人物が、突然と現れて、源一郎を驚かした!?
また、何も無い空間に、穴の様なものが出来、何者かが出入りしている事すら出てきた...?
別の時には、聞いた事のない言葉が、ラジオ放送のように、聞こえて来たりもする...。
源一郎は、八月六日真夜中、即刻この広島を移動するよう、霊によりたたき起された。
真っ暗闇の中、和尚と重い二つの鉛箱を載せた和尚のオート三輪で、広島市街を出た。
しばらくして、バタバタと走るたんぼの暗闇に、妙なものがヘッドライトに浮かび上がった!? |
No.98
夏の深夜の田に、ズワーッという、恐ろしい程の羽音が、周囲を圧倒した。
何かの塊が群れになってヘッドライトに照らし出されてくる...。
大きな白っぽい塊が空間を反転した!?
オート三輪のフロントウィンドウにも、白っぽい物体がバラバラと当った...。
虫だ!?無数の虫の群れだ?
まだ、成虫に成り切らないバッタのようだった?
「和尚、これは虫だぞ!?」助手席で、源一郎は手に取って言った。
オート三輪に照らし出された群れが、“大”と云う字になった!?
...次に、“杉”の字が読めた!?
筆先から現れる習字のように、それは、漢字に読めるのだ!?
文字は、しばらくそのままあると、塊は暗闇の彼方に飛び去った!?
「“大”“杉”、とは...!?」 |
No.99
「“大”“杉”...おおすぎ、多すぎか?!
それとも、シャレで“大好き”か?...
わはは!こりゃ外道じゃ!狐じゃぞい!
喝!!人を化かすのもたいがいにせい!」
和尚が、運転席から半身をのり出して、闇に向かって怒鳴った。
そのとき、源一郎は、何かが、こちら側の脇の薮に飛び込むのを目撃した。
オート三輪はカーブを抜けて、両側が雑木林になった。
急に、目の前の薮から女が飛び出して来て、オート三輪を急停車させた?!
キ・キィーーーッ
夜目にも、怪しくも美しい、歳の頃、18才前後の美少女だ?!
「今度は何だい!?」和尚がまったく動ぜず言った。
「失礼を承知で、お頼み申します。...私を、何処かまで乗せていただけませんか?」
「一体どうしたのです?この真夜中に?」源一郎が、ドアから首を伸ばして言った。
「お前は、狐だろ!?お前の正体は分かっているぞ。
人を驚かしておもしろがるとは、呆れたヤツじゃけん。」
和尚は、少女をジロリと睨みつけた。
「...まあ、正体は分かっておる、乗れ。こちらも急いでおる。」
少女を、真中に乗せると、オート三輪は、再び闇をヘッドライトで切り裂き、走り出した。
「大に杉、とはどういう意味です?」源一郎は、すぐそこに在る、
この世のものとは思えぬ美しい少女の横顔に、ぼんやり見とれて問うた。
「“大杉大使”の事です...。
犬を捕まえて、それを生きたまま埋め、強力な犬神を造り、呪詛で操る事をします。
大杉大使は、私を取りに来ました。」少女は、寸分も動かず前を向いたままで言った。 |
No.100
オート三輪は、喘ぎ声ともつかぬ強烈なうなりを上げて坂を登った。
「ともかく、わしら、此処を夜明けまでに出なければ、取り返しのつかない事になる...。
此処を出たら、大杉大使なり、ヘチマなりの手の届かんとこへ降りるがいい。」和尚が言った。
すると娘は、すまなそうな態度で答えた。
「ありがとうございます。この御恩は忘れません。私の名は、若藻と言います。
大杉大使は、私を捕らえて、アメリカ魂に人身御供として、
“老杉”の存続を、願い出ようとしているのです...。」
娘は、続けて喋った。
「もう、アメリカ魂による、日本の神霊界の解体と破壊が、すぐそこまで来ているのです。
わたしも、一人助かろうとは、思ってもいません。
しかし、そのような結末だけは、望むものではありません。
きっと、この戦争は日本が負けて終わりになります...。
...そして、日本の神霊界は、アメリカ魂により前代未聞、未曾有の壊滅をさせられます。」
だが、しかし...、エンジンの唸りとはうらはらに、暗い夜道を行けども、視界が開けて来ない?
ふと、坂の途中で、オート三輪はまったく動いていない事に気づいた!?
車から、乗り出して源一郎が見ると、恐ろしい形相の犬の生首が、車輪にガッシと噛み付いていたのだ。
ズウゥゥン!
いきなり、車ごと下にめり込む様な感じがして、源一郎らは、声をあげた!?
エンジン音がプッツリ途絶え、フロントウインドウには、異様な空の色がいっぱいに溢れた?
それは、黒漆に金泥を流し込んだ様に渦巻いた。やがてそれが顔になった...。
「...大杉大使!」娘が叫んだ。
「若藻!!逃さぬぞ!
...おい!その娘を其処に降ろしてもらおう!」地面を揺るがす声が響いた。 |
No.101
源一郎は、半ば本能的に、二つのレンズ状石を箱から取り出し、両の目に当てた…。
まぶたに、石の冷たさがじんわりと伝わった。
何か、目の奥から放射される様な感覚が感じられた。
そのレンズ状の石を通して、無色の槍の様な鋭い光が、暗闇に、拡散してる気がした。
いきなりその場に、大杉大使の『呪術の場』が明らかになったのだ。
若藻に、幾重に絡まる糸の様な『気根』が、ハッキリと源一郎には見えた。
それを取り除いて、唾を掛け、それを切り裂いた。
唾を掛けると、おもしろいように、それは硫酸を掛けられたように、畏縮して融けた。
『気根』が解けると、若藻は、一声「コーン!」と叫びを上げ、車を飛び抜け消えた。
源一郎の耳に、
「この御恩は、けっして忘れませぬ!」
と、闇の彼方から鳴る鈴のように響いた。
「聞きしにまさる、…それは、『ゴルゴーンの目玉』か?
…また、遭おうぞ。」大杉大使の顔が、漆の闇に崩れていった。
昭和二十年八月六日。
周囲は青さを増してきた。
坂を、オート三輪は登り切ると、当りは、ぐんぐん明るくなり始めた。 |
No.102
昭和二十年八月十五日。日本は無条件降伏を受け入れた。
軍部は解体され、今までの、価値観から何から、
あらゆるものが、混乱の中にたたき込まれた。
しかし、世の中の気運は、敗戦のみじめさより、思いもかけぬ事に
何もかもが白紙の、一から出直しのすがすがしさに充ちていた。
焼け野原の東京の空は、底が抜けたように高く広がっていたのだ…。
何かが、大きく変転したのだ…。
源一郎は、敗戦のどさくさに親友を頼りに上京して、高円寺近辺の長家に転がり込んだ。
二つのレンズ状の石は、まだ、源一郎の手許に在った…。
不思議な事に、二つの石は、以前より、この上なく強烈に透明度を増して来ていた。
終戦の混乱も一息ついた、翌年春、
ある時、『老杉』、と云う、元陸軍参謀を名乗る紳士が、
高級車を横着けして、源一郎の長屋を訪ねて来た。
手みやげの、饅頭の中の白い封筒には、十万円という大金が入っていた。
『石』を戻してもらいたい、と云う要望であった。
しかし、源一郎は、数日前の深夜、渡してはならない旨を、枕元に立ち現れた霊から知らされていた。
『この石については、訪ねて来る誰にも渡してはならない』、と云うもので、源一郎は、固く心に誓った。
源一郎は老杉氏に、その、命令書と証明を求めた…。
老杉氏は、無言で懐から何やら取り出した。
風呂敷をそこに置くと、老杉氏は再来を告げ、去ったのだが…。
そう云えば、源一郎が長崎の研究機関に送ったはずの、鉛の箱の行方も、まったく分からなくなっていた。
|
No.103
風呂敷包みを開くと、其処から出てきたものは、手紙であった。
英文の手紙は、そのままでは読みにくかったが、
家主であり、親友の、田ノ宮テスラに翻訳を頼んだ。
留学経験がある田ノ宮の、十二か国語堪能の前には、容易に読み上げられた。
その手紙は、アメリカ、カリフォルニア、インヨーの『メスーゼラ』から、
老杉氏に宛てられたものであった…。
そこには、驚くべき事が書かれてあった。
『メスーゼラからの手紙』
ハロー、ミスター・老杉、ごきげんはどうかな?
地球最古の松、プリスルコーンパインのメスーゼラだ。
君に手紙を書くのも久し振りだ。
ひょっとすると、千年は立ってるかも知れんの。
今の人間ときたら、まったく、いつまでもダダをこねる聞き分けのない子供だぞ。
…どうやら、今回の戦争は終わったようだがね。
すぐにでも、また始めるさ…。
われわれ、年寄りに、被害が及ばなかった事を喜ぶよ。
この間まで、小便小僧のように駆けずり回っておったがのがね、
やれ飛行機だロケットだと、原子爆弾まで作って、悪さをする歳になってきた。
そろそろ、われわれも、見捨ててはおけんことになって来たぞ。
私は、永年に渡って、この惑星の静かさ、美しさ、夜空の星振と思索、
を愉しみに暮らしてきたが、
そろそろそれも終わりに近い。
天頂の惑星は、今、正午を迎える!
私も、まもなくこの、プリスルコーンパインの身体に、
別れを告げなければならんのは、寂しい事だ…。
この惑星で、とても安らかな存在で居られた。
まったく、再び、実体の無い存在へと戻るのは、辛いものだよ。
ところで、長崎での『隕石ガラス』は、一部が発見されたようだが、
原子爆弾によって、封じられていた巨大な霊気が液化して、
この惑星の大気に流失してしまったようだね。
これは、大事な事だ!
この、霊気の混合が大規模に起ると、いったいどうなると思う? |
No.104
長崎から出た異様な霊気は、私の住む、銀嶺をいただく山にまで届いてきたよ。
いかにものぐさなプリスルコーンパインのわしも、これには、どうにかせねばなるまいと思ったものだ。
思い上がった人間どもは、滅びるのは勝手だがね。
…しかし、私の老婆親切にも困ったものだ、
私は、放っておけないのだ。
人間など、どうなろうと、構わないのに。
そんな訳で、ミスター・老杉、日本の君にレーターをしたためたのです。
この事態を収集する方法は一つだ。
それは、……
(ここの文は、黒く塗りつぶしがされて、判読不能であった。)
……そのためには、是非とも、残りの“隕石ガラス”も無くてはならない。
来るべき、惑星の正午の静寂のためにも、われわれが干渉する事もやむをえまい。
それ自体が、未知の、新たなステージの黎明に立ち会う事にもなる。
またいつか会える日まで、親愛なるミスター・老杉、
SAYO-NARA。
アメリカ、カリフォルニア、インヨーのメスーゼラより
××年×月×日
追伸
この事は、この惑星に端を成す、
あらゆる霊体、地霊、精霊の、霊的なものたちに、影響を及ぼす恐れもある。
私には何が起るか見当もつかない。
しかし、これは、この惑星で、最高に理性を持って進化した形の霊体に対しての、
ある種の『開国』にもあたるかも知れん。
騒々しい世の中になったもんだ。
ああ、数千年に渡る、
私の愉しい夜空の星振と思索の夜も、はや、終わらねばなるまいね。
手紙は、ここで終わっていた。 |
No.105
源一郎は困惑した。
夢に現れて、『隕石ガラス』を、渡してはいけないと言った霊の言葉もさることながら、
この『メスーゼラ』からの手紙の、およそ荒唐無稽な内容も、何故か偽物とは思えなかった…。
この手紙は、源一郎には本物に思われた。
日本の敗戦が、日本精神、日本の霊性、の徹底的な破壊を示唆しているのは、間違いが無かった。
しかし、この『何も無い』すがすがしさは、仮にも、一時的とはいえ、日本本来の霊性、
いや、『霊そのものの本来』、を取り戻したかに源一郎には思えた。
霊とは、はなから『在る』という実在の世界を超えるものと思えたからだ。
一辺倒に、ダーウィンの進化論的に、人類を、この惑星の最高の存在に据えるのも、ひどい間違いと思われた。
そうしてそう思った瞬間、現実の生存を賭けた勝敗というものに、源一郎は、途方もない戦慄をおぼえた。
なによりもこの手紙の内容は、それを上回る人類、惑星、規模の霊的な『開国』の予感を告げている!
確かに、日本の敗戦の悲惨というよりも、
この何も無くなった東京のアッケラカンさは、その始まりに、源一郎には思えてしかたがなかった。
『メスーゼラ』は、その霊的な『開国』のためにも、源一郎の手許に在る『隕石ガラス』を必要としているらしい…。
いったい、ミスター・老杉、を名乗る人物は、そうすると、日本の何者なのか。
源一郎に分かるはずもなかったが、『隕石ガラス』が一際怪しく光を放つのは何故か痛快だった。
…もうひとつ源一郎の脳裏に浮かんだのは、広島脱出の折りの出来事だ。
美少女『若藻』の言葉にも、老杉、という名が思い出された。 |
No.106
「源ちゃん、このインヨーの『メスーゼラ』ってのは何者だと思う。」
田ノ宮テスラは、手紙を丸ちゃぶ台に置くと、饅頭をほうばった。
「善とも悪ともつかないが、霊的なレベルの高級感は、人間の比でないね。
この手紙で、霊的な『開国』って、まるで明治維新の日本のような状況を言っている。
おや、これは鶴屋ヨシノブの饅頭だよ。なんておいしいんだろ。」
源一郎も、口いっぱいに饅頭をほうばった。
「もぐもぐ、
僕の考えでは、『メスーゼラ』はきっと、この惑星の生命で無いね。
いや、むしろ、この宇宙での、『いのち』と呼ばれる、そのものかもしれないけどな。
物理学でははかり知れない。
ごっくん、もう一つ。」
「しかし、テスラ、君は理論物理学者じゃないか。
もぐむしゃ。」
「ぱくぱく。
科学とは、言わば作法のようなものだよ、
それにあてはまらないものをママコ扱いしちゃいけない。
もぐもぐ。
理論物理学でも、『無い』ものを、扱えないさ。
『隕石ガラス』だって、封じられていた巨大な霊気が液化したなんて、そんなこと信じられるかい普通。
霊気の混合が大規模に起きているって、黄色い救急車がくるぜ…。
もう一つ、ぱくり。
それにしても、源ちゃんの『隕石ガラス』を手に入れてどうするんだ、『メスーゼラ』は。」
「老杉氏に渡していいものだろうか。
ううん、おいしい。」
「極限の難しさだな。」饅頭を食べ終わると、田ノ宮は煙草に火をつけた。
「これは、この『メスーゼラ』に会ってみるべきだぞ。」
「しかも、現実には木だ。ブリストルコーンパインなら。」 |
No.107
その夜ふけ、源一郎とテスラは、議論の中休みに、駅前にラーメンを食べに出た。
屋台でラーメンを茹でる湯から出る湯気が、のれん越しに、まだ冷たい夜風に舞った。
焼跡の廃材で作られた縁台は、座るとぎしぎしといった。
二人がラーメンを待っていると、隣に掛けたマント姿の妙な男が、
懐からそっと何かを取り出して縁台に載せるではないか。
それは、盆栽だった。見た事のない、ひねくれた小さな松の大樹だった。
「これは、ブリスルコーンパインと云う長寿の松なのです。」男が密かに鉢を自慢げに見せた。
「なんだって。」
「おや、ご存知ですか。日本にこれを知っている人は、いないと思ってましたよ。
ここの屋台のラーメンが、大好物なんですよ。
ええ、スープを少しばかり掛けてやるだけなんですがね…。
わたしは、常田堂というものです。
この近所で、戦前から開業の医者です。けっして怪しい者ではありません。」
源一郎とテスラは、目玉がこぼれんばかりにまじまじと、その盆栽を覗き込んだ。
常田堂は、ラーメンがゆで揚がると、さっそく、スープをふうふうと吹いて冷まし、
蓮華の先から、松の根元に丁寧にあたえた。 |
No.108
しばらくほうぜんと眺めていたら、二人のラーメンも茹で揚がってきた。
夜風にほのめくアセチレンランプに、それぞれ並んで麺をすするこの不思議な光景は、
手の空いたラーメン屋の親父の、何故所持しているか謎であるライカによって、一枚の写真に記録されていた。
(この写真は、数年後、ある新聞社の企画する写真コンクールの特選となって、紙面に掲載される事になる。)
それは、どことなく、あのゴッホの初期の絵画「じゃがいもを食う人々」を彷佛とさせた…。
余談はさておき、
食べ終わると、そそくさと金を払う常田堂の背後に影が差した。
「この松、いただく。」何者かが、盆栽の鉢をサッと取ろうとした。
咄嗟に、源一郎とテスラはその小さい手を押さえた。
見ると、十歳前後の子供だったが、妙にすばしっこく、逃げられた。
源一郎とテスラも、後を追ったが、常田堂は、その小僧を必死になって追い掛けて、ついに取り押さえ、松を取り返した。
「なんだって、こんなもの盗むのだ、小僧。」
「なんだか、凄いキレイで、宝かと思って。」
「ふうむ、…そうか。お前は浮浪者か?」
「はい。」
「なら、どうせ盗むなら、飯や、金の方がイイだろうが、
この松がキレイだからとは、今から、見上げたやつだな。」
「親兄弟、身寄りは居ないのか。」
「はい。」
「そうか。俺の家に来い、この松の世話係にしてやる。」 |
No.109
「君の名前は何と言う。」
「トメって言います。」
「そう、よおし、トメ松だ。
君は今夜から、この盆栽であるブリスルコーンパインのお世話係、留松だ。
これは、先代常田堂の残した、謎の中でも、もっとも難解なものだ。
君なら、この難題をパーフェクトにこなす事が出来る気がする。」
その夜の出来事の、何という安易、何という決定の速さ、
にもかかわらず、それは、ある、すべての分水嶺でもあった。
まったく、運命のパズルをたどる様な精妙さで、
ブリスルコーンパインのお世話係、留松が誕生した。
留松の、天性の才能が爆発した。
考えられない程の短期間に、ブリスルコーンパインのすべてを把握したのだ。
純粋な、留松のスピリットは、
霊的に、ブリスルコーンパインと同一体になることが出来た…。
身を粉にして、留松は、ブリスルコーンパインのお世話をした。
この、ブリスルコーンパインと云うのは、植物の中でも、最も、厳しい環境に育ち、
ゆえに、恐ろしい程の長寿を獲得する植物なのだ。
人間には、懐かない、究極の野性の存在者である。
ある意味で、お世話を最も嫌うと云っても過言でない。
そのお世話が、留松は、出来ると云う事なのだ。
その夜から三ヶ月が過ぎた。
源一郎らは、メスーゼラとのコンタクトを目の前にしていた。
メスーゼラとの面会を条件にあげた源一郎らに、
すべてのお膳立ては、ミスター老杉が、驚く程の素早さでこなした。
源一郎の説得で、きしくも、
常田堂と、ブリスルコーンパインのお世話係留松も、同行する運びとなった。
何故か、特例的にすべての入国許可が下り、
ミスター老杉他、源一郎ら一行は、進駐軍の特別輸送機でカリフォルニアに直行すると、
ヘリは、静謐なる地、ブリスルコーンパインの故郷に向けてと舞い上がった。 |
No.110
ヘリコプターは、急激な上昇をして、気流に乗った。
留松の、座席にへばりつきながらも、
盆栽のブリスルコーンパインを、大事にささげたままの格好がおかしかった。
それを見て、パイロットは、おおいに笑った。
みるみるうちに、ヘリは高度三千メートルに達し、ホワイトマウンテンの山の稜線が見え始めた。
テスラと常田堂は、
すばらしい大地のパノラマに、ガラス窓に顔を張り付け歓声を上げた。
源一郎は、両ポケットの中の『隕石ガラス』を、それぞれに手に転がすような風にしながら、
これから何事が起っても、気を取り乱すまいと思った。
ミスター老杉は、座席に身体を沈め、
黒いサングラスの顔が、正面を向いたままほとんど動かない。
杖にもたれ、軽い寝息の様な音をさせ、うつらうつらと眠っている様だ。
やがて、ヘリは、ある地点でホバーリングを始めた。
降りられそうな平地が無いため、稜線すれすれにタッチのまま、
つぎつぎと、源一郎らは地上に飛び下りた。
次に、一行の三日分の食料とテントがヘリから放出され、ごろごろした岩場に転がった。
その後、パッシングの合図と共に、
ヘリは、ホワイトマウンテンの急斜面越しを沈むように飛び去った。
「ついに来た。」ミスター老杉は、白髪が風に逆立ったまま、一人ほうぜんと言い放った。
そこは、荒涼とした風景だが、異様な程の静謐と、すがすがしさに溢れていた。
数本の不思議なオブジェのような巨樹が、
抜ける様なコバルト色の空の稜線近くに、眠るように静かに突っ立っていた。
留松は、盆栽を掲げたまま、すぐさま一本の、のたうつ奇妙な形の巨樹に駆け寄っていった。
「これだ、これだ!」
「これです。『ノンモ』です。これです。
盆栽の親木です。見て下さい、盆栽が、喜んで泣いてます。」
しかし、そうは誰にも見えなかった…。
それは、留松にだけ見えたのだ。 |
No.111
留松の呼び掛けに答えるごとく、ブリスルコーンパインのノンモの大きくうねった樹身は、
今、目覚めたかのように、背景の雲と一体になって沸き上がるように流れた。
ノンモを前にして、ミスター老杉は、深々と頭を下げ、一礼をした。
留松の捧げるノンモの分身である盆栽からも、湯気のような、霊気が動く気配がした。
日は、傾き始めていた。
しかし、メスーゼラは容易に見つけられなかった…。
日没がやってくると、あたりは急激に気温が下がった。
すでに、源一郎、常田堂、テスラらは、明日に備え、野営用のテントの設営を終わっていた。
短い時間に、恐ろしい程の星々が夜空に登って来た。
最初、高山の酸素不足の息苦しさがもたらす、幻覚と思われるように、
恍惚感がやんわりとやって来た。
時間は止まっているかのように思われた。
一同は、天空に浮遊していた。
自分達の設営したテントの黄色い屋根が、遥か下の方に見えた。
何の不安も無かった。
星々が禊ぎの水のごとく自分達を浄めてくれた。
不思議な表現不能の音楽が聞こえてくる。
そこに、ノンモの不可視の実体が広がるように現れ、告げた。
「長いようで、短い…。永遠のようで、一瞬間…。苦しいようで、楽しい…。
いのちと云うものは、実に不可思議なものだ。
われわれは知っている。
このもっとも過酷な環境に在って、
死と云うものも、終わりでは無い。死は、やすらぎこそすれ恐怖ではない。
いのちの不思議は、なお、そのやすらぎを乗り越えて存在する、輝きにあるのだ。
ここに来たからには、教えてあげよう。人間と云う存在は、もっとも輝ける存在でもあるのだよ。
それを忘れてはいけない。」
ノンモの言葉は、大きなすがすがしさを持って、皆の気持ちに沁み渡った。
源一郎は、大樹というもののやさしさを、感慨無量に受けとめた。 |
No.112
「さて、少々スピードが出るので、驚くかもしれんよ。」
ノンモの言葉が言い終わらないうちに、
空間が炸裂したかの轟音と共に、あじわった事のない程のスピードで、一同の上昇が始まった。
いったい何事が今起っているのか、誰も見当もつかなかったが、気持ちは不思議な至福に充ちていた。
前方に、発光する物凄い数の光の羅列が現れては、後方に飛び去って行く。
身体に、とんでもないGが加わっているように感じられるが、苦痛は無く、
ある瞬間から、一気に解き放たれる様に解放された。
とても、眩い光で、目が開けられ無かった。
「目でなく、心で見なさい。」と言うノンモの声がした。
すると、皆は、そうした。
なるほど、実にすがすがしさをともなって、クリアーにみえてきたのだ…。
明るい金色の世界が、丸い玉の中に精密に在る、あの、不思議なおもちゃのように、
あらゆる色彩の内側を抱えた玉が、無数に浮遊していて、
ときおり、あちらの、こちらの、と、鋭く輝く。
「ここは、世界の縁だよ。そうかと云って真中にも近いがね。
まあ、ここで私の説教でも聞きなさい。」
「人間の数え方で、私は、およそ四千五百歳だ。
私も、その子供のように、幼い苗木だったころもある…。
ここのブリスルコーンパインは、実に過酷な環境の中で生き抜くのだよ。
高山の、水も養分も無い痩せた土地、容赦しない天候、強い風、途方も無い寒さ、
生き抜くためには、あらゆる無駄を省き、いのちを真剣に見つめ、磨きぬかなければ、生きられない…。
しかし、それは私にとって、辛い事ではないのだよ。
長い長い自然との戦いの結果、
ブリスルコーンパインは、地上のいきものが安易には掴めない、いのちの不思議を理解するようになった。
この真剣な輝きの中にしか、いのちと云うモノは存在できないのだ!
どんな、不利な戦いにも、自らを諦めて済むものではないのだよ。
メスーゼラだが、私の兄弟なんだ。
人間が考えるような安楽と、身勝手な闘争を、彼は憎んでいる。
が、けっして人間そのものを憎んでいる訳では無い。
騒がしいのが嫌いなんだ。
人間は、この玉のように、輝きを放つ存在だが、
いのちの不思議を理解しないうちに死んでしまう幼い子供のようで、なんともいたたまれないのだよ。」 |
No.113
ノンモが何事か祈願すると、
一同は、急速に地上に戻りはじめた。
天空の輝ける星々は、
源一郎をはじめ、テスラや、常田堂、留松、その他、死にかけている人、今、生まれ落ちた人、などの生とし生きる者のために、
おだやかに、無数の光りと鈴の音をひときわ響かせた…。
その直後、ノンモの樹身は、音を立てて崩れ落ちた。
瞬時に、山のスロープを下って、空にかかる巨大な雲海が一陣となり、斜面を駆け下りて来た?
「メスーゼラ!」盆栽の松の叫びが、渇ききった夜の闇に響いた。
「メスーゼラの気魂です。」留松が、天を見上げて言った。
「よく来たね、君たち。
たった今、偉大な兄弟ノンモは崩れ去った。
この世を去ったのだ。
何という臨終だったのだろう。
最後の力が尽きたものと思われる。」巨大な雲海から声がした。
「いったいどうしたのです?」源一郎が天を仰いで言った。
「すでに、ノンモは、長崎の溶け出た異様な霊気におかされていた…。
瀕死の状態だった…。
君たちの到着が間に合ってよかったよ。
すばらしいブリスルコーンパインだった…。
病の身でも、最後まで彼は立派だったよ。
私は兄弟として誇りに思う。」
今まで無言でいたミスター老杉が、口を開いて喋り始めた。
「あの『隕石ガラス』の原子爆弾による破壊から流れ出た霊気は、
よくも悪くも、もはや強烈な異変を起しています。
これを見なさい。」 |
No.114
ミスター老杉は、着ていた上着を脱ぐと上半身裸になった。
ミスター老杉の肉体は、そこに、何も無かった。
「私の身体で唯一残っているのは、もはや頭部しかない。
流れ出た、『ガラス』の霊気は、まず我々、その地に古来より鎮座する霊体に作用して来ている。
とくに、三千年、四千年、の巨樹を寄り代にする神代の霊達は、
軒並み不明の病に取り付かれ、瀕死の状態だ…。
今後、百年も程すると、その影響は、あまねく、巷に行き渡るだろう…。
これは、人間レベルの話しでは無い。
この惑星に古来より住む霊体が、『ガラス』の霊気により侵され、早晩死に絶える事を意味する。
これを止める事は、可能な事なのだろうか?メスーゼラ。」
ミスター老杉の、黒いサングラスが、雲海を仰いだ。
低く垂れ込めた雲海に雷光が走った。
「ノンモが一つヒントを残した。
病んだ彼は、『隕石ガラス』から流失した霊気は、怒りだと言った。
怒りは、『感謝』により鎮める事が出来ると言っていたのだ。
彼は、長い熟考の末、結論したのだよ。
荒ぶる霊気は、真の感謝をもってしか、鎮まらないと。
即ち、存在への真の感謝をもって、その霊体を祀る事が出来れば、かならず鎮める事が出来るはずだ。
それは、わたしのアカシックレコードに記録が在ったよ。
我ら、地球すべての霊体が、心よりの感謝をもって、焦点を定め、祝祭を行なう。
実行するには、少なくとも三つ以上の隕石ガラスが必要なのだ。」
源一郎の所持してる『隕石ガラス』は、二つだった。
現代人はそうしなくなったから、100年後も危ういと...。いや、戦後すぐから100年後なら、けっこうもうすぐだぞ。 |
No.115
「これは、僕の仮説だが、原子爆弾で隕石ガラスが粉々に破壊され、
無数のガラスに成った時、同時に、恐怖と憎悪と叫びが充満し、結果、
その場に、とてつもない怒りの霊気が焦点を結び、
大気中にありとあらゆる形をとり昇華、出現したのではないのか。
まず、最初に、古来よりこの地球に居る霊体に怒りの霊動が急速に浸透し及んでいるのではないか。
その怒りの霊動を打ち消すのは、論理ではなく、きっと、無条件の感謝なのだ。」
テスラが、深く考え込んだ末言った。
「恐怖からは、感謝はおこるすべも無い。」ミスター老杉が、つぶやいた。
「感謝と言ってもどうすればいいのでしょうか。」常田堂が聞き直した。
「その通りだ、ただ単に、しろと、言われて本当に出来るものでは無い。
しかし、我ら、古来からの霊体がつぎつぎと、滅んでゆく事は、
人間にとって、もはや早急に生存の保証を失う事になるだろう。
感謝をすると云う事だが、
これは、科学的な因果の図式での解決は無理と、
ノンモは熟考し、気がついたのだろう。」
「意図的な感謝ほど、うさん臭いものは無いでしょう。」
常田堂は胸を張って、雲海をおおきく仰いだ。
「ふむ!ノンモは、常々、ギリシャのオリンピックを、
人間の自ら為した行為の中では、最高だと礼賛していた…。」
「ギリシャの神々は、オリンピックによる人間の行為を受け入れ、満足したのですか?」
常田堂が目を見張って聴いた。
「そうだ。私の記憶の知りうる限り、最高の感謝と感動が、神々に降り注いだ。」
「オリンピック!オリンピック!」留松が飛び上がった。
「どうだ、ここに古代ギリシャ同様の、真のオリンピックの開催を宣言して、
世界に、人間の本当の明るさを作り示すとしたら、どんなものであろうか。」雲海がひときわ閃いた。
「人間が無条件に出来るのは、こんな事しか無いかも知れん。
今在るオリンピックとは、異なる、霊体を讃えるための真の祝祭だ。」
ミスター老杉が、独り言のように言った。
「これが、ノンモの祝祭の意味なのだ…。」
源一郎は、山頂で深く紫煙を吸った。 |
No.116
微細な異音に、源一郎は何気なく振り向いた。
その時、背後のブリストルコーンパインの中でも、
一番大きな巨木が、物凄い音を立てて斜面に崩れ落ちた。
その木の根の部分が持ち上がり、岩の中からうねる根っこが表われた。
「人間たちよ、私の名はガルーダだ。もはや私も、ここを去る時が来た。
私は此処に一万年の歳月を生きた。
…なあ、メスーゼラ、それは間違ってるよ。われわれはおとなしく引き下がろう。
人間に干渉してはならない。
君が残りの『隕石ガラス』を入手して、復讐したい気持ちは分かるが、
われわれの『契約』にはそれは無い。」
雲海が激しく発光した。
「ガルーダ!君もか…。」
「焦点を定め、祝祭を行なうと、どうなるか、メスーゼラ、君は分かっている…。」
根がギシギシと音を立てた。
少し離れた所の、もう一つのそれほど大きくないブリストルコーンパインも、
音を立てて斜面に根が露になった。
メスーゼラの樹身だった。
「メスーゼラ、復讐のために、それ程の人間の気魂を集めても、無駄だよ。
古代ギリシャの、賢人たちの開催したオリュンピアの祭典は、私も注目した。
それでかって無い程の、感動で人間の気魂が、盛り上がったのは事実だ。
事実、われわれ宇宙理性は、相当の善的な次元エネルギーを獲得した。
だが、感謝の波動などは、われわれの『契約』外だ。
感謝と云うのは、われわれを超えているのだ…。
オリュンピアの祭典でも明らかだった。
感謝などというものが出来る人間は、僅かしかいない。
焦点を定めた祝祭でも、動かせるものは僅かこの銀河系ぐらいのものだろう。
今、この現実の世界はことごとく、驚くべき怒りの次元にアセンションを起している。
…感謝の次元へのアセンションは無理だ。
われわれに、それを止める『契約』は無い。
さらばだ。」
そこまで言うと、ガルーダは突然激しく発火した。
真っ赤な火柱とともに、一万年の歳月を生きた巨樹は、人間たちの目の前に消滅した。
|
No.117
「ガルーダ、君は此処を去ってしまったのか…。
なんと風変わりな亡くなり方なのだろう。
しかし、誤解の無いように皆に言うが、私には、人間への復讐心など耳あか程も無い。
私は賭けに出たのだ。
このまま行けば、世は怒りに満ちて、早晩、人間の破滅は間違い無い。
破滅を免れる道は、ほぼ無いと言っていいだろう。
放っておけばイイのだ。復讐などしなくとも…。
オリュンピアの祭典の様な焦点を定めた祝祭でも、ほとんど可能性は無いかもしれない…。
しかし、オリュンピアの祭典の明るさがどれほどのものであったか、
おそらくガルーダには見当もつくまい。
いままで、私は出来るだけ人間に関わりたくなかったのは、人間の思い上がりが嫌だったからだ。
しかし、だからと言って、この段になり、ただ人間を傍観する事が、
どれほどの堕落の心を、私に起させるのか気がついたのだ。
人間ほどこの世で救われないものも無い。
救いようの無いものを、放っておく事は出来ない。
私には出来ないのだ!
私はここに宣言する。
私は破滅を承知で祭典を開く。
ここに、人間の無類の明るさを記念してやりたいのだ。
場所は古代の神々に敬意をはらい、ギリシャ、オリュンピアとする。
時は四年後、夏至から二番目の満月の、前後五日間を指定する。
名も同じ『現代/オリュンピアの祭典』とする。
種目は、古代同様だが、新種目も吟味することにしよう。
これは、おのおのの力を振り絞った、究極の人間の祭典になりうるだろう。」 |
No.118
ついに、
その日が来た。
ギリシャの空と海は、何処までも透明な明るさと激しさを持って人間を迎えた。
ひときわ高らかなファンファーレがオリュンピアの祭典の開催を告げると、
古代オリュンピア記念競技場は、熱狂の歓声で真っ二つに割れんばかりの熱に覆われた。
いままでのどのような出来事よりも、世界の人々のが待ち望んだ日となった。
メスーゼラの告知がされてから四年の間、
どれほどの人間的な時間が世界を巡ったかは、これから始まるそれぞれの競技がすべて、
古代オリュンピアの祭典のまま裸体で行なわれる事を考えても、すでに大変な変化と感じられた。
会場周辺では、一切の電気、内燃機関で動くものは禁止され、
古代オリュンピアの祭典にふさわしい環境が整った。
世界中から集まって来た人々は、不便さの中に、強靱な「人間」を回復した。
古代オリュンピア記念競技場のトラックの中心部を四分割するように、
三本の大理石のオベリスクが高々とそびえてた。
その尖った二本の頂点には、開会とともに源一郎の所持していた隕石ガラスが嵌め込まれた。
ギリシャの強烈な太陽に、先端の鋭い輝きは、直も強烈な光線を発し始めていた。
瞬間、
雲一つない天空から、物凄い轟音と共にメスーゼラの気魂が、ここに落雷した。 |
No.119
古代オリュンピアの神ゼウスは、メスーゼラの気魂で在ったのか!?
競技場の隣接する森にはメスーゼラへの感謝の神域も設けられていた。
開会第一日目はおごそかながら、開放感と明るさに満ちたセレモニーで始まった。
参加者と審判団の、メスーゼラの気魂への感謝の礼拝中、
神託を受け、感電したかのごとく脱魂する者も多数出た。
もはや、古代も現代も無い処となった。
前代未聞の恐ろしい程の数の人々が、競技場周辺に集まっていた。
この人間の力のみを使って行なわれる競技こそ、メスーゼラの興味であった。
人間の行為において多少のものは、規則で縛るよりも、人間の品位の問題とされたのだ。
オリュンピアの法律のほとんどは、人間の品性に任された。
制限ではなく本来の自由が尊重されたのだ。
会場周辺では、あらゆる興行や飲食店、露店が出店し、
芸術家、音楽家、詩人、学者、乞食、なども類をなして集まり、試合を討論した。
もちろん、賭けは公認されていた。
会場周辺は、まるで、解放区の様相を呈したが、
人間と云う者はおもしろいものだ、返って自主性の中に混乱は抑止された。
午後からは、早速古代に則ったパンクラティオンの競技が始まった。
参加者は、裸体にオリーブオイルを丹念に塗る者、明るい色の土の粒子を塗り込む者など、
肉体の美しいフォルムを観客達に見せる者もいた。
パンクラティオンとは、ルールなしの格闘技だ。
勝敗を決定するには、降参の指を立てる合図をする以外に試合の終わりは無い。
もちろん急所を蹴り飛ばしても、反則にはならない。
この競技は怪我人が続出する…。古代には大勢死者も出ている。
おっと、そうだ、
唯一、医療機関は、電源の使用を許されていた。
しかし、治療に関しても、
普通の医学から、呪術、メデスンマン、針治療、あらゆる種類の治療が公認された。
そう、もう一つ電源の使用を許されたものがある。
ラジオの生放送だ。
全世界のラジオ局は、
オリュンピアの熱狂のありのままを、口から泡を吹かんばかりに白熱の実況をした。 |
No.120
「ここ、オリュンポスのスタディオンは綺麗に晴れ渡っております。
いよいよ、史上最強の格闘技パンクラティオンが始まりました。
競技者は、アーチを通り抜け、
鳥の様に優雅な羽ばたきを模したダンスを踊りながら、入場して参りました。
短くカールした黒髪からはオリーブオイルの滴りも見られます。
鍛え抜かれた裸体にもオリーブオイルがたっぷりと塗られ、ヌメヌメと陽光が踊っております。
一方で、このすべての階級をかなぐり捨てての、
古代から引き受けたルール、裸体での勝負は、現実に、何か高揚するすがすがしさを覚えます。
人間としての自信を取り戻す感すらあります!
ストレッチをする競技者、何事か祈りを捧げる若者、
ジャンプを高々としてアピールしている者もあります。
この対戦相手は、トーナメント方式で、くじ引きで決められております。
この競技では二番手と云うものはありません。
古代に則り、優勝者以外はすべて敗者という事です。
しかも、優勝者にあたえられるものはオリーブの冠と、名誉だけです。
前評判では、レスリングの世界チャンピオン、オストアンデルが、優勝候補です。
一方の予想は巨体ゴットパエーリヤです。
おっと、初っ端から優勝候補のゴットパエーリヤの登場です。
あ、今いよいよ、審判の合図とともに一組目の試合が始まりました!」
ラジオの実況アナウンサーは、はやくも興奮した口調で、早口に喋った。
すでに怒号と喧噪の渦と化した会場が、試合開始の一瞬間静寂を保つと、
再び、自らの声すら聞こえない状況となった。
興奮する観客の中には、源一郎、テスラをはじめ、
常田堂、留松、ミスター老杉も、ここに居るはずであった。
「かかってきなさい。」ゴットパエーリヤが低くつぶやくのが、クロメダカスには聞こえた。 |
No.121
ゴットパエーリヤは哲学者でもあった。小山の様な巨体の動きは、緩やかに見えて素早い。
その内省的な目つきは、クールな判断力をも感じさせた。
クロメダカスは、褐色の肌を持つ小柄な若者で、前評判にも上らぬ無名の選手だ。
真直に、両者を讃えるドラムが低くリズムを唱える。
ダッ、グルッタ、グルッタ、ダダダ、
ダッ、グルッタ、グルッタ、ダダダ、
ジリッ、ジリッ、と時計まわりに静かに回り始めた。
当然勝負はゴットパエーリヤ圧勝の展開かと思われた。
クロメダカスは、ゴットパエーリヤのすきを伺いながら、左に回り込むフェイン
トと同時に瞬間右に出た。
しかし、連戦錬磨のゴットパエーリヤだ。
すかさずクロメダカスのフェイントを見破り、ゴットパエーリヤは上から両腕で挟み込んだ。
そのまま打棄るように後方にクロメダカスを投げた。
クロメダカスの体は五メートル程宙を飛んで、柔らかい地面に叩き付けられた。
「ごまかしは、自ら病を高づる。」ゴットパエーリヤはつぶやいた。
泥に突っ込んだクロメダカスは、このミノタウロスの様な対戦者が、師匠のように思え、たった今目が醒める様な思いがした。
クロメダカスは、素直にうなずいた。
立ち上がりながら、ゆっくりゴットパエーリヤの真正面に直ると、構えから力を抜いた。
「おお、覚ったか、お若いの。これは見込みがあるやつじゃ。
勝つ事に気を取られていては、おもしろい勝負にはならぬ。さあ、そのまま来なさい。」
ゴットパエーリヤの目が輝いた。 |
No.122
クロメダカスはゴットパエーリヤと、がっぷりと組み合った。
ゴットパエーリヤは、真綿を締めるようにじりじりと力を出して来た。
物凄い力に、クロメダカスの全身の骨がミシミシと撓む音が聞こえた。
「恐怖に負けてはいけない。
私との戦いではない、君の中の恐れとの決着をつけなさい。
勝敗は其処に在るのだ。」
クロメダカスは言われるまま、素直に従った。
己の恐怖を振り払うべく、渾身の力を投げに転じようとした。
瞬間、頭の中が真っ白になった。
クロメダカスは、再び十数メートルも先に投げ飛ばされ、泥に半身が突っ込んで
いた。
「まだだ。自分で事を起してはならないぞ、
みなぎる自然の力が自ずから起るのを待つ事を学びなさい。
格闘技だからといって、乱暴な心になってはいけない。」
ゴットパエーリヤの言葉はクロメダカスの心臓を突いた。
クロメダカスは、目からウロコが落ちる様な気がした。
格闘技をこのように捉えた事は、いまだかって無かった。
いったいゴットパエーリヤとは何者なのだ?
突然クロメダカスの身体の内部から、何者かの力が爆発するようにみなぎって来た。
自分の視野が、自分の背後までも広がった気がした。
クロメダカスは立ち上がると、再びゴットパエーリヤの正面に立った。
その構えには、不思議な輝きと、みちがえる様なやわらかさが備えられていた。
双方が再びがっちりと組み合うと、
磐石の巨大な積み石のようにまったく動かなくなった。 |
No.123
勝敗というのは、人智を超えるものである。
一度勝敗を気にかける事のなくなった、二人の動きは、自然の雄大さを備えた。
組み合うスピードは、ゆっくりに見えて恐ろしい程速い、
繰り出す技の展開の速さに審判でさえ目を丸くしたものだ。
観客は、崖と波、嵐と森、自然の中の、厳しい力の対決を見てる思いになった。
これは、いくら見ていても飽きることのないものである。
パンクラティオンが、人間同士の殺し合いの歴史を超えて昇華したのだ
いのちを賭けた格闘技が、憎しみの地平を離れた瞬間だった。
やがて、天空に一筋の眩いばかりの雲が沸き起こり、スタディオンに黄金の雨を降らせた。
突然何を思ったか、ゴットパエーリヤは、降参のサインを高々と上げて試合は終わった。
観客は訳が分からず、どよめく歓声と、罵倒の声で、会場は騒然とした。
ゴットパエーリヤは、そこで引退を宣言した。
「私は、これ以上を望まぬ。もう、満足だ!」
無名のクロメダカスに、有り金全部を賭けていた男がいた。
クロメダカスの友人、船大工のメンラーだ、
メンラーは、こんな事から、一日にして巨万の富を手にした。
人の運というものは、変わりはじめると速く、
とどめようが無くなるものなのだ。
こうなるとメンラーは負ける気がしない。
メンラーは、その勝ちのすべてをクロメダカスに再び注ぎ込んだ。
無名のクロメダカスは、圧倒的な人気を泊して、一躍スターダムにのし上がった。
しかし、それを根こそぎ叩き潰そうという無敵の男が、含み笑いで競技者の控えに現れた。
そう、オストアンデルだ。
「地獄の使者」を名乗るオストアンデルは、血みどろの試合を繰り返し、
すでに、今大会で、二人も死者を出してた。
会場では、乞食詩人の朗読が声高に聞こえ、ビール売りが声を張り上げ、
人々の興奮と期待は、極限にまで高まっていた。
パンクラティオンの最終勝者決定戦が近づいていたのである…。 |
No.124
地獄の使者、オストアンデルは、
たった今、水から上がってきたかのごとく、黒髪も、闘士型の鍛えた筋肉も、
オリーブオイルでぬめぬめと滴り光っていた。
彫の深い顔立ちは、役者を思わせた。
見る者を射るような、強烈で残忍な視線は、色の薄い瞳から発せられていた。
ほとんどの相手は、これに見つめられただけで、竦み上がった。
巫女の様な緋の衣を着けた女達が、二十人ほど常に取り巻き、いつも周囲は異様な興奮状態であった。
その外巻には、相当数の若い女達が二重三重に囲み、喧噪の中で恍惚の表情を浮かべていた。
オストアンデルを中心にうねるように、片側のスタディオン競技者の控えが揺らいでいた。
船大工のメンラーが、様子を見に、その取り巻きをかき分けオストアンデルに近づいた。
すると、何か得体の知れない強烈な香りに、気分が恍惚となりかけ、慌ててそこを離れたのだった。
「お前の対戦相手は、普通じゃねえぞ。なんだか近づくだけで、こう、気分がおかしくなってくる。」
メンラーが口に泡を飛ばしながら、興奮して喋った。
傍らで、自らクロメダカスのコーチを申し出たゴットパエーリヤが言った。
「そう。あいつは、普通じゃない。ほとんどの相手は、恍惚の表情で殺されてる。
これは、戦いとしては超ウルトラクラスになるかも知れないね。」
メンラーが目を剥き出して続けた。
「それに、今までの対戦した相手は、恍惚の中、
すべて手刀で心臓を掴まれて引っ張り出されたんだぞ。
あまりの残忍さに、ひでえブーイングの渦が巻き起こったよ。」
ゴットパエーリヤが天を向いたまま言った。
「まず、私の考えでは、あいつの目を見つめてはいけない。
だが、弱点もきっと目に在ると思います。
クロメダカス、全感覚を研ぎすまし、空気のごとくに何も無くする事ができますか?
髪の毛一筋ほどでも、心に感情が涌けば、その場で殺されますぞ。」
やがて、スタディオンに高らかにファンファーレが鳴り渡った。
いよいよ入場アーチのドラム群が一斉に乱打され、
最初にオストアンデルが、ジャガーの皮を被り、美しい踊りを踊りながらアーチを入場して来た。 |
No.125
何処からか打鐘の音がした。
見ると上半身裸、頭を坊主に丸めた精悍な男がアーチの上から鐘を打鳴らしている。
将来行者だ。
読者は思い出して欲しい。一体この男は何者なのだ。
引き続いて、クロメダカスが入場して来た。全身が黄色の土の粉で擦り込むように化粧されている。
腰をかがめるように、低い姿勢で舞いながら入場して来た。両手に持つ杖で時折背よりも高くジャンプを繰り返した。
この所作は稲妻が落雷する瞬間を思わせた。
さて、いよいよ会場の興奮は沸点に達した。歓声で何も聞こえない。
審判の合図ととともに、パンクラティオンの最終勝者決定戦がついに始まった。
クロメダカス、オストアンデル、思いも掛けず、両者、正当な組み手のフェアな試合で始まった。
ガシッと組んだかと思うと、すばやくクロメダカスはオストアンデルの背後を取った。
オストアンデルは、体を落として動物の素早さでそれを抜け出てた。両者は再び組み合った。
観客の声援は、双方に五分五分の声が飛んでいた。力量はほぼ互角の戦いである。
激しく雨が、森に降り掛かる、そんな目の覚める様な美しい戦いが、其処に展開された。
しばらくすると、クロメダカスの動きがおかしくなって来るのが分かった。何か表情に恍惚としたものが表われたのだ。 |
No.126
がっしりと組み合う腕の中で、朦朧としたクロメダカスの厚い胸板に、
狙いを定める水鳥の嘴のように、オストアンデルの手刀がそっと添えられた。
ゴットパエーリヤは、あらんかぎりの声を張り上げて怒鳴った。
「離れろ!クロメダカス。そいつから離れるんだ!組み打ちはよせ、離れて戦え!」
クロメダカスは、ゴットパエーリヤの声に呼び戻された。
頭をブルブルっと振って、その場から、突然火が着いたように飛び退いた。
オストアンデルの腕の届く範囲は、知らずに恍惚として意識が混濁してしまうのに、
クロメダカスは気づいた。
「なんて特技だ、心臓を引き抜かれるとこだった。」
クロメダカスは、オストアンデルに不用意に組み打つことをやめた。
「君のように技の美しい青年は、私は初めて会ったぞ。私の身体を今までにない満足が通り抜けた。
さあ、この上は、私と君とどちらが人間としての強さと美しさを持っているのか、フェアな戦いではっきりとさせよう。」
オストアンデルは、ゆっくりとクロメダカスの動きを牽制しながら、近づいてきた。
「いかん!クロメダカス、やつの目を見つめてはいけない。」
ゴットパエーリヤの声が何処かに聞こえた。
しかし、これはけっしてクロメダカスには不利な展開ではなかった。
幼い頃、中国の少林寺で直接習い覚えた少林拳を、存分に使うチャンスがでてきた。
少林拳は、こちらから仕掛ける事は無かった。
クロメダカスは、ゆっくり目を閉じた。
存在は、目に見える形から、感じられるエネルギーに変化した。
落ち着いて、目を閉じて見渡すと、クロメダカスには熱の輻射が手に取るように分かった。
恐怖の無い自ずからの中に動くという事は、これほどに違うのである。
前方に、虹色の歪みの様なものが空を切ってゆっくり飛んで来るのが分かった。
首を少し動かしただけで、クロメダカスはオストアンデルの強烈な蹴り上げを変わした。
クロメダカスは、全てが、十分の一のスローモーションにコマ落ちしたかの世界に居た。
力を入れずとも、身体が自然に素早く動き、考えられない速さで攻撃に転じた。
オストアンデルは、数回の攻撃で美しい鼻筋をボコボコにされた。 |
No.127
オストアンデルの顔は、見られないものとなった。
「く、くそ!ゆるせない、私の顔が…。」
オストアンデルは降参のサインを高く上げた。
まだまだ余力を残しての降服である。
スタディオンは、クロメダカスへの連呼と、割れんばかりの歓声に溢れた。
クロメダカスは、オストアンデルに走り寄り、手を差し伸べ握手をしようとした。
オストアンデルはその手を掴み、鋭く手刀で一撃にクロメダカスの胸をついた。
「何故?」クロメダカスの顔が問いかけた。
勝負は終わったはずだった。
オストアンデルは、その心臓を引き抜くと高々と天に掲げた。
「見ろ!私はサインを出したが、降参はしていない。」
審判はあっけにとられ、返す言葉を失った。
スタディオンは水を打ったように静まり返った後に、狂気を帯びた怒号の渦と化した。
オストアンデルの何と言う卑怯、何と言うえげつなさだ。
前代未聞の勝負に、あたりは騒然となったまま収集がつかなくなった。
高々と掲げられたクロメダカスの心臓は、ボロ切れのようにスタディオンの中央にぶち捨てられた。
容赦ない太陽の輝きは、其処に深い影を落としていた。 |
No.128
「いったいこのような非道に対して、神々はだまって見ておられるのか?」
ゴットパエーリヤは、クロメダカスのまだ生温い遺体をかき抱いて、天に侮蔑の言葉を吐いた。
「神もクソもあるか!生きてる方の勝ちだ。」
オストアンデルは、唾を焦げるような熱い大地に吐きかけると、足早にその場から居なくなった。
すると何処とも無く大きなまだらの牛が現れ、
灼熱の太陽を背負いゴットパエーリヤの目の前に、崖のようににそびえた。
「俺は今まで、いろいろ見て来たよ。しかし、これが人間の本性ではないのかね?」
牛が言葉を吐いた。
「いや、違う。オストアンデルのしたことは、最低の事だ。人間として在ってはならない事だ。
やつは、ルールを無視し、自分の事しか考えないノータリンだ。ちゃんとした人間はまったく違うぞ。」
ゴットパエーリヤはクロメダカスの目を閉じさせ、自ら黙想するように言った。
「人間とは、もっとも残忍非道なものだな、
恐ろしい事だ。
いのちの先に在る、己の魂が信じられんとみえる。」
巨大な岩が動くように、牛はゆっくり首を返した。
「パンクラティオンの試合は、いのちの激しいぶつかり合いだ。
全力を出し切る人間が素手で戦う、そこにいのちを賭ける相手への尊敬が在り価値がある。
オストアンデルは、自分の自慢の鼻がへし曲がったのが気に入らず、クロメダカスを殺した。
…それが戦う男のすることか。」
ゴットパエーリヤは、涙ぐんで拳を思いきり固めた。
牛は、無言で群集を一蹴すると、ゆっくりと立ち去った。
オリュンピア全体に何か空しい空気が流れた。
いつの世にも不正は有るが、このような不正は、人間の品位をも根こそぎ貶めた。
余談ではあるが、始末に負えない出来事として、オストアンデルの名はオベリスクの一角に不名誉を永遠に刻まれた。
クロメダカスの心臓はフィールドの中央に埋められ、
「ルール無しにはどのような競技も成り立たない、
パンクラティオンの勝者クロメダカス、この場に不正により死す。」
という、黄金の銘板にて悲痛の記念碑が残された。
記念碑は、あのメンラーが総ての資金を供出し、建立されたのである。
銘板は、天空を射る様な、驚くほどまばゆいばかりの光を放った。 |
No.129
「どけどけどいてくれ。じゃまするやつは死んでも知らんぞー。」
先走りの男衆が、スタディオンの入場口の人込みを無理矢理かきわけた。
めまいのするような炎天下の中、陽炎に揺らいだ戦車の一団が
ドドドーッ、ドドドーッと、つぎつぎとスタディオンに入場して来た。
ファンファーレの音と共に、どよめく様な歓声が次々と会場に沸き起こった。
いよいよオリュンピア最大の呼び物、古代に則った戦車競技が始まるのだ。
これは四頭立ての馬による、壮絶な戦車レースの競技で、
スタディオンの幅広いトラックを十周できた一番速い者が勝者だ。
見物は第四コーナーから直線のゴールだが、五十騎ちかくの出場で、完走するものはわずか五から十という、
壮絶きわまりないレースなのだ。
もちろん死者も続出する危険きわまりないものだ。
吟遊詩人の哀調を帯びた歌声がどよもす会場に流れた。
「おい。この戦車競技ほど、ルールが無視されるものもないそうだ。」
パン屋のマウマウンテネグロが興奮して伸び上がった。
「噂じゃ、車輪にノコギリの付いたギリシャ戦車も公然さ。
フランスの富豪や、イギリスの冒険家、お忍びでアラブの王族も出てるらしい。」
居酒屋の亭主のユーバイゲイトルンデハも、すでにオッズ表片手に紅潮した顔で言った。
飛び道具、武器、は禁止されたが、その他、鞭、素手での格闘には規制はなかった。
馬と人と戦車のコントロールはことのほか難しい。また資力が無ければ出場も難しいのであるが、
このレースには、民族の威信をかけて、さまざまな国が、スポンサーとなって才能有る個人のバックに付き、参加していた。アフリカ王族の華麗な戦車など直接参加も有った。
個人競技と違って、国、民族単位の露骨な戦いは、戦争に発展する危険も含んでいた。 |
No.130
ここに二人の観客を紹介し、この二人にこのレースについて語ってもらう事にしよう。
マウマ・ウンテネグロ
職業 パン屋
職人である。彼のつくるパンはともかく、余技であるピザに絶大なお客の人気が集中、頑固にも
絶対にこのピザを誉められても、苦虫をつぶした様にニコリともしないアフリカ系イタリアーノだ。
もちろん生地は手打ちである。平手打ちも得意だ。平手打ちで犬を気絶させたこともある。
腰には棒を携帯している。
戦車競技を語らせるとまったくうるさい。
ユーバイ・ゲイトルンデッハ
職業 居酒屋のマスター
格闘技の賭け事という賭け事、カブト虫の決闘から、ハブとマングースの戦いまでまったくの勝負好きだ。
もちろん馬の善し悪し、追い込み、仕上がりには、ともかくうるさい。
喋り出したら止まらない。ユニークな視点な勝負感はいいが、穴ひいきで、当ったためしがない。
しかし、穴を当てた話となると真直ぐ一文字に口をつぐんでしまう、
ドイツ系ニューオリンズ野郎だ。ブルージーなハーモニカを、喋りの合間に伴奏がわりに吹く。
マウマ・ウンテネグロ
「おい、ドイツ人。
しかしだ。ノコギリの付いたギリシャ戦車、あれを知ってるか?
やつにやられたら、どんなやつもまいってしまうな。
この戦車、作るのに金も掛かるぞ。
今回はアフリカの王族が、ダイヤの産出による潤沢.な資金でこの羽振りだよ。
ノコギリに一千個のダイヤの歯がうまっているらしいのさ。まったく凄い。
まずは、どうみてもこの戦車、俺に言わせりゃ優勝候補の一角だ。
そもそも戦車の弱点は横の面に集中している。そこをガリガリと攻め立てるわけだ。卑怯だねー。
乗るのは、王族の直系、『ザグティ王子』。長身だ。
まったく非のうちどころのないシルエットで戦車を操る勇姿は、婦人どもをちびらせるぞ、わははは。何てこったい!」
ユーバイ・ゲイトルンデッハ
「♪パプゥウウーワウワウワウゥゥ♪、 おミェーに食わせるシャウエッセンはねえ!♪
僕の感じではね。まずね、優勝はエジソンだよ。アメリカのエジソン社の開発した、機械人間が乗る『エジソンボブ』だ。
こいつは凄いよ。頭から湯気を出してこいつは馬より速いんだ。馬を引っ張る勢いですよ!ははは。
おっと、いけない!もっと凄いのがいた。
♪ピヨォオオオ、ワォウウウウゥ♪、トップは『ジェームス・ランシング』だ。
こいつは西部の男です。インディアンでも何でも来いという、凄い荒くれ者ですよ。鞭の名人。
馬の扱いは右に出るものがない。中心の馬はハーツフィールドという馬でリッパですね、外側がパラゴン、
これが凄くて、紙一重の気狂い馬で出力は凄い、内側がメトロゴンという巨体のジャジャ馬で蜘蛛が大嫌いだ。
蜘蛛を見るなり、まったくフリーズしてしまうという噂ですよ。」 |
No.131
「おい、それじゃ、一頭たらんじゃないの、ドイツ人。」
「ああ、いけない、忘れてたよ。凄いのが居た!
ウエスタンだ。この馬は喋る。まあ見てれば分かる。
おお、いよいよスタートだぞ!」ユーバイ・ゲイトルンデッハは飛び上がった。
物凄い歓声とともに、戦車がスタートを切った。
もう、何を喋ろうが聞こえなかった。
スタートすると同時に五台ほどの戦車がクラッシュして、たちまち大惨事のスタートとなった。
投げ出された御者が後続の馬に次々と蹴りあげられ転がった。すぐに救助隊が駆け付け、御者をコースから引き抜いた。
そこをノーマークで抜け出た戦車があった。低いボディの奇天烈な形は、アールヌーボーを思わせた。
黒い漆塗に柔らかい金線が何とも言えず華麗だ。しかもたずなを捌いているのは女だ!
長いスカーフをなびかせ、戦闘服に身を固めているがそのしなやかな横顔は端正で美しい。
エントリーナンバー9番は、『若紫』だ。 |
No.132
初盤レース展開を有利に進めようと、一周目の第四コーナーを十数台の戦車が団子状になって突っ込んだ。
横並びになると、たちまち戦車同士は接触し、アフリカ王族直系ザグティ王子の、
ノコギリの付いたギリシャ戦車にみるみるホイールを切り崩され、もんどりうって数台の戦車が転がった。
しかし、たずなを捌くザグティ王子の長身の身のこなしは、むしろ涼しげな風であった。
「きたねえな!金にまかせて、ダイヤモンドのノコギリホイールとはな。
だが勝ちは勝ちだ、俺はザグティの優勝に全財産を賭けてるんだ。強い者が勝つ、これがルールだ。」
マウマ・ウンテネグロが吐き捨てるように言った。
ぐんぐんと力強い走りでトップにいるのは、評判通りナンバー5番のジェームズ・ランシングである。
直線での馬のパワーは並ぶ者がない。
「へへ!やっぱりトップですよ。馬力が違う。秘密兵器馬のウエスタンが出るまでもない。
このままぶっちぎりですね、馬券的には、エジソンボブが来て欲しいんですけどね。
でも金じゃ無い、勝負は感動、おもしろさですって。」
ユーバイ・ゲイトルンデッハは、得意満面でのけぞって言った。
先行のジェームズランシングの後を、
冒険王、エジソンボブ、ザグティ王子、アラブ王、フランス貴族、などの先頭集団が行き、
後方に、若紫、の集団が追う展開となった。
「おっと!忘れちゃいけないよ。凄いやつがまだ紹介されて無い。
こいつはまるですってんてんの貧乏人だが、腕と度胸を買われて超スポンサーが付いた実力派だ。
人喚んで『天空乞食様』!、今は最下位をゆうゆうと練り走っているぞう。」
通人のタケ・ダ・ケダーが、事も無げに二人の間を割って入った。
「天空乞食様あ!?」
同時に左右から、ほうけた二人の顔がタケ・ダ・ケダーを振り返った。 |
No.133
皆が、最下位を眺めると、なるほどそこには汚らしいかっこうの男がスマイルを浮かべて、馬を操っていた。
四頭の馬はどれもすばらしい馬だ。
ゆっくりと練り込むように走る戦車は、わざわざ押さえ込んで走る風な感じさえ受けた。
長髪も鬚も伸ばし放題に伸ばした風貌だが、やわらかなスマイルのどこかしらに天性の才気が感じられた。
ユーバイ・ゲイトルンデッハは、ベルトに挟んであった望遠鏡を取り出した。
「彼を何処かで見たが、思い出せない。」
マウマ・ウンテネグロは、その望遠鏡を引ったくった。
「ああ、何かこのお方、全体に光を帯びている気がするのは、俺の目のせいなのか。」
「…うおぅ!!」二人は同時に、誰かを思い出し、息を飲んだ。
二人は、あまりの出来事にへなへなとそこへ座り込んでしまった。
それは、あの十字架に架けられた人だ!
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No.134
レースは終盤になり、ザグティ王子のギリシャ戦車は次々と破壊を繰り返し、
上位をブロックして、抜きん出る者をすべて葬り去った。
トップからジェームズランシング、エジソンボブ、ザグティ王子、若紫、が十メートルほどの距離で一直線上を走り、
しばらくおいて、最下位の天空乞食様が追い上げて来てた。
ザグティ王子が勝負に出た。
馬に鞭を入れ、前を走るエジソンボブにじりっじりっとノコギリホイールが接近してきた。
「ひえー!そっちがやるなら、こっちにも考えがあるよ。」銀色の人造人間エジソンボブが煙りを吹き上げて吠えた。
すると、エジソンボブのホイールからもノコギリが飛び出て来たのである。
これでは容易に抜きさる事は出来ない。
コーナーが迫り、エジソンボブとザグティ王子は接触、瞬間にコントロールを失った。
互いのノコギリホイールで、ホイール同士がバラバラに吹き飛んでしまった。
はずみのついた戦車はもんどりうって大破した。
決死の若紫が、スカーフをなびかせ二台の隙をついてインを抜きにかかった。
若紫の俊足の四頭の牝馬は、ここぞとばかりの瞬発力を見せつけ一気に駆け抜けた。
若紫の首に何かが巻き付いた。
ホイールを無くした戦車を、ソリのようにコントロールするザグティ王子が鞭を飛ばしたのだ。
横から引っぱり上がるようにしてザグティが若紫に襲いかかった。
乗っ取られそうになった若紫の戦車は大きくスピンするようにしてコーナーを切った。
その瞬間、斜前のジェームズランシングの戦車に鞭を振り子のように使い、ザグティが飛び移った。
驚いたのはジェームズランシングだ、戦車上ではの素手での殴り合いとなった。
それを横目でゆっくりと見ながら、天空乞食様の戦車はゴール前を悠々と抜き去っていった。
最後の直線での事であった。
観客は総立ちとなり、ゴール付近は大混乱となった。
混乱を鎮めるかのごとく壮麗なドラミングが起り、ファンファーレが高らかに鳴らされた。
「優勝は、最下位に居られた天空乞食様だ!」
「あの十字架の上の方だ!」
「ハレルヤ、ハレルヤ」
あちらこちらから声が上がった。
ここに戦車競技の勝者は、勇気ある者の栄誉の印、オリーブの王冠を受けるはずだが、彼はもうそこには居られなかった。
いつしか競技場の丘は雨になった。 |
No.135
戦車競技が終わり、短い開催期間のすべてのプログラムが終了した。
ぽつぽつ降り始めた雨は一転して物凄い雷雨となった。
まるで人間の行いを、神々が怒りをこめて打ち砕くかのごとく、稲妻が鋭く落雷した。
終わりよければ全て善しとはゆかぬ。あらゆる競技に低次元の闘争が露骨だった事への神々の不満であろう。
戦車競技や、パンクラティオンだけではない、
古代の単純なルールに則ったオリュンピアの競技が、事ごとく気持ちのすっきりしないままに終わったのである。
人間の歴史というのはかくも、欲と怨念に満ちたルール無き不正がまかり通る戦いであったのか?
これは間違っている!何かがおかしい、何処かが間違っているのだ。
この単純さ、ルールの神聖さこそが、失われていたものである。
人間の明解な輝きは、其処にこそ在るはずであったのだ。
この全国から集まった多勢の観客も、このさまざまな古代競技の心の奥で納得ゆかない幕切れに、爆発しかねない様相だ。
閉会のセレモニーは、一触即発の気運を孕んでいた。
人々は、最後に残ったこの不満が何処から来るか分からずにいた。相手国の不正をののしり合い、自分らの憎悪を焚き付けた。
ザグティ王子の国旗に、何処かから火が投げ付けられた。
会場は大混乱となった。
この成行きを見て、メスーゼラは深刻さを増して無口にならざるを得なかった。
オリュンポスの森一帯は夜の様に真っ暗になった。
オベリスクの先端に、神々も驚くほど強烈な落雷があった。 |
No.136
オベリスクの頂点が異様に深い紫色の光を発した。
其処に、死んだはずのクロメダカスが空中より出現した。
会場は未曾有の大混乱となった。
「クロメダカス?」ゴットパエーリヤは我が目を疑った。
「浮かばれないのか?」メンラーは、目玉が飛び出すほどにみつめた。
クロメダカスは無言で、地を指差すと消えた。
その地は、クロメダカスの心臓の埋まる場所であった。
その時、メスーゼラの気魂が激しく水蒸気を大きく四方に吹き上げた。
「無駄にしてはならぬ。クロメダカスの不正による死を思い出せ。
人間のすべての輝きは素朴さに宿っている。
ずるがしこさでは人間の真の勝利は永遠に得られない事を、
人間は深く胸に刻まねばならぬ。」
人々が忘れ去った頃、その地から、青々とした松が生えた。 |
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